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第五十二話 失われた時に想いを馳せて

 雅也が消えて独りで子供を生もうとしている亜紀に、すべてを承知で長瀬がプロポーズしたと、亜紀は語り始めた。


 最初はその申し出を亜紀は断ったが、足繁く通う長瀬の誠意に打たれてその深い愛情を感じると、亜紀は結婚を決めて子供も長瀬の子として育てた。姑と折り合いは良くなかったけれど、ささやかな幸せに彼女は満足していた。


 ニューヨークで初めてタイムトリップをした亮二に、亜紀は電話で呼びだされた。電話の主が亮二とは思わずに亜紀は調布駅の噴水へ雅也・・に逢いに行ったのだ。

 雅也が亜紀の家のトイレから忽然と姿を消したときは半信半疑だったけれど、噴水で声をかける間もなく再び消えるところを目撃して、雅也が未来から来たという話を亜紀は信じた。


「雅也さんが発作を起こして急に消えたから、結婚してもずっと気になっていたの。私の気持ちは中途半端なままで、終わらせることができなくなった。あの日、電話をもらって私がどんなに驚いたかわかる? それなのにあなたはまた、私の目の前で消えてしまった。私は混乱して後先を考えずにあの薬を飲んでしまったの。形見のように薬とこれを肌身離さず持っていたのよ」

 そう言って、亜紀は運命のブレスレットを右手につけた。


「なぜ、いままで黙っていたんだ?」

「初めて逢った日に言おうと思ったけれど、あなたはまだ過去には行ったことがないように思えて言えなかった。そのうち絶対に気づいてくれると信じてたのよ」


 亜紀は現代の原宿に突然現れた。ラッキーなことに、すぐにスカウトされて生活は保証された。科学の進歩に驚きつつ、ネットを使って川崎雅也を検索すると数人がヒットした。そのなかにCM制作のプロデューサーがいた。名前をクリックすると亮二の名が一緒に出て来て、そのとき初めて雅也が亮二でないかと亜紀は疑った。亮二の会社の近くで雅也を見かけた亜紀は、会社の隣の喫茶店に亮二が出入りしていることを知り、自分の考えが正しかったことがわかった。それからなんども喫茶店に足を運んで、オーディションの日も亮二を待っていた。中目黒にマンションを借りたのも、亮二の部屋が近くにあったからだ。


「未来に来てから、何て軽卒なことをしてしまったのだろうと最初は後悔したわ。娘は可愛い盛りだし、長瀬が心配していると思った。この時代で家族を探してみたけれども消息はつかめなかったの。元の時代にはもどれないし、仕事はトントン拍子であなたにも逢えた。だから、ここにいる間はこの時代を一生懸命生きることにしたの。それしか、私にできることはないもの」

 亜紀は話をしながら冷めたお茶をいれなおした。


 確かに、優希は亮二の知っている亜紀の数年後の姿というのがふさわしかった。

 雅也が亜紀の前から消えて亜紀の時間はたった一年半しか経ってないけれど、結婚して子供を産んだ亜紀は雰囲気がどことなく以前とは違った。 

「複雑な気分よ。亮と別れて、次に好きになった人がまた亮だったなんて」

 亜紀は微笑んだ。話し終えると穏やかな顔になっていた。


「いまでも、起きるとすぐに窓をあけてる?」

「もちろんよ。朝の空気をいれかえないと一日が始まらないもの」

 ふたりは楽しかったころの懐かしい想い出を夢中になって話した。


 亮二が初めて亜紀にホームで逢ったとき、どんなに悔しい思いをしたか亜紀に訴えると、「だって、亮ってば、どんくさいんだもん」と亜紀は笑って、「真面目で融通が利かなくて、何にでも一生懸命なところが大好きだった」と遠い目をした。


 亮二の部屋の蛇口からずっと水が滴り落ちて眠れなかったことや、週に三度は足を運んだお気に入りの店で喧嘩して、亜紀が皿を投げつけたので二度と店に行けなくなったこと。亜紀が偶然撮った心霊写真を面白がって焼き増しすると、亮二が真剣に怒って三日も口を利かなかったことなど、ふたりは笑い転げながら、とどまるところを知らずに話し続けた。


 気づくと辺りはすっかり暗くなっていた。

 時を超え、ふたりを引き裂いた誤解も解けて、何事もなかったかのように、再びふたりの時間が一緒に刻まれていくのを亮二は感じた。過ぎ去った時間が、ふたりを隔てることは全くなかったかのように見えた。


 次第に亮二が川崎と名乗っていたころの話になった。

「皮肉よね。雅也さんのおかげで亮を忘れることができたんだから、笑っちゃう」

「いろいろとすまなかった。俺は幼すぎたんだ」

「成長した亮が目の前に現れたんだもの、惹かれて当然よね。女性の扱いもうまくなって要領も良くなったけど、ひたむきでまっすぐなとこは変わってないね。生まれ変わっても、私は亮を見つけてきっと好きになるよ」

 大きな瞳が亮二を見つめる。そこにいる彼女は間違いなく亮二の愛した亜紀だった。


「亜紀に逢えなくなって辛かった。逢いに来てくれて本当に嬉しいよ」

「そのわりには私のことなんて、まるで目にはいってなかったようだけど?」亜紀が亮二を軽く睨む。「気がついてくれるの、楽しみにしてたのだけどな。亮ったら鈍いんだもん」

 亜紀は笑って言ったが、目は深い悲しみを帯びていた。

 亮二が笑い飛ばさずに、一瞬顔を引きつらせて神妙な口調で「ごめん」と謝ると、亜紀は急に顔を曇らせて言葉を失った。

 部屋がとても静かになって、時間が止まった感じがした。


「逢えて良かった……」亜紀が声を震わせてぽつりと言った。


 大きな瞳に涙がたまって溢れる。涙は止まらずに、あとからどんどん溢れでて亜紀の頬を濡らした。

 彼女がうつむくと、左右の髪が顔にかかって愛らしい顔を隠す。亜紀は声を押し堪えて肩を振るわせて泣いた。亮二の知っている亜紀はこんな風に泣かなかった。大きな声で泣き、感情をむきだしにして身体全身で悲しみを表現した。


 少しずつ亜紀を愛したころの気持ちが甦ってきて亮二は左手でそっと柔らかい頬に触れた。涙で指が濡れる。気持ちが一瞬にして昔にもどった。愛しさが込み上げて両手を亜紀の顔にあてた。十本の指で顔の隅々まで触れて亜紀を感じる。顔にかかっている髪を両手でかきあげて頭を撫でた。指で涙を拭っても拭っても、どんどん涙は溢れてくる。頬に両手を添えて、亜紀の瞳から溢れだす涙を唇で拭う。それでも拭いきれない涙が頬を伝って、そのあとを亮二の唇が追う。涙が亜紀の唇に落ちて、亮二の唇がそっとそこに触れた。

 微かな違和感が心のなかを駆け抜けた。亜紀の唇が僅かに戸惑うのを感じる。彼女は唇を離すと、大きな瞳で亮二を見透かすようにじっと見つめた。亜紀の瞳は深い悲しみの色に変わって涙がまた溢れでた。


 ふたりは離れていた時を埋めるように、お互いを求めて唇を重ねる。再会の喜びと込み上げる懐かしさが心を熱くした。僅かに生まれた小さな疑惑の種を心の隅に追いやって、確かめ合うように激しくお互いを求める。唇の温もりを感じて舌をからめあい、息を継ぐのも惜しんでお互いの唇を激しく吸った。

 長い口づけに頭がくらくらして身体が火照る。欲望の波がどこからともなく押し寄せた。身体がこんなにも熱くなっているのに、心には冷静な別の自分がいる。

 その気持ちに気づかない振りをして、身体がもっと激しくお互いを求めれば求めるほど、急速に世界が色あせて行く。もうごまかしようがない。亮二は悟ってしまう。時間が経ってしまったことを、自分も相手も変わらずにはいられないことを。心にいるのはいま目の前にいる亜紀でないことに気づいて、亜紀もそれを察する。流れた時間はもうもどらない。亜紀の涙が溢れでて、亮二の頬を伝った。


 亜紀が泣き止んで、どちらからともなく唇を離した。亮二はこの場にふさわしい言葉を見つけられない。しばらく一言も発せずにふたりで星を眺めた。この時間が永遠に続いて欲しいと願う。沈黙の先にあるものが恐かった。とうとう亜紀が口を開いた。


「過去にもどる方法を教えて」と、亜紀はとっておきの笑顔で亮二に言った。


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