第四十八話 疑惑
八月にはいって蒸し暑い毎日が続いていた。真実は知ってしまうとあっけないものだ。いまとなっては亜紀を突き落としたという妄想に取りつかれていた自分を馬鹿らしく思う。
だが、あの少女に愚痴をこぼさなければ事故は起きなかったのだ。やはり亜紀が踊れなくなった責任は自分にあると亮二は思った。それに、幼いあの少女の心にも深い爪痕を残してしまったことを申し訳なく感じていた。
真実を知って過去に飛ぶ理由がなくなった。亜紀に逢いたかったが幻想を追ってもしょうがない。現実を受け入れることしか亮二に出来ることはなかった。
いっきに力が抜けて何もする気にならなかったが、数週間もすると亜紀に対する気持の整理がつき始め、亮二は気楽に女性と付き合っていた昔の生活にもどっていた。
ただ、瑠花だけがそこにいない。寂しさを紛らわすのに無茶をしたくなることもあるけれども離婚した三十代のときのようにやけになるにわけにもいかず、仕事を淡々とこなして時間があれば川崎を連れて飲みに行った。
仕事中に右下の親知らずが痛みだして、亮二は三日前にそれを抜いた。鏡を見ると、右の頬はまるで詰め物が入っているかのようにふっくらと腫れて、殴られたような青痣ができている。痛み止めが効いているうちは口が開かないだけだが、薬が切れたら地獄だった。今日はやっと痛みが少し治まってきていた。固形物が食べられないので、スープを腹にいれてから抗生物質と痛み止めを飲む。
亜紀のことで話があると、優希から電話があったのは午後四時になるころだ。まだ調子が良くなかったが亜紀のことと言われては断れない。親知らずで寝ていることを話して、マンションに来てもらうことになった。
優希はどんどん綺麗になっていく。亜紀にそっくりな顔を見るのはまだ辛い。亮二は優希をリビングに通してコーヒーをいれた。
「男前も形無しね、それじゃキスもできないわ」優希は腫れた顔を見て笑った。「亮二さんが言っていた彼女ってお母さんのこと?」
「昔のことだよ」
「じゃあ、私と付き合ってよ」
優希がコーヒーを一口飲んで唐突に言った。
「無理だよ」
「どうして? いまだってお母さんのことを想ってるじゃない。私、そっくりなんでしょ? 共通の想い出を持っていること以外に、お母さんと私のどこが違うの?」
「君は亜紀じゃない」
「答えになってないわ。違うところを言ってよ。お母さんでなきゃ、いけない理由はなに?」
亜紀と優希の違うところ?
ふたりは外見も性格もそっくりで、ここといって具体的な違いを示せない。では、なぜ優希じゃダメなのだろう?
「お母さんの代わりでも私は構わないの」
「誰かの代わりなんてしちゃいけないんだ」
亮二は紫を思い浮かべて強い口調で言った。
「お母さんと私の何が違うか、私をちゃんと見ればすぐに気づくはずよ。それから決めてもいいじゃない。なぜ、そんなにお母さんにこだわるの?」
「言っただろ。俺はもう、誰とも付き合わない。年相応の人を探しなさい」
「亮二さんがいいの」
「俺は女を幸せにできない。結婚を失敗するとね、自分のことがよくわかるんだ」
「そんなの、やってみないとわからないじゃない」
「わかるさ。俺だって結婚したときは理解し合うことができるって思っていたよ。うまくやって行く自信もあった。それでわかったんだ。俺は傷つけ合うことしかできないんだ。結婚なんて何の意味もないってこともね」
亮二は煙草を取りだして火をつけた。口のなかに違和感があって煙草が旨くない。
「どうして、わかってくれないの? お願い、私を一度でいいからちゃんと見て!」
懇願するように熱く亮二を求める優希にいらだちを覚えて、亮二はひややかな目をして冷たく言い放った。
「遊びでいいなら、相手をしてやるよ」
優希はソファーから立ちあがると黙って上着を脱ぎだした。ブラウスのボタンを上から順にはずしていく。亮二は慌てて彼女を止めた。
「悪かった、冗談だよ。歯が痛くて、とてもそんな気分じゃない」
「私を少しでも見てくれるのなら遊びでも構わないわ。私を抱いて、お母さんと比べてよ」
優希は亮二が止めるのも聞かずにブラウスを勢いよく脱いだ。
「頼むから服を着てくれ。無理なものは無理なんだ。君にはそんなまねはしたくない」
亮二は煙草を消すと、優希に近づいて上着を彼女の肩にかける。
「いくじなし。そうやってこれから先も、ずっと独りで生きていくっていうの?」
目にいっぱい涙を溜めた亜紀と同じ瞳が、亮二の心を貫いた。
優希の激しさは確かに亜紀を彷彿させる。あの穏やかな長瀬の血が流れているとは思えないほど……。
そこまで考えて、思考が止まった。
優希には、本当に長瀬の血が流れているのだろうか?
いつから長瀬と亜紀は付き合い始めたのだ? 漠然と頭の隅にあった疑問だ。
ずっと腑に落ちなかった。最初は付き合っていたころから、亜紀は長瀬と逢っていたと思い込んでいたけれど、過去へ行き、亜紀に逢うとその気配はまるでない。亮二と別れてから急接近したとも考えられるが、それも釈然としない。亮二は随分前から、亜紀の雅也に対する友人以上の好意を感じていたからだ。
優希が生まれた日から逆算すると、亮二と別れたころには長瀬と付き合っていなければおかしい。だが、まったくといっていいほど亜紀の周りに長瀬の影がない。
亜紀はいつ、長瀬に心をゆだねたのだろう?
亮二の頭に恐ろしい疑惑がよぎった。