第五十三話 大切なひと
中目黒にオープンした、こじゃれたカレー専門店が評判になっていると聞いて、亮二は瑠花を誘った。
「ミューズ」を訪れた晩から二日とあけずに瑠花と逢っている。望めば瑠花は外でも亮二と逢うようになって、おかげで嫌なことをすべて忘れられた。
レストランは目黒川から一本旧山手通りにはいったところで亜紀の部屋の近くだった。
この辺りは緑が多くて気持ちがいい。亮二は瑠花と歩きながら亜紀のことを考えていた。優希が亜紀だとわかって、亮二はまだ混乱している。
コンクリートの壁にフロアリングというモダンで広々とした店内には、カレーの匂いが漂っていて食欲をそそった。
亮二は和牛を使ったビーフカレーを頼んで、瑠花は店員が勧めた二十八種のスパイスで一週間煮込んだカレーに、チーズをのせて焼いたという焼きカレーを注文する。
亮二はふと、いま亜紀がどうしているか気になった。シン先生は未来に飛ぶとペナルティがあると言っていたが、過去にもどるにもアレルギーは功を成すだろうか?
――未来へ飛んだ場合、亜紀のいた時代は失踪したときから時間が経ってしまっている。無事に帰れる保証もない。それでも帰るのかと、あの日、過去に帰るという亜紀に訊ねた。
「仕方がないわ。亮の近くに私の居場所はないでしょ」
寂しそうに笑って、亜紀はきっぱり答えた。
「有紀のことが気がかりなの。抗体を調べてアレルギーを特定してもらうわ」――
長い間、美化された想いをひきずって、過去で出逢った亜紀に亮二は再びときめいた。過去へ行けなくなって幻想を追っていただけだと悟ったが、優希が亜紀だとわかり、幻想が現実に変わる期待で心が踊った。
しかし、唇を重ねると何かが違った。探し求めていた女はすぐ近くにいたのに、亮二は亜紀の後ろ姿ばかりを追い続けていた。亜紀に気づかなかったことを思うと急速に気持ちが冷めていく。亮二の愛した亜紀はどこにもいなかった。
「池下さん」と瑠花に呼ばれて我に帰った。
ウエーターがカレーを亮二の前に置こうとしていた。
亮二はテーブルの上にあった水を移動させてスペースを作る。瑠花が心配そうな顔をして見ていた。あの晩からずっと、瑠花は黙ってそばにいてくれる。
「美味しそうだね」亮二が笑いかけると、「熱いから気をつけて」と瑠花が注意した。
このまま亜紀を過去に帰してしまって本当にいいのだろうかと、スプーンを口に運びながら亮二は考えていた。
確かに自分が愛した亜紀は幻想だ。だが、奇跡が起きて再び巡り逢えた亜紀を、永遠に失うと思うと胸が苦しい。この気持ちは執着なのだろうか?
いまの亜紀と、一から始められないか自分になんども問いかけた。
亮二が戸惑っているうちに、あの日も一方的に亜紀から別れを告げられて、自分の気持の整理が着く前に、別れを受け入れてしまった。亜紀と再会したばかりだというのに。
もう一度、亜紀に逢って自分の気持ちを確かめたかった。まだ、決着がついていない。このまま亜紀が消えたら、それこそ彼女を一生忘れることができなくなる気がした。
想いが通じたかのように亮二の携帯が鳴った。亜紀からだとわかり、亮二はすぐに着信ボタンを押す。
「さよならを言っておこうと思って」亜紀が淡々と言った。
「アレルギーが判別できたの。うまくいくかわからないけれど、試してみるわ」
「これから行くのか? どこにいる」
「マンションよ。あとは症状がでるのを待つだけ」
「ちょっと待ってくれよ」亮二は慌てた。「逢えたばかりじゃないか。そんな急に行かないでくれ」
「もとの時代に帰りたいの。ここでやるべきことは終わったから。亮も元気でね」
亜紀は電話を切った。
亮二は携帯を握りしめて、眉間にしわを寄せる。
「優希さん?」瑠花が心配そうな顔で訊いた。「どこかへ行ってしまうの?」
「そう。遠くに。もう、逢うこともないだろう」
亮二は平然を装っているけれども落ちつかない様子なのは明らかで、ずっと上の空だった理由が優希にあると、瑠花は察した。
瑠花は目をつぶって右手でぎゅっと左の手首をつかむと、小さく溜め息をつく。
「早く行って。ちゃんと彼女をつかまえて」
瑠花は亮二に強く言った。
「こんどは、気持ちをちゃんと伝えないと!」
「もういいんだよ」
亮二は瑠花の激しい口調に驚いて答えた。
「良くないわ。亜紀さんときちんと話をしないで別れてしまったことを、ずっと後悔しているでしょ。こんどこそ、ちゃんと優希さんをつかまえて」
瑠花は声を震わせて言った。
震えている瑠花の左手に亮二が目をやると、瑠花は手をそっとテーブルの下に隠す。
「瑠花、その手は?」
「えっ?」瑠花が手に目をやった。「癖なのよ。小さいころからこうすると落ちつくの」
左の手首には強く押さえた痕が、赤くくっきりと残っている。
亮二は今まで幾度もこの癖を見ていたのに気がつかなかった。
アメリカ人を祖父に持つ日本人離れした整った顔立ち。新約聖書の福音書から付けたという名前。古い十字架を瑠花が鍵につけていることを思いだした。
バレエ教室のまえで亮二が来るのをいつも待っていて、公園で必死に自分を看病してくれた、あの小さな女の子。ついこの前、神社でこの癖を見たばかりだ。
少女の顔が瑠花とだぶった。
「君はあのとき神社にいた、あの子だね?」
瑠花の顔から血の気が引いた。震える唇を噛みしめて、右手で左の手首を強くつかむ。その拍子にスプーンが床に音をたてて転がった。
亮二はこんなに動揺した瑠花を見たことがない。
亮二の質問には答えずに瑠花は声を震わせて言った。
「大切な人なんでしょ?」
亮二は瑠花をおいてこの場を離れたくなかったが、いまは亜紀に合わないといけない。こんどこそ、逢って決着をつけないといけないことを自分でよくわかっていた。
「行ってくるよ」
そう言って席を立ち、亮二は急いで店をでた。
これでいいのだ。人魚姫の愛した王子は隣の国の姫を妃にするのだから。
瑠花の目に涙が浮かんだ。
この日が来るのを瑠花はずっと恐れていた。今度こそ、もう逢うことはないだろう。
店を出て行く亮二の背中を見守る瑠花の瞳は、だんだんと涙で霞んで見えなくなった。