第七話 妻が家をでた夜
眠るためだけの亮二の部屋は、グラスやカップがあちらこちらに散乱して脱いだ靴下が床に散らばっていた。亮二がざっと部屋を片付けると、ミッドセンチュリーのテーブルやソファーが置いてあるリビングは、あっという間にショールームのような生活感がない空間へと姿を変える。
チャイムが鳴って亮二が扉をあけると、着心地の良さそうな長袖のTシャツにジーンズを履いた瑠花が立っていた。長いさらさらしたストレートの髪からは微かにシャンプーの匂いがする。亮二の理性は一瞬でふっとんだ。
そっと扉を閉める瑠花を、靴を脱ぐ間も与えずに強引に抱きしめた。身体に触れると、亮二のなかをいっきに熱いものがかけめぐって計算も駆け引きもできなくなる。瑠花の柔らかい頬を両手で押さえて唇を押しつけると、瑠花は力を抜いて亮二に身をゆだねた。まるで逢えなかった時間の一分、一秒を取りもどすかのように、凍っていた心が溶けていく……。
「逢いたかった」唇が離れると、瑠花は氷のような瞳から熱い眼差しを向けて呟いた。
亮二は瑠花からこの言葉を聞けただけで、他のことはすべてどうでもよくなる。なんども口づけをしながら廊下を移動し、転がるようにしてリビングのソファーに倒れ込んだ。
「何か飲む?」亮二が耳元で囁くと、「後でいいわ」と瑠花は軽く首を振る。
亮二はそのまま瑠花の耳にそっとキスして包み込むように覆いかぶさると、身体をソファーに沈めていった。
亮二は運命を信じない。正確にはもう信じていない。
遠い昔に一度、運命を感じた女がいた。彼女に出逢うために生まれてきたと本気で信じた。一緒にいるだけで、青く歌うように澄んだ空にも、美しさを競い合って微笑んでいる草花にも、無条件で心をよせることができた。生きとし生けるものが、それぞれの役割のもとに生かされているように、彼女に出逢えた奇跡に意味を感じた。だが、いまは違う。幾度偶然が重なろうとも、亮二は運命の出逢いを信じることはもうない。それは、瑠花に対しても同じだった。
――瑠花との偶然の出逢いは一度ではない。銀座で飲んだ一年後に再び街で逢った。それは紫が家をでた日のことだ。
亮二は随分と前から紫とは口を利いていなかった。紫の気持ちも考えていることも、全くわからなくなっていた。そういう日が来ることを予感していたけれども、何もしようとしなかった。夜中に外出する紫を止めることも叱ることも、話し合うこともできなかった。紫が荷物をまとめて家を出て行ったあとも、荒れて飲んでいるだけのふがいない自分をごまかして、あおるようにまた酒を飲んだ。
六本木で飲んでいたのに気づいたら銀座にいた。店を三軒はしごしたのは覚えている。こんな日は誰とも会いたくなかった。それで銀座に行ったのだろう。独りで飲んでいたのがいけなかった。酒は許容量をはるかに超えていた。
大通りを歩いていたら子猫が見えた。亮二は猫を追って路地にはいる。ひと懐っこい猫だった。アレルギーのことなど忘れてしゃがみこみ、亮二は猫を抱きあげた。そこまでは覚えているが、これを最後に亮二の記憶は途絶えた。
* * *
意識が一瞬もどったとき、亮二はタクシーのなかにいた。まるでミケランジェロの彫刻「ピエタ」のように、優しく微笑む聖母マリアに抱きかかえられている夢を見ていた。次に気がついたときは柔らかなベッドの上で、目の前には優しく微笑む瑠花がいた。
ベッドと鏡台があるだけの瑠花の部屋は、銀座のナンバーワンホステスが住むとは思えない、とても質素な部屋だった。瑠花の父親は瑠花がまだ小さいときに事業に失敗して失踪し、母親は高校にあがったころに病に倒れたと聞く。瑠花は高校を中退し、年をごまかして夜の世界にはいった。病気の母親の莫大な入院費と父親の残した借金を払う必要があったのだ。亮二が事情を知ったのはだいぶ後のことだったので、このときは苦学生のような部屋を見て不思議に思った。
目が覚めて戸惑っている亮二に、瑠花は飲みすぎだと注意して水のはいったグラスを差し出した。瑠花の話によると、酔って路地で寝ていた亮二を彼女がたまたま見つけた。起こそうと顔をはたいても目を覚まさないので通行人に手伝ってもらってタクシーに乗せたものの、行く先がわからず、仕方がなく自分の部屋に連れて帰ったということだった。
「こんな大きな人をタクシーに乗せるのは大変だったんだから」
そう言って瑠花は笑った。
化粧を落とした瑠花の顔は整っているがまだあどけない。上目遣いで亮二を見て、唇の端を少し持ち上げて微笑む小悪魔のような瑠花の表情が、亮二は好きだった。
ふと瑠花と交わしたキスの感触が甦ってきた。優しく亮二を包みこんだ柔らかな唇。もう一度、あの優しさに触れて癒されたくなる。あの時間に瑠花の働いている店の近くを故意に歩いていたことに気がついた。
空のグラスを受け取ろうとして伸ばした瑠花の手を、亮二はいきなりつかんで力強く引き寄せた。驚いた顔をして瑠花が亮二の上に倒れ込む。亮二が左手を瑠花の腰にまわして腕に力をこめて抱きしめると、切れ長の神秘的な瞳が亮二を捉えた。射抜くような氷の視線が試している。亮二は目をそらさずにそれを受け止めた。瑠花の柔らかい身体を全身に感じる。吐息が耳をくすぐり心臓の音が早くなる。カチ、カチ、という時計の音が響いた。
実際には五、六秒ほどの時間が、もっと長く感じられた。瑠花が先に瞳をとじて、ふたりを隔てていた緊張の糸が切れる。亮二がゆっくりと動くと、瑠花の唇が前のときと同じように優しく亮二を包みこむ。唇を重ねると歯止めがきかなくなった。亮二はすべてを忘れて、瑠花の豹のようなしなやかな肢体に身体を重ねていった。
亮二が銀座の店を訪ねたのは、それから一週間してからだった。もっと早く連絡をしたかったけれども気持ちの整理がつかなかったのだ。
瑠花はもう店にいなかった。政界の大物だか、経済界のドンだとか、社会的地位があり並外れた経済力を持つ男に囲われて三日前に店を辞めていた。家も引っ越したあとだった。男の正体はわからないが、相手が誰であろうと亮二には関係ない。瑠花はもういないのだ。もっと早く連絡をすれば良かったと、少しだけ後悔したが、そうしたところで何も変わらなかっただろうと諦めた。出逢ったときから瑠花とはタイミングがずれていた。亮二は瑠花に癒されたことをすぐに忘れた――