第五十四話 ひとつの恋が消える瞬間(とき)
店をでた亮二は、亜紀に逢って遠い昔に終わらせられなかった気持ちに決着をつけようと、目黒川沿いを必死に走った。激しく地面を蹴るうちに亜紀を探して走ったときの気持が鮮やかに甦ってくる。
亜紀が別れを告げにきたときに想いをちゃんと伝えることなく、成り行きで別れてしまったことが長い間亮二を縛りつけた。
あの日、亜紀を見つけることが出来ていたならと、どんなに思ったことか。
こんどこそ過去としっかり決別しないと、また先に進めないような気がして、亮二は無我夢中で亜紀の部屋へ急いだ。
亜紀への気持ちが情や執着といった類いのものなのか、本当に彼女を必要としているのか亮二には判別がつかない。懸命に走りながら、激しく亜紀を求めた昔の記憶を辿っていると、瑠花の包むような暖かさに癒された記憶がいつのまにか心に忍び込んできた。
全身全霊を傾けてひた向きに愛情をぶつけてくる亜紀と、ただ静かにそばにいて、いつでも温かく迎え入れてくれる瑠花との想い出が交互に浮かぶ。
瑠花は何も求めず何も訊かない。亮二は瑠花が自分に興味がないからだと思っていた。だが、心を開いてみると、その献身的な愛情にやっと気づいた。すると、瑠花との日々の一瞬一瞬が美しく彩られて、かけがえのないものに思えてくる。氷の顔に隠された瑠花の本心は、心の目でちゃんと見ていればわかったはずだった。
いつのまにか、亮二は瑠花と過ごした時間ばかりを思い起こしていた。
瑠花との日々が過去の想い出より重かった。
「大切な人なんでしょう?」という瑠花の問いかけが心に響いた。
一番大切な人は、瑠花だった。
ハアハア言いながら亜紀の部屋へ駆け込んで、亮二はピンクのサマードレスを着た亜紀を見てホッとした。部屋はすっかり片付いてがらんとしている。
「こんどは逢えた」亮二は息を切らして両手を亜紀の肩にあてた。「こんなに一生懸命走ったのは、あのとき以来だよ」
そういいながら、息を深く吸って呼吸を整える。
「ありがとう。来てくれて」
「前のときみたいに、後悔をしたくないからね」
「自分の気持ちがわかってる?」
亜紀の瞳が優しく揺れるのを見て、亮二は首を縦に二回振った。まだ息が乱れている。
「いつも、いろんなことを気にして俺は疑ってばかりいた。相手も、自分の気持ちもだ。いまは直感を大切にしたい」
「あのころの私たちって、結局、自分のことしか愛していなかったんだね。いたわりたいって気持ちがあっても、求めるばかりで与えることができなかった。気が遠くなるほど長い間、近くで亮を見守って、亮の幸せだけを願っている人がいることに気づいている?」
亮二が目を伏せてうなずくと、亜紀はそっと亮二の頬に手をあてて言った。
「あのころ亮が大好きだった。こうやって未来で逢えて嬉しかったよ。亮と別れて好きになった人が、やっぱり亮で良かった。恋を終わらせるのに二十一世紀まで来ちゃったけど、これでやっと私も迷わずに自分の人生を始められる」
「薬で未来へ飛ぶとペナルティがあるんだ。それが何だかわからない。過去にもどるのは危険だよ。元の時代にもどれずに、時空を彷徨うかもしれない。それでも行くのか?」
「これからは娘と長瀬と一緒に生きていきたいって、いまははっきり思えるの」
亜紀は顔をクシャクシャにして笑った。
「線香花火を亮としたかったな。それだけが心残りかな」
「俺が有紀に、その……」亮二は言葉を詰まらせて言い直した。「俺の娘にできることは?」
亜紀は目を細めて微笑むと、顔を左右にゆっくりと振る。
「あの子は生まれてからずっと、私と長瀬の子よ」
「君がいなくなって、彼らはどうしているのだろう? 憎まれているかもしれないよ」
「そんなことを考えてもしかたがないわ。できることをするしかないもの」
「君は強かったんだな」
亜紀が眩しかった。心から彼女を愛して良かったと感じた。
「この時代は九月でも真夏のように暑いのね」
亜紀は窓から外を眺めて、両手を大きく広げて伸びをした。
「便利な時代ね。時間の流れが速くて刺激に満ちている。次々と新しいものが生まれて飽きないわ。ここを去るのは名残り惜しいけど、八十年代も悪くないよ。彼女のことを頼むわね。私は全然あの子を恨んでなんかないの」
「幸せにする自信がないよ」
「幸せなんて、誰かにしてもらうものじゃないでしょ。ふと感じるものよ。私は亮と一緒にいられて幸せだったよ」
そう言うと、亜紀は急にふらついて倒れそうになった。亮二は咄嗟にひざまずいて亜紀を抱きかかえる。
「そろそろ時間みたい。いつか、また逢えるといいね」
亜紀は腕につけている運命のブレスレットを見せると、亮二の腕のなかから時の彼方へ消えた。