第四十七話 そしてとうとう、事故は起きた。
真実を知りたいと強く願って、薬を飲んだ亮二は夢のなかを漂っていた。
「忙しいって言っても亮はバイトじゃん。長瀬さんは就職しているのに余裕もあるわよ」
亜紀の言葉が亮二の胸の中で木霊していた。
――クリスマスイブの日、急に時間ができたので亮二は亜紀に逢いにバレエ教室に行った。レッスンが三時に終わるので二時半に着くように家をでた。踊っている亜紀を見たかった。
いつものように女の子が外でレッスンしている。この子もだいぶ背がのびた。初めて逢ってから三年近く経っているから当然だ。バレエも独学とは思えないほど上手になった。真剣な眼差しで亜紀の踊りをまねるこの子を見ていると、気持ちが安らぐ。自分たちがどんなに変わっても、少女が変わらずにここにいてくれるのが嬉しかった。
亮二に気づいた女の子は満面に笑みを浮かべて走ってきた。
「もう来ないのかと思った。ずっと待ってたんだよ」
「仕事を始めたんだ。忙しくなっちゃってさ」
亮二はしゃがんで女の子と目線をあわせてそう言うと、バレエ教室のドアの前の階段に並んで座った。
「ふうん。つまんないな。お姉ちゃんも淋しいね」
「どうだろ? 淋しくないかもな」
「何で? 絶対、淋しいよ。あたしだって淋しいもん」
「他に好きな男がいるんだよ」
魔がさした。誰にも言えなくて、亮二はこんな子供につい、愚痴を言った。
「そんなのダメだよ!」少女はかっとして立ち上がり、亮二の方を向いてムキになって言う。「お姉ちゃん、ひどい。そんなの許せない」
「それでもね、人の心は変えられないんだよ。心は自由だからさ」
「心は自由?」
「そうだよ。人はどんなに束縛されても、心で誰を想おうと何を考えようと自由なんだ」
「でも、やっぱりお姉ちゃんは許せない。お兄ちゃんを悲しませるなんて、大嫌い!」
「ありがとう。俺の味方をしてくれて。じゃあ、大きくなったら付き合ってくれる?」
「うん! お嫁さんになってあげる」
「そっか、嬉しいな。それを聞いて元気になったよ」
「あたし、早く大きくなるからお兄ちゃん待っていて、約束だよ。指きりげんまん」
亮二は指きりをして、女の子の頭を撫でた。
クラスが終わって、亜紀がタオルで汗をぬぐいながら外を見た。亮二が軽く手を振ると、それを見た亜紀の顔がみるみるうちに明るくなる。彼女はダッシュで着替えて外に出てきた。
「来てくれたんだ!」
亜紀が両手を広げて勢いよく胸に飛び込んできたので、「危ねえだろ」と言って亮二はしっかりと亜紀を抱きとめた。素っ気なく言ったものの、亮二の口元は自然にほころぶ。
「だって嬉しいんだもん」
亜紀が小さな子供たちの前で平然とキスをしようとするので、亮二は彼女を突き放した。
「こんなとこでくっつくなよ」
気持ちと裏腹に、ぶっきらぼうに言ってしまう。照れた亮二はスタスタと駅と反対方向に歩きだして、亜紀はあとをついてくる。
少し歩くと大きな神社にでた。よくふたりで来た神社だ。
まわりの木々は葉を失って寒そうに見えるけれども、陽があたって思いのほか暖かい。大きな鳥居の下で、亮二は立ち止まった。
「クリスマスイブに神社はねえな」
「そうだね」
「よく、ふたりでこの辺を散歩したよな」
亜紀が黙ってうなずいた。
穏やかな時が流れた。亮二は両手をブルゾンのポケットに突っ込み、肩をすくめて亜紀の前を歩く。ふたりで長い急な石段をあがった。上まで登ると遠くの街までよく見える。
「この階段さ、登るのは大変だけど、ここまであがると気分は最高だよな」
亮二はここから亜紀と一緒に見る、街の景色が好きだった。
石段の上に腰掛けて、ふたりで静かに景色を眺めながら亮二は言葉を探していた。
「おまえ、このごろ俺のとこに来ねえよな」亮二は言葉をつまらせた。爪先を見つめて小さな声で訊く。「……好きな男でもできた?」
亜紀はびっくりした顔をして、亮二を睨みつけると怒った口調で答えた。
「なに、言ってんの? そんなことあるわけないじゃん」
「いいから本当のこと言えよ。あいつと逢ってんだろ?」
口が勝手に動く。
「あいつって誰よ。本気で訊いてるの?」
「電話もよこさねえし、家にも来ねえし」もう後には引けない。「逢ってるんだろ?」
「仕事の邪魔をしちゃいけないって我慢していたのに、どうしてそうなるの?」
「何で、急に我慢なんてするわけ? 下手な言い訳すんなよ」
亮二の鼓動は早くなって、心の奥で悪魔が亮二をそそのかす。
長瀬にしなだれかかってバイクに乗る亜紀の姿が脳裏に浮かび、彼女に言われた言葉が甦る。膝が僅かに震えるのを感じた。
「それで、あいつとはもうやったの?」
亜紀は返事をしないで立ちあがった。亮二の顔も見ないで階段を黙って降り始める。
「おい、答えろよ」
亜紀を追って亮二は階段を降りた。
振り向きもせずに階段を降りて行く亜紀の右腕を、亮二の左手がぐいっとつかんだ。
「ちょっと待てよ」
振り向いた亜紀は、涙をいっぱい大きな瞳に浮かべて何も言わずに目で抗議した。
心をえぐるような感情が、亮二を襲った。…………その感情は憎しみではなかった。
亮二は亜紀の瞳を見て後悔した。せつなさと愛しさが込み上げてくる。亜紀の手を離して抱きよせようとしたその瞬間、亮二はこめかみに締めつけられるような痛みを感じて左手で頭を押さえると、その場にしゃがみこみ、そのまま意識を失った。――
* * *
夢から醒めた亮二は石段の一番下に立っていた。自分に殺意がなかったことがわかるとホッとして身体から力がどっと抜ける。
石段を見上げると、亜紀が口をきっと結んで降りてくるのが見えた。昔の亮二は階段の上のほうで倒れている。
亮二が階段を駆け上っていくと、幹が太い大きな木が石段の真ん中の辺りに見えた。
その木の横を亜紀が通りかかったとき、「わっ!」と、大きな声をだして、女の子が木の陰から飛びだした。
亜紀はその声に驚いて飛びあがると、足を踏み外して急な階段をいっきに転がり落ちる。スピートがどんどん加速されてあっという間に下まで落ちると、頭を地面に激しく打って気を失った。
亮二は階段を駆け下りて亜紀を抱き起こした。なんど名前を呼んでも意識がもどらない。
亜紀をおどかした少女は木の近くにしゃがみ込んで震えている。いつもバレエ教室の外にいる女の子だった。
亮二は公衆電話がどこにあるか訊ねたが、女の子は恐怖で錯乱状態に陥っていた。
うつろな目をして身体を震わせ、「ごめんなさい。ごめんなさい」と言い続けている。急に悲鳴をあげたと思うと、「お姉ちゃんを殺しちゃった! あたしが殺しちゃった!」と半狂乱になって泣きわめいた。身体が異常に震えて、左手の手首を痣がつくまで強く右手で握りしめている。
亮二は少女を抱きしめて、「大丈夫だ。亜紀は死なない」と繰り返し言った。
この女の子を放っておけない。
泣いている少女を抱きあげて、救急車を呼ぼうと神社の入り口に向けて走った。あの辺に公衆電話があったはずだ。亜紀が心配だったが未来から来た亮二には、彼女が死なないことはわかっていた。
神社の入口付近までくると、漸く少女が泣き止んだ。少し落ちついたように見えたので、亮二はその子を降ろして手をつなぐ。すぐにタバコ屋の公衆電話から救急車を呼び、ついでに子供が大好きなおまけがついているピーナッツがはいったチョコを買った。
亮二はそのうちの一粒を口にいれて、残りを女の子にあげる。
「怒らないから、何があったか言ってごらん」
バス停の前のベンチに少女を座らせて優しく訊くと、少女はぽつりと答えた。
「お兄ちゃんを悲しませたから、やっつけようと思った」
「お姉ちゃんを?」
「だって、お兄ちゃんはお姉ちゃんだけが大好きなのに、お姉ちゃんはずるいよ」
「それはお兄ちゃんの誤解なんだ」
「誤解?」
「お兄ちゃんがそう思っているだけなんだよ」
女の子の眉がへの字になる。
「ビックリさせようとしたの、落っこちるとは思わなかった」
「事故だよ。君のせいじゃない」
亮二は少女の目線にあわせてしゃがみ、頭を撫でた。
「お姉ちゃん大丈夫かな? お姉ちゃんが死んじゃったら、お兄ちゃんが悲しむよ」
女の子は、まためそめそしだした。
「お姉ちゃんは大丈夫だよ。お兄ちゃんのこと、そんなに好きなんだ」
「うん。大好き!」と言って、少女は大きくうなずいた。
「家に帰ったら、誰かいるの」
「お父さんは出て行っちゃったの。お母さんは教会の手伝いで遅くなるけど、鍵を持っているから平気」
少女は首からぶらさげている鍵を見せた。鍵と一緒についている十字架が光っている。
事故のことは心配しないように告げて、亮二は少女を家に帰した。
少女と別れると、亮二は急いで亜紀の元へもどろうとした。走っているうちに、急に胸がぜーぜー音をたて始め、呼吸をするのも苦しくなってきた。喘息の発作みたいだ。
もしかすると、アレルギーのショック症状かもしれないと疑ってリストを見る。
カカオに含まれる成分によって起こるチョコアレルギーか、ニッケルを含んだピーナッツが原因のピーナッツアレルギーのどちらかかだ。
ピーナッツバターのスナックを口にしたボーイフレンドとキスしただけで、アレルギーを起こして死亡した少女の話を聞いたことがある。ピーナッツならまずいと感じた。
カカオであれば嘔吐や痙攣、下痢や腹痛に鼻血といった症状で、ピーナッツだと喘息や呼吸困難と書いてある。
ここに書かれている通りなら、まさにピーナッツによるアレルギー反応だ。
亮二はとうとう歩けなくなり、その場にうずくまると、意識がとだえた。
現代に帰ってくるときに、さっきの少女が泣いている夢を見た。
亜紀が二度と踊れなくなったことを知った少女の恐れ、後悔、罪の意識といった感情が一気に心に押し寄せて、少女の怯えが伝わってきた。