第五話 傷だらけのピエロ
大きくカールした艶のある栗色の髪が、白く透きとおったなめらかな肌の上で踊って、肌をいっそう透明に見せている。非の打ちどころがない上品で整った顔立ち。挑戦的な揺れる大きな瞳が誘い、光沢を放った深みのあるワインレッドの唇がほのかに透けて、いまにも語りかけてくるようだ。
制作ルームに貼られた化粧品のポスターのモデルが、妖しげな微笑みで部屋にはいってくる者を出迎える。
「女性が選ぶ憧れの女優ランキング」で三年連続一位、「男が惹かれる妖艶な女優ベストテン」でも二年連続一位の人気を誇る売れっ子だ。CMは七社と契約、昨年は映画を三本と連続ドラマ二本に主演していた。
働きだして二ヶ月になる若いバイトが、資料のはいった重そうな段ボールを抱えて制作ルームにはいってくると、壁のポスターを見るなり大きな声をあげた。
「これ、新しい桜花堂のキャンペーンのポスターじゃないっスか! スゲェいいなあ。俺、白鳥ゆかりの大ファンなんスよ。この妖艶で誘うような瞳がいいっスよね。白鳥ゆかりなら、三十過ぎてても全然オッケーっスよ」
「おいっ、ほら。余計なことはいいから仕事しろ」
斎藤が亮二の顔をチラっと見て言う。
当のバイトはそんなことはおかまいなく、夢中で話しを続ける。
「ふつうはアイドルって結婚したら終わりっスよね。だけど、白鳥ゆかりは離婚してからスゲェいい女になって、さぞかし別れた旦那は後悔しているんだろうなぁ」
斎藤は亮二の顔色をうかがってそわそわしている。亮二は気づいているのかいないのか、知らん顔だ。とうとう斎藤は堪えられなくなってバイトを怒鳴った。
「いい加減にしろ!」
「へっ?」バイトはなぜ怒鳴られたのかわからなくて、きょとんとしている。
やっと、この話題が斎藤の気分を害していることに気がついたようだ。しかし、この男は救いようがなく鈍い。
「白鳥ゆかりって、斎藤さんのタイプじゃなかったスか? なんか仕事で揉めたんスか? もしかして、性格がすごく悪いとか……? そうだったら、俺、ショックだな」
「おまえなぁ」
斎藤はもうお手上げだった。斎藤があたふたするのを見かねて、亮二が立ちあがった。
「おい、バイト。その女を養うのには最低一千万は稼がねぇとならねぇぞ。それでもいいなら紹介してやる。それから、ついでだから言っとくが、俺はあいつと一緒になったことは後悔しているが、別れたことはこれっぽっちも後悔してねぇぞ」
亮二は不機嫌そうにドアの方へ歩いていき、これ見よがしに音をたてて扉を閉めると、煙草を吸いに部屋をでた。若造に馬鹿にされたことよりも相手にしてしまった自分に腹が立つ。
「馬鹿か、おまえは。ファンなら、もうちよっと勉強しとけよ」
川崎は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしているバイトの頭を、丸めた書類でポカッとたたくと、亮二を追って部屋をでた。
トップアイドルだった白鳥ゆかりと別れて十年も経つのに、「ゆかりの元亭主」という名が亮二には未だについてまわる。ゆかりと結婚していたことを世間が忘れさせてくれない。
――昔は、ゆかりのような女を連れていることが自慢だった。
初めて白鳥ゆかりにあったころ、彼女は本名の「白鳥 紫」という名を使っていた。
当時は紫との一分一秒が輝いていて、紫が望むことならば何でも叶えてやりたかった。披露宴の招待客は五百人を超え、花婿なんていい笑いものだとぼやいたけれど、紫のために天井からゴンドラで降りてくるという恥ずかしい趣向までやりとげた。
紫は三回もお色直しをして亮二を呆れさせたけれど、若くて魅力的な彼女が選んだドレスはどれもとてもよく似合って、その息を飲むほどに華麗で気高い姿に、実のところ、亮二は惚れ惚れしていた。式で紫の真珠のような涙を見ると、熱いものが込み上げてきて、必ず幸せにしてやろうと誓った。――
ふんっ。涙に騙されて一生あんな女を守っていこうと誓うなんて、俺も青かった。
亮二は鼻を鳴らして笑った。
最近は開き直って「白鳥ゆかりに捨てられたかわいそうな元旦那」を売りにしている。
これがキャバクラではなかなかうける。どうせ陰で噂されるのなら、自分をピエロにして笑い飛ばしてしまえばいい。おもしろおかしくネタにして、ときどき胸が苦しくなる。
亮二が喫煙ルームで煙草を吸っていると、川崎が何気ない顔をしてはいってきた。
「一本いいですか?」
川崎は亮二から煙草を一本もらうと、うまそうに煙を吐いた。
「禁煙してんだろ?」
「意思が弱いなあ、オレ」
「おまえに心配されるようじゃ、俺もおしまいだな」
「何のことです?」川崎はとぼけた。「それより、きのうは大丈夫でした?」
「そろそろハードリカーはやばいな。そんなに飲んだつもりはなかったんだけど、玄関で朝まで寝ちまったよ。おまけに、変にリアルな夢までみるし。俺も年だな」
「またですか。それで夢の中で女性に顔でもはたかれました?」
「そんなんじゃねぇよ。おまえがガキのころの夢だ」
「池下さんが純情だったころですか?」
川崎はにやりとして亮二の顔を横目で見る。
「ちぇ、おまえだれにも言ってないだろうな?」
亮二は舌打ちして、夢の中の自分はそう若くもなかったのだ、と心の中で呟いた。
「それにしても何でベッドまでいけないんですかね。マジ再婚、考えたほうがいいですよ」
「おまえが先だろ。一度もしたことねえやつに言われたかねえよ」
「僕は独りでいられるからいいんですよ。池下さんは根が寂しがり屋ですからね。本来、女がいないとダメなタイプでしょ」
川崎が言うことは当たってなくもない。亮二は苦笑いをした。
川崎は亮二のことを好き勝手に言って、先に喫煙ルームを出て行った。
亮二も煙草を消してデスクにもどり、漢方を飲もうと瓶をあけて顔をしかめた。薬は丸薬ではなくてカプセルだった。昨日の夜中に漢方を飲んだのも夢だったのかと、亮二は首をかしげる。
そのとき急に机の上の携帯が振動して、瑠花からメールがはいった。亮二は慌てて携帯を取ろうとして漢方の瓶をひっくり返す。カプセルが机いっぱいに広がって、亮二はそれを両手でかき集めた。
なにやってるんだ。と思いながら、カプセルを瓶にもどしてメールをあける。
メールには「逢いたい」と一言だけ書いてあった。
その短い文章が亮二の心を揺さぶる。
あんなに瑠花のメールを待っていたのに、いざメールを受け取ると亮二は深みにはまるのを恐れた。今夜は撮影も編集も打ち合わせもない。十時にはオフィスをでられるのに、「時間が読めない。遅くなってもいいか?」と、亮二は返信した。
ひとりで盛り上がっている気がして熱を冷ましたかった。感情のコントロールが利かなくなるのが怖い。もう若いころのように気持ちに任せて突っ走ることはできない。瑠花に溺れるわけにはいかないことを、亮二はよくわかっている。
夕方、川崎とは別のプロジェクトを担当しているプロデューサーの中山と、次のニューヨーク撮影について打ち合わせをしているときに瑠花から返信がきた。
『どんなに遅くなっても待っている』という返事に、亮二は思わずガッツポーズを取りそうになる。
気持ちを抑えたくても抑えられない。さっきの戸惑いは、メールを見たとたんに吹き飛んだ。
「いやだなぁ、池下さん。メールを見てニヤけて。何かいいことでもありました?」
中山は妙に勘がいい。誰と誰ができているなんてことはすぐに見抜く。男と女のことには特に鼻が利くのでゴシップに関しては業界きっての情報通だ。
「別に、おまえが興味を持つネタじゃねえよ。ほら、早く続きを説明しろ」
亮二は機嫌良くそう言うと、急にやる気をだした。
決めなければいけないことをさっさと決めて、今日は早々にミーティングを終わらせようと、もくろんでいた。