第五十九話 赦し。解き放されて
東京へ帰る日は懐かしい匂いで目が覚めた。母が台所で早くからみそ汁と握り飯を作っていた。亮二がみそ汁だけ飲んで家を出ようとしたら、半強制的に握り飯を持たされた。
寂しそうな母の眼差しを背中に感じながら家を出て、亮二が加賀温泉駅に着いたのは九時四十分だった。駅の待合室をのぞいて瑠花がまだ来ていないことを確認した亮二は、予約した駅弁を改札近くの売店で受け取って駅前広場で瑠花を待つ。
亮二はマルボロライトを取りだしてデュポンで火をつけた。大きく煙を吸い込むと、少しのあいだ息を止めてから一気に煙をはく。心身ともにリラックスしていくのを感じる。今朝は起きてから煙草を吸っていなかった。あんなに亮二に無関心だった母が急に世話を焼きたがり、高校時代は煙草を吸っても何も言わなかったのに、いまになって亮二が煙草を吸うのを嫌がった。
母の身勝手さにはほどほど呆れたけれども一年に一度くらいは顔をだしてやるかと、煙草をふかしながら考えていた。
亮二は煙草を靴の裏でしっかり消して吸い殻を携帯灰皿に捨てた。腕時計の針は九時五十分を指している。その後は煙草に火をつけては腕時計を見るという行為を幾度も繰り返していた。
山代、山中、片山津の温泉街のホテルから送迎バスが次々に姿を見せ、亮二は乗客の中に瑠花を探す。バスやタクシーが着くたびに亮二の胸は期待で膨らんだが、瑠花はそのどれにも乗っていなかった。
十時になっても瑠花は姿を見せない。亮二はもう少しだけ待つことにして、改札と待合室に瑠花がいないか見に行った。
いまにも瑠花が「お待たせ」と言って肩をたたくような気がした。だが、瑠花は現れない。
十時十分になってホームへと移動した。ホームに続く、ひとつしかない階段を上がると左右を見渡して瑠花の姿を捜す。亮二は階段の前で瑠花を待った。
脳裏に瑠花の冷たい瞳が浮かぶ。亮二は頭を左右に激しく振ってその映像をかき消した。
いつのまにか、鐘を規則的にたたくようなけたたましい金属音がホームに響いている。電子音のメロディが聞こえて電車の到着を知らせる自動放送が流れた。
「ファーン」というパイプオルガンのような警笛を鳴らして「しらさぎ」がホームにはいってくる。亮二は左右を見渡してから指定席の扉に向かって歩いた。
紅葉を楽しみに訪れた老夫婦や五、六人の年配の女性たちのグループが、会話をしながら次々と電車を降りてくる。亮二は心に染みいる鶴仙渓の紅葉を思い返した。橋の上にたたずんでいた瑠花の姿が頭に焼きついている。
頑に拒絶する瑠花の哀れな横顔に別れを告げ、眉間にしわをよせて目をとじると、亮二は乗降口のステップに左足をかけた。
その瞬間、ホームの堅い地面にリズムを細かく刻んだ靴音が響いた。
亮二が音のするほうにゆっくり振り返ると、コートのボタンも閉めずに髪を振り乱して、階段を息せき切って駆け上ってくる女性の姿があった。
高めのヒールをはいているそのひとは、何かにつまずいて危うく倒れそうになる。すんでのところでバランスを立て直した彼女は、乱暴に靴を脱ぐと全速力で走った。
寒いなかを必死に走ってきたのだろう、頬が真っ赤だった。
亮二は急に目頭が熱くなり、涙が溢れそうになるのをぐっと堪える。
瑠花が、なりふり構わずホームを走っていた。
その女性が瑠花だと確信するまで少し時間がかかった。瑠花が血相を変えて一心不乱に走るなど、考えも及ばなかったから。
瑠花はいつだって凛として動きに無駄がなく、流れるように動いて決して慌てることなどない。どんなときでもクールで感情に流されず、落ちついていてなにごとにも動じない。
亮二はステップを降りて瑠花に駆け寄ると持っていた荷物を放り出し、両手を広げて飛びついてきた瑠花を全身で受け止めた。
「もう離さない」
強く宣言して、しっかりと瑠花を抱きしめる。
亮二が首を傾けると、瑠花は両手を亮二の首の後ろにまわしてつま先で立った。唇が触れて時間が止まったような気がした。
瑠花はかかとを降ろすと顔をクシャクシャにして子供のように声をあげて泣き、亮二はただ黙ってもう一度、瑠花を抱きしめた。
ふたりの時が一緒に流れ始めた。
この回で最終章は終わりです。
最終話のエピローグ、一話を残すのみとなりました。
読んでいただいてありがとうございます。
あと、一話、おつきあいいただけると嬉しいです。