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第八話   ジレンマ

 ソファーから身体を起こして亮二は煙草に火をつけた。少し眠ってしまったようだ。

 瑠花はそのあいだずっと、亮二の腕のなかでじっとしていた。煙草の煙を深く吸い込んでゆっくりと吐くと、このうえない満足感が込み上げてきて、すぐに空しさが亮二を襲った。幸福の絶頂にたどり着けばあとは降りるしかない。瑠花はもうすぐ、帰る、と言うだろう。


「泊まってもいい?」

 瑠花がソファーに横たわったまま呟くように訊いたので、亮二は耳を疑って瑠花の顔をじっと見た。

「迷惑だったら帰るけど」

「迷惑だなんて思うわけがないだろう」

 亮二は瑠花をぎゅっと抱きしめて額にキスをした。

 軽い足取りでキッチンに行きグラスと赤ワインを持ってくる。こんな風に瑠花と過ごすことになるならつまみでも用意しておけば良かったと、亮二は空の冷蔵庫を見て悔やんだ。


 今日の瑠花はよくしゃべってよく笑う。ふたりであっという間にワインを一本あけた。

「日記、書かなくていいの?」

 瑠花がグラスをテーブルに置いて訊いた。

 亮二は忙しくても、なるべく日記を毎日つけようと心がけていた。日記を書きだしたのは脚本を書いて、いつか映画を作りたかったからだ。日々起こることや心に残ったことを書きとめだしたのがきっかけだった。


 年功序列の映画業界で、資金もない若僧が映画監督になるなど夢のまた夢だと、東京に来て亮二はすぐに悟った。大それた夢はあきらめても惰性で日記を書いていたが、そのうちだんだんつけなくなった。すると、そのころから気を失って記憶がなくなることが、ときおり起き始めた。多いときには日に二回も起こったこともあれば、何年間もその症状がでないこともあった。初めは気にするほどのことではなかったが、そのうち記憶のない時間が長くなった。喫茶店のトイレで気絶して気づいたら四時間も経っており、金を財布から抜き取られていたこともある。病院に行っても脳には異常が見られず、ストレスによるものと診断された。

 結局のところ原因はよくわからなかったが、脳を活性化させるために日記を書いたらいいと医者に勧められて、いまでも日記をつけている。


「後で書くよ。このところ症状がでてないからね、ちょっとさぼり気味だ」

 亮二はワインを瑠花のグラスにつぎながら言った。

「今日は何て書くの?」

「ミューズが僕の上に舞い降りた……かな」

 瑠花はワインを口へ持っていったところで動きをとめて吹き出した。

「若い子に言わないほうがいいわよ、キモいって言われるわ」

 そう言って、瑠花は楽しそうに笑う。


 亮二はワインをもう一本あけた。なぜだか瑠花といるとホッとする。ほろ酔い気分で床に座っている瑠花を後ろから抱きしめると、瑠花は亮二の手を取って指をからめた。

「君のことを知りたい」

「知っているじゃない」

「もっと知りたい」亮二は耳元でそっと囁くと、後ろから瑠花の耳に優しくキスする。「君はどんな子供だったの?」

「普通よ。人見知りがちな、本ばかり読んでいた女の子だった」

「本は読まないって言わなかったっけ?」

「ハッピーエンドしか読まないって言ったのよ。小さいころ「人魚姫」を読んだの。人魚姫に命を助けられた王子は、人魚姫に癒されてずっと側にいて欲しいと言うのだけど、隣の国の王女が自分を助けたと誤解して、王女を愛して妃にするの。恋が叶わなかった人魚姫は泡になってしまうという、とても悲しいお話。それ以来、悲しい本は読まないの」

「アンデルセンだね」亮二は瑠花の髪を撫でた。


「それから? もっと君のことを教えて」

「もっと?」

 瑠花は振り向いて亮二の顔を見ると視線をすぐに宙に移し、少し考える素振りを見せてから話し始めた。

「母は昼も夜も仕事をしていたから、家に帰っても独りだったの。友達はみんな習い事をしていてね。ピアノやバレエや絵画教室。だから放課後は一緒に遊べないの。発表会に行ったら、みんな綺麗でキラキラしていて、羨ましかった」

「そのころ出逢っていたら俺が遊んでやったのに」亮二は優しく瑠花の頭を撫でる。

「初恋はいつ?」

「内緒。とても大切な想い出だもの」瑠花がクスっと笑った。

「俺よりいい男?」

「もちろん」

「やけるな、そいつより先に君に逢いたかったよ」

 亮二は瑠花を抱きしめている腕に力をこめると、瑠花の手を握ったまま、反対の手でさらさらした髪をかきあげてほっそりとした首に唇を這わせた。

 柔らかくて温かい唇を感じると、瞼がだんだんと重くなってきた。

「もう、眠ったほうがいいわ。明日も忙しいんでしょ」

 瑠花にうながされて亮二はベッドにもぐり込んだ。氷のような顔をしていても、瑠花はいつも温かい。亮二は瑠花の温もりを全身に感じながら眠りについた。



 ブラインドの隙間から差し込む朝の光が眩しい。亮二は眩しさに耐えかねて寝返りをうった。目の前にある瑠花のほっそりとした背中。瑠花の静かな寝息と遠くで聞こえる小鳥の声が、満ち足りた気分にさせた。まったりとした心地のよい朝だ。

 亮二はうとうとして眠りと覚醒のあいだを行ったり来たりする。温もりを求めて瑠花の身体に腕をまわして後ろから抱きしめた。身体全体に柔らかい感触が伝わる。瑠花はそれに応えるように亮二の腕をしっかりと受け止めた。亮二が足を彼女にからめると、瑠花は指を亮二の指にからめた。そのまま瑠花を抱きしめて夢のなかを漂う。このまま時間が止まってしまえばいい。瑠花が愛しい。目を開けたら消えてしまいそうで亮二は強く抱きしめた。全身全霊で瑠花を愛したいという欲求に負けそうになる。徐々に、そして確実に、瑠花に心を奪われていく自分を否定する。

 瑠花を大切にしたいと思えば思うほど、亮二は素直にその気持ちに従えない。

 本気になったら何れおまえは瑠花を傷つけると、心の奥で声がする。


 姿を消した瑠花と再会したのは何年も経ってからだった。瑠花は店を辞めたあと、男の金で語学を学んだ。いまでは英語だけでなくイタリア語とフランス語を話す。皮肉にも、白金にマンションを買ってもらって、紫と住んだ家のすぐ近くに住んでいた。親の借金も母親の入院費用も、すべて男がだした。青山の店の開店資金も男が用意したのだろう。あの男なくして瑠花の生活は成り立たない。そういう男と張り合うだけ無駄だ。しかも男は、瑠花が他の男と付き合うことも許している。ひとりの女も幸せにできない自分が、そんな甲斐性のある懐の大きな男に勝てるわけがない。

 だけど、こういうまったりとした朝はこのまま永遠に瑠花と魂をともにしたくなる。

 無防備な彼女は腕のなかにすっぽりとおさまって、亮二の身体は熱くほてり狂わしいほどに瑠花を欲している。いま、瑠花の首筋に唇を這わせて求めてしまったら、きっと心も持っていかれる。心が瑠花を求めるときは彼女を抱けない。

 突き上げてくる衝動を押さえつけて彼女を心で感じていると、カチッという目覚まし時計の針が合わさった音がして、すぐに電子音が部屋中に響いた。

 アラームの音が亮二の葛藤を終わらせた。


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