第五十話 暖炉は温かく孤独を包む
この澄みきった青い空の終点は天国に続いているのだろうか?
東京へ向かう飛行機の中で、亮二は果てしなく続く夏の空をぼうっと窓から見ていた。
親友が死んだ。膵臓癌だった。葬儀にでるために、父の死以来七年ぶりに亮二は帰郷した。死んだ賢次とは物心がついた頃からつるんでいた。褒められるときも叱られるときもいつも一緒だった。東京に行くまでの十八年間の殆どを賢次と過ごしたと言ってもいい。亮二にとって親友と呼べる男は賢次くらいだ。
亮二の実家のある大聖寺は加賀の中心地にあった。大聖寺は加賀百万石の支藩である大聖寺藩の城下町として栄えた小さな街で小松空港からは車で三十分ほどのところにある。江戸時代からの街並みを残した情緒ある風景がいまもなお溢れていて、近くには山代温泉や山中温泉があった。
四方の山が真っ赤に燃える紅葉の美しさはさることながら、加賀は、新緑のころや夏の蒼く茂った奥深い緑の美しさも素晴らしい。
紅葉の季節に山中温泉にある鶴仙渓のこおろぎ橋に瑠花を連れて行くと約束したことを、ふと亮二は思いだしていた。瑠花が家の外で逢わないのは承知の上の、ベッドのなかでの戯れ言だ。
亮二が加賀へ紅葉を見に行こうと言うと、瑠花は電車でなければ嫌だと言った。飛行機は便利だけれど、電車の旅のような情緒がない。ふたりで駅弁を食べたいと、瑠花は笑って言った。
七年ぶりの故郷は急に近代化が進み、のどかな田園風景はまだ残されているけれども、風情ある川の畔に遊歩道が整備されて、歴史的景観をいっそう美しく残そうとする反面、価値が特にない時代の香が漂うだけの懐かしい建造物は次々と姿を消していた。
大聖寺は歴史と人々の生活が混在していたから風情ある街並みを残していたのにと、亮二は残念に思う。
葬儀には多くの同級生が顔を見せてちょっとした同窓会のようだった。
二度目の妻である滋子の姿はなく、亮二は安心した。葬儀場をでたところで、すっかり田舎のおばさんになった初恋の相手に声をかけられた。彼女と話をするのは別れた日以来だったが別人のような元マドンナには何の憎しみも悔しさも感じない。
緩やかに蛇行してゆったりと流れる旧大聖寺川の畔を彼女と歩いた。遊歩道は季節の花が咲き乱れて、船頭が漕ぐ風流な流し舟が川を下っていく。木材やトタンを使った民家はまだ数多く残っていた。いまになって良い街だと思う。若いころはつまらない田舎町だと亮二は馬鹿にしていた。
元マドンナは滋子の親友だった。滋子は再婚してタイに住んでいるという。
兄のことで亮二を利用した自分は許されないけれども滋子のことは恨まないで欲しいと彼女は言った。そして、とんでもない滋子の秘密を彼女は打ち明けた。
滋子が亮二の子を妊娠したのは嘘ではなく本当は中絶したのだという。愛されていないのに子供を盾にとって亮二の一生を縛ることは、滋子には出来なかったのだと告げた。
何でそんな嘘をついたのかと訊くと、滋子はそうでもしないと別れる決心がつかなかったのだろうと彼女は答えた。本当のことを言うと亮二が傷つくと思って、妊娠は嘘だったことにして憎まれ役をかってでたのだと……。
別れる必要がどこにあったのだろう? 亮二はわからなかった。確かに一夜の間違いで子供ができて結婚し、彼女を愛してはいなかったけれど、幸せにしようと思っていたのだ。
滋子は亮二のことを子供のころから好きだった。亮二もその気持ちに気がついていた。地味でおとなしくてあまり見てくれは良くないが、自分だけを見ていてくれる気心が知れた幼なじみ。燃えるような激しい想いはないけれど、狂うほどに相手を想う辛さが身にしみていた亮二には、ちょうど良い相手だった。
「男っちゅうのは、調子がええときは前の女よりええ女を求めて、自信がのうなったら、昔の女に勝る女はおらんと妥協しおるんや。白鳥紫を選んだころのおまえは自信がおうて、いまはそうじゃないっちゅうわけや。滋子はおまえが妥協して選んだ相手やろ」
結婚前に賢次がそんなことを言った。賢次は滋子との結婚に反対だった。
賢次はいつもずけずけと思ったことを言って亮二の気分を害したが、亮二は親友の言葉には耳をかした。
「マザコンのおまえには年上の女が向いちょる」と、賢次はよく言っていた。
母親に抱きしめられた覚えのない亮二を哀れんで、代わりに抱きしめてやると言って、よくふざけて抱きついてきた。
亜紀と別れたときに賢次から手紙をもらった。
母親の愛情を感じられずに育った亮二は、愛情の示し方がわからず、愛も信じられないのだと書いてあった。
賢次と話がしたかった。死んだという実感がない。
亜紀のこと、優希のこと、滋子こと、生まれることができなかった子供のこと。亮二の頭はごちゃまぜになって、思考の出口が見えない。過去に行って滋子に逢いたいけれども特効薬は過去に置いてきた。もうタイムトラベルはできない。
実家には寄らずに飛行機に乗って、気がつくと亮二は「ミューズ」の近くにいた。心身ともにまいって思考が止まっている。ここまでどうやって来たかもわからなかった。
七時半を過ぎているので瑠花は店にいないと思ったけれど、彼女の面影を追って店の前に行った。瑠花の男のことも、自分が彼女にしたことも考えられなくて、心が純粋に瑠花を求めていた。
まだ「ミューズ」には電気がついていた。
扉をたたく音を聞いた瑠花が鍵をあけると、亮二は倒れ込むように店にはいった。
瑠花は亮二を見て驚いた顔をしたけれども、すぐに変わらぬ優しい微笑を向けて亮二をソファーに座らせる。
「ひどい顔をしているわ。座って」
「加賀に……俺が育ったとこに行ってきた」
瑠花は何も聞かない。隣に座って亮二の左手を両手で握りしめた。瑠花の手の温もりが心に染みてくる。
「お酒はおいてないの」
瑠花は立ち上がって、カモミールティをいれた。
亮二は雪の中を何時間も歩き続けて、やっと山小屋に辿り着いたような気がしていた。
「結局、俺はさ、誰とも心を通わせていなかったんだよ。きっとそれは、俺が自分しか愛せない人間だからだ」亮二は静かに言った。
自分が他人との隔たりを埋められないことを痛感していた。誰かを愛することも理解し合うことも、一生できないのではないかと不安だった。たとえ親兄弟であっても、隔たりは埋められないのだ。誰をどんなに愛そうとしても無駄だ。くり返しなんども思い知らされる。
それは愛しているという思い込みで、自己愛が形を変えているに過ぎないと亮二はわかっている。亜紀に恋していた気持ちも、紫への愛情も、滋子との結婚生活も、すべてが自己愛の延長上にある。その犠牲になったのが、優希と、生まれることすらできなかった滋子との子だ。だったら早く悟ったほうがいい、自分は誰も愛せないのだと。
愛したいと、どんなに切望しても叶わない。幾度となく思い知らされる敗北感が亮二の心に住みつく。誰も愛せないと認めると、脱力感と無力感が心を支配して孤独と虚無感が亮二を襲った。
そして亮二は凍えそうな孤独の海を漂いながらも、心地よい安堵感に包まれている自分に気づいてしまう。人はわかりあえないと認めてしまえば楽になるのか、それとも絶望で狂ってしまうのかと、自問する。
心の隅で、誰かと繋がりたいとまだ期待してここに来たことに亮二は気づかない。
「心を通わせる義務も、わかりあおうとする努力も、私を愛する必要もないのよ。いまはただ、あなたがここにいるってこと、それでいいじゃない」
瑠花がそっと亮二を抱きしめ、その言葉が凍りついた心を少しだけ溶かした。