第五十七話 変わりゆく季節の中で……
怒濤のような夏があっという間に駆け抜けた。あおあおとした葉が赤や黄色に色づきだして、街行く人々は厚手のジャケットに袖を通し始めた。秋の新番組もとっくに始まって、優希のことは話題に上らなくなっている。紫は年下の脚本家との結婚が決まって、性懲りもなく派手な結婚式をすると、週刊誌が報じていた。
仕事の傍ら、亮二は瑠花を探し続けている。以前のように、気持ちを引きずっているだけの毎日は嫌だった。瑠花を見つけるためにできることは何でもしようと心がけた。何もしないで失うよりはいいと思えた。
その日は中山が準備していたエステのCM撮影があって、亮二はスタジオに顔を見せた。
結局、タレントは姫宮あんりに決まったので、今日は田辺巫女に逢うことになる。巫女が自分を覚えていたらめんどうだが、きっと覚えているにちがいないという予感がした。
昼を食ベ終えて一服しているときに、昔に比べて貫禄が備わった巫女と顔を合わせた。
「先生ですよね? とうとう、お逢いできましたね」
「ひさしぶりだね。君にとっては、僕と逢うのは何年ぶりかい?」
巫女が普通に話しかけてきたので、亮二も隠さず正体をあかした。
「夢を見たんですの。先生の夢。ですから、近々お逢いすることはわかってましたわ」
「どんな夢だい?」
「女性を探してらっしゃいますよね?」
的をつかれて亮二はびっくりした。
「そのことお知らせする役目を受けて、私は今日ここへ使わされたのです」
「教えてくれ、瑠花はどこにいる?」
「その方はいつもあなたの近くにいました。いまもあなたに縁のあるところにいます」
「どこなんだ? どこへいけば、瑠花に逢える」
亮二が巫女の肩を揺さぶると、巫女はその手を丁寧に払い、如来のような笑みを浮かべて諭すように答えた。
「紅葉の美しいところです。すぐに行けば逢えますよ」
「縁のある、紅葉の美しいところ?」
加賀か? まさか、あの戯れ言を瑠花は覚えていたのだろうか?
瑠花に話をした鶴仙渓は、三方を山に囲まれた山中温泉にある風情豊かな渓谷だった。こおろぎ橋は、渓谷のまんなかを流れる大聖寺川の美しい渓流にかかった総ヒノキ造りの趣深い橋だ。加賀きっての紅葉の景勝地として知られている。
あそこに行けば瑠花に逢えるのだろうか?
亮二は二十軒以上もある山中温泉の旅館に片っ端から電話をかけたが、宿泊者のなかに瑠花の名前はなく、予約については教えられないと、けんもほろろに電話を切られた。
迷っている時間はなかった。明日の打ち合わせには川崎を行かせることにして、二日間の休みを取った。入社以来、自分の都合を仕事より優先したのは初めてのことだ。
川崎は何も訊かずに、「式場を探しておきますよ」と涼しげに微笑んだ。
亮二は明々後日の午後の打ち合わせには必ずでると言って、翌朝山中温泉に向かった。
朝一番の飛行機に乗って小松空港に降り立ち、水田が果てしなく広がる平野を超えて、タクシーが山中温泉に着いたのは九時半になるころだ。山中温泉を囲む三方の山は燃えるような紅色の木々が山肌を覆って、幾重にも色を重ねていた。
半数以上の宿が河畔に建って鶴仙渓を見下ろしている。亮二はすぐに瑠花の写真を持ってめぼしい旅館をまわった。少し気がひけたが、自殺する可能性があると告げると、みな親身になってくれる。写真を見た誰もが、こんなに目立つ綺麗な女性を見かけたら覚えているだろうと言った。
いまのところ瑠花を見た者はいない。瑠花が立ち寄ったら連絡をくれるように頼んで、すべての旅館をまわり終えたときには午後一時を過ぎていた。
足早に温泉街を歩いているうちに本当にここで正しいのかと不安になった。山中温泉は端から端まで周遊バスで一周しても四十分でまわれるこぢんまりとした温泉街なので、ここにくればすぐに逢える気がしていた。しかし、いくら小さな街だとはいえ、道端で偶然出逢えるほど狭くはない。それに加賀は紅葉の名所にことかかない。加賀の街全体がキャンバスのように赤や黄色の美しい色彩に包まれている。奇岩遊仙境で有名な那谷寺もそのひとつだ。鶴仙渓でないかもしれない。
亮二は瑠花が立ち寄りそうな、山中漆や加賀の九谷焼きといった、伝統工芸が展示されているギャラリーやショップもまわって情報を募ったけれど、有力な手掛かりがないまま時間だけが経ち、そろそろこおろぎ橋に行ってみることにした。
こおろぎ橋は、左右から真っ赤に染まった大きなもみじの葉が覆いかぶさって、橋の中央で黄色や緑が少しずつ異なる色と混ざり合い、素晴らしいグラデーションを描いていた。自然の織りなす華麗な姿に圧倒されながらも、紅葉に心をときめかせる余裕は亮二にはない。
辺りを見渡して瑠花を探してみたけれど、そう簡単に出逢えるわけもなく、橋の詰めから階段を降りて川沿いの遊歩道にでた。下から見上げると紅葉に包まれたこおろぎ橋が清流をまたいで、橋と川と紅葉が一体になった風情ある情景に溜め息がでる。瑠花とここを歩いている自分を想像して、亮二は気持を強く持った。
上流のこおろぎ橋から黒谷橋までの一・三キロメートルの遊歩道を、亮二は三十分かけて歩いた。普段なら癒しを感じる小川のせせらぎや滝の音が心に沁みた。松尾芭蕉が、「この川の黒谷橋は絶景の地なり。行脚の楽しみここにあり」と詠んで、絶賛したという優雅な黒谷橋は、ノスタルジックな気分にさせる。亮二は黒谷橋を渡って鶴仙渓を離れ、バス停に向かった。
バスに乗り込んだところで、さっき亮二が訪れたこおろぎ橋の近くのギャラリーから、瑠花らしき女性が立ち寄ったと、電話があった。
店主によると、女性はひとりでふらりと店にはいって来て、漆のジュエリーや九谷焼の若手作家の作品を手に取ってみたという。漆のアクセサリーを数点買って、店をでるときに、こおろぎ橋への行き方を訊ねたらしい。
瑠花に違いないと、亮二は直感した。
亮二は運転手に無理を言ってバスを降り、早歩きでいま来た道をもどる。
ここからこおろぎ橋までは三十分かかる。亮二は全速力で黒谷橋までもどった。
遊歩道にでて、さっき来た道をこおろぎ橋めがけて走る。すれ違う人が、なにごとが起きたのかという顔で亮二を見た。電話を受けてから十五分は経っている。写真を撮っている人のカメラの前を、待たずにかまわず走り抜けた。湿った土の上を歩くたびに靴が滑って足が取られる。歩きやすい靴を履いて来なかったことを悔やんだ。
こおろぎ橋との間にある、S字型にカーブした渋いピンク色のモダンな橋が見えてきた。草月流家元がデザインしたという「あやとりはし」だ。
亮二が何気なく橋に目をやると、橋の中央より少し向こう側に懐かしい顔を見つけて、自然に亮二の足が止まった。
瑠花が絵のなかにいた。
流れるような曲線を描く洗練された優美な橋が、俗界を離れた風流な山間の渓谷に見事に調和して、木々の彩りを背景に美しい風景画を描いている。
瑠花はとても自然にたたずんで、まるでその絵の中にずっと存在しているかのようだ。
亮二は急いで階段を上がり橋を渡った。橋が大きくカーブを描き終えた辺りで、瑠花は写真を撮るわけでもなく、景色を目に焼きつけるかのように、じっと風景を眺めていた。
橋は大きく弧を描いているので、亮二が近くに行っても瑠花は全く気づかずに谷底を覗き込んでいる。亮二は急に瑠花が飛び降りてしまうのではないかと不安になって声をかけた。
瑠花は振り返って亮二と目があったとたん、顔色を変えた。
逃げるように橋の反対側に渡ろうとした瑠花の右腕を亮二がつかむ。腕を振り払おうとする瑠花を力づくで引き寄せて後ろから抱きしめると、瑠花は動かなくなった。
「やっと、見つけた」
消えてしまいそうな気がして、瑠花をしっかりと腕のなかに包み込んだ。
瑠花は少し痩せたようだった。亮二は胸がいっぱいで何も言葉にすることができずに、心臓が大きく波打つのを感じていた。
「君じゃないとダメなんだ」
亮二はしばらくしてそう囁くと、深く一回、大きく息をして言った。
「結婚しよう」
瑠花は身体をぴくっと動かすと、腕を振り解いて亮二を押しのけた。
「池下さんとは、もういられない」
「あの事故は君のせいじゃない。亜紀と別れたことは、君とは関係ないんだ」
亮二は子供に言ってきかすように、優しく語りかけて瑠花に近づこうとするが、瑠花は冷ややかな顔で首を左右に振り続けて、どんどん後退りする。
「俺がどれだけ君に癒されて助けられてきたのか、わからないのかい?」
「そんなことで、私のしたことは消えないの。あなたの苦しみを知っていながら、ずっと黙っていたのよ」
「例えそれが罪だとしても、もう充分に君は苦しんで、償いは果たしているよ」
「亜紀さんは踊れなくなったのよ。一生かけても償いきれないわ」
瑠花は強いまっすぐな視線を亮二に向けて、冷ややかに答えた。
「亜紀だって恨んでないよ。それに君は俺の苦しみをいつも和らげてくれた」
「違うの。私がしていたことは、すべてあなたに対する負い目からなの。あなたのことを考えてじゃないわ。本当に愛していたなら告白できたはずよ。私は、池下さんの苦しみを知りながら自分のために黙っていたのよ」
「俺だってそうだ。君といたいのだって、全部、自分のためだよ。それでいいじゃないか。ここにいるだけでいいって、君がそう言っただろ」
ずっと能面のように表情を変えなかった瑠花が、一瞬、悲しそうな顔をして笑ったように見えた。瑠花は身体を手すりの方に向けて空を仰いだ。せせらぎの音が聞こえた。
「愛したひとを傷つけた女をあなたは愛せるの? 亜紀さんが転がり落ちたとき、私は転落させるつもりじゃなかったと思っていたけれど、本当にそうだったのかしら? 私はあのとき、あの人をとても憎んでいたわ」
瑠花は振り向くと、氷のような瞳で亮二を射るように見た。とても冷たい目をしていた。
「終わったことだ。君が亜紀を憎んでやったことだとしても、俺がやらせたようなものだ。過去にとらわれてちゃダメだ。一緒に未来を見よう」
「あなたとの未来? 考えられない」
瑠花は悲しそうに笑って、首を左右に振った。
「これから先ずっと、俺は君といたいんだ。さあ、一緒に帰ろう」
「決めたことなの。あなたとはもう逢わない」
瑠花は右手で左の手首をつかみ、左手を口に添えた。
「俺は諦めないよ。明後日の朝、十時十五分の特急しらさぎ六号で帰る。加賀温泉の駅の駅前広場で十時に待っているよ」
「行かないわ」
「待っている。もう一度、考えてみてくれ」
亮二は切符を握らせたが、瑠花はきっぱりと拒絶した。
「何回、考えても同じ。よく考えて決めたことよ」
瑠花は実に冷静で、その決意は堅く、少しも揺らぐことがないように見えた。
瑠花の瞳は憂いを帯びて暗く悲しみに満ちている。最後まで微笑みを見せずに頑に亮二を拒絶する瑠花に対して、ふたりの未来を信じる以外に亮二は成す術がなかった。