第四十五話 幻の夜
瑠花に逢ったと、優希がわざわざ電話をよこした。亮二は曖昧に返事をして適当にはぐらかす。瑠花のことには触れたくない。
最近優希は電話をよくかけてきたが、亮二は亜紀のことで頭がいっぱいだった。優希は亜紀とよく似ているけれど、亜紀に似ているだけの女を欲してないことを、過去で亜紀と逢ってよくわかった。優希が自分に好意をよせているのはなんとなく気づいていたので、亮二は優希の誘いをやんわりと断り続けた。
亜紀と昔の亮二との関係を修復するには、あの事故の真実を知る必要がある。
真実が解明されなければいまの自分も前に進めない。そう思って事故の日に行こうとなんどもタイムスリップを試みたが、なぜだか事故のあとの時代にしか行けなかった。
踊れなくなった亜紀は亮二の電話を待つだけの毎日だった。長瀬への嫉妬と事故の罪悪感から亜紀を避ける亮二に、亜紀は電話で感情をぶつけることしかできない。
そんな亜紀を川崎として支えて、なんどか逢っているうちに彼女の状態も落ちついてきた。昔は亜紀が弱くてもろい女の子だと思っていたけれど、非常にもろい部分と相反して底力のような強さを彼女は兼ね備えていた。それが昔はわからなかった。
「バレエが踊れなくなったのはショックだったし、確かに一時は辛かったけれど、悩んでいたって足はもどらないもの。ダンスはクラッシックだけじゃないわ」
少しして亜紀はリハビリを始めた。一日も早く立ち直ることが、亮二との関係を良くすると考えたのだ。だが、亮二は亜紀を避けた。亜紀のバレリーナになる夢を絶ったその責任の重さと、心の奥底にあったかもしれない殺意に怯えていた。
「私は平気なのに。亮がいてくれるだけでいいのに」と言って亜紀は川崎の胸で泣いた。
そのうち亜紀は亮二を追いつめていると感じて、自分がいないほうが亮二のためだと思い込むようになっていった。
「彼は何もできない自分が嫌なんだよ」
川崎がなんどそう言っても、亜紀はもう愛されていないと思い込んでいる。
「亮の前ではいきがっちゃうの。川崎さんといると素直になれるのにな」と、言っていた亜紀が、「雅也さんみたいなおとなの人を好きになれば良かったなあ」と、いつのまにか下の名前で亮二を呼ぶようになっていた。
亮二は自分のことで悩んでいる亜紀を近くで見ているのが辛かった。愛しくて、なんども抱きしめてしまいそうになった。気のせいか亜紀もそれを望んでいるような気がした。
「亮を、そろそろ自由にしてあげようと思うの。これ以上、苦しむ姿を見ていられないわ。私も疲れた。新しい出逢いに目を向けるのも悪くないと、やっと思えてきたの」
亜紀は目を伏せてそう言った。
どんなに真実を知りたいと望んでも事故の瞬間には辿りつけなくて、事故の後の世界をなんども訪れるうちに亮二はまた目的を見失っていった。トリップの持つ重要な意味などどうでもよくなり、純粋に亜紀に逢いたくて今日も特効薬を飲む。
眠りにつくと、遠い昔の亜紀との別れの場面を夢で見せられた。
それは実際にあったこととは少し違った。
「話があるの」と、お湯を沸かしている亮二の背中に向かって小さい声で亜紀は言った。
亮二が蛇口を捻って水をだし聞こえない振りをすると、亜紀はすぐ横に来て、もう一度同じ言葉をくり返す。
聞きたくないと、亮二が両手で耳を塞ぐと、「亮だけを愛しているわ」と亜紀は続けて、胸に飛び込んできた。
次に夢は、泣きながら出て行った亜紀を亮二が一心不乱に探している場面に変わった。二度と亜紀に逢えない予感がして亮二は全速力で亜紀を追っている。
汗だくになって、亜紀が立寄りそうな場所を手当たり次第に探していると、布田駅の近くの踏切の先に亜紀を見つけた。
大きな声で亜紀を呼んだが亮二の声は電車の音にかき消された。電車が亮二の前を嘲笑うかのように、ゆっくりと騒音をたてて通り過ぎていく。亮二は亜紀を想って身体中の力をふりしぼり、なんども亜紀の名を叫んだ。
やっと踏切があがって駆けだそうとしたとき、頭から急に血が引いていく感じがして目の前が真っ暗になった。
亮二は貧血を起こして倒れる前に亜紀を見つけていたことを、夢を見て思いだした。
* * *
踏切の音で夢から覚めた。亮二は布田駅の近くの細い線路沿いの道に立っていた。各駅しか止まらない布田駅は隣の調布駅とは六百メートルしか離れていない。
すぐ先の踏切から亜紀が歩いてくるのが見える。亮二が近寄って声をかけると、亜紀は「雅也さん」と叫んで胸に飛び込んで来た。何も言わずに子供のように泣きじゃくる亜紀を抱きしめて、亮二は彼女の頭をしばらく撫でていた。
今日がいつだか確信はなかったけれど、亜紀の様子から一九八六年、四月三日。亜紀と別れた日だと予測していた。亜紀は泣き止むと、すべて終わったと雅也に言った。
亜紀に今日一日付き合って欲しいと言われて、亮二は静かにうなずく。
亜紀はさりげなく腕をからめてきて楽しそうにしゃべり続け、異常にテンションをあげてはしゃいだ。ふたりでボーリングをして、バッティングセンターに行って、お好み焼きを食べた。そのあいだずっと亜紀は笑い転げている。そんな亜紀を見ていてやるせない気持ちになった。
道ばたで露天商が手作りのアクセサリーを売っていた。その男がニューヨークであったシン先生にそっくりで、気になった亮二は男の前にしゃがんで品物を見た。
そこにはアジアンテイストのアクセサリーやアンティークっぽい飾り物が並んでいる。透明でピンク色に輝く石を使ったブレスレットを亜紀が手に取った。見たことがない綺麗な石だ。
「それは、運命のブレスレットだよ」
シン先生より流暢な日本語で男が言い、亜紀が興味深そうに訊いた。
「運命って?」
「そのお兄さんがこのブレスレットを買ってお嬢さんがそれを持っていれば、離ればなれになっても、またいつかブレスレットがおまえさんたちを引きを逢わせてくれるのさ」
そう言って、男はシン先生と同じ怪しい微笑みを亮二に向けた。
運命、という響きが気に入って、亮二はブレスレットを亜紀にプレゼントした。亜紀は喜んですぐに左の手首にブレスレットをつけると、手をかざして長い間眺めていた。
男がたいしたものがはいってない箱を差し出してオマケをひとつくれると言ったので、亜紀はメンズのシンプルな金メッキのチェーンを選んだ。亜紀がチェーンを亮二に付けたがるので、しぶしぶそれを首にかける。ネックレスなんて付け慣れないので首の周りがむずむずした。
亜紀の家の近くのバーで軽く酒を飲んだあと、マンションの前まで送っていった。
「美味しいコーヒーがあるの。酔い覚ましに飲んでいって」
亜紀は亮二の手を強く握った。大きな瞳でじっと見つめられると拒めない。
部屋は懐かしい香がした。昔、住んでいたの亮二の部屋よりもずっと綺麗で広いのに、母親の愛人が買ってくれたという理由で、この1LDKのマンションを亜紀は嫌っていた。
亜紀がコーヒーをいれているあいだ、亮二はずっと落ちつかなかった。部屋へあがったことを後悔していた。せつない想いが胸をしめつける。身を寄せあって互いの肌の温もりを確かめ合いたい欲求にかられる。酒もはいって理性が揺らいだ。いつ逢えなくなるかわからない状況を思うと、何もすべきでないとわかっているのに、そう思えば思うほど欲望が支配する。理性を保つ自信がない。狂おしいほどの愛しさが込み上げてきて、熱いコーヒーを急いで飲んだ。
亜紀の言葉はもはや頭にはいってこない。艶やかな唇に目がいく。柔らかい頬、すっとした首、形の良いふっくらとした胸、すらっとした足がミニスカートからのびている。
亮二はいっきにコーヒーを飲み干すと、音を立ててカップを強くテーブルに置いた。
「帰る」と言って立ち上がる。
「待って」ドアへ向かう亮二に、亜紀は後ろから両手をまわして身体を寄せた。「お願い。今夜はそばにいて」
亜紀の温もりと心臓の音が背中に伝わってくる。
「そばにいるだけじゃすまないよ」
亜紀の腕に力がこもって彼女はコクンと頭を縦に振った。
思考が止まって、ぎりぎり保っていた理性の糸が切れる。
亮二は勢いよく振り返ると、夢にまで見た亜紀の温もりを全身で確認するかのように、ぎゅっと抱きしめた。すっぽりと亜紀の身体が腕に収まる。柔らかくて懐かしい感触が身体中に広がった。右手で亜紀の腰をしっかり抱き寄せて左手でゆっくり髪を撫で、かつての恋人を全身に感じる。なくしてしまった大切な宝物がこの腕にもどってきた。
亮二はゆっくりと首を傾けて亜紀の額に唇をあてた。目、鼻、頬と、そっと唇で触れる。左手を彼女の頬にあて、優しく唇を重ねた。瑠花のことも昔の自分のことも、すべてを頭から追いだして、亜紀だけを感じていた。
こんなに幸福で満たされた気持ちになったのは、いつ以来だろうか? 眠っている亜紀を見て亮二は思った。亜紀は腕枕をしている亮二の右手を両手でしっかりと握っていた。
これも束の間の幸せだ。この手をまた振りほどかなければならない。亜紀を抱いても、ふたりに未来はなかった。事件の真相がわからなければ心のなかのもやもやも消えない。何も解決していなかった。
朝になって亜紀が窓をあけた。冷たい空気がはいってきて、亮二は布団にしがみつく。懐かしい亜紀の部屋。すべてが昔と同じだった。バスルームから聞こえるシャワーの音と、コーヒーメーカーのコトコトという音が亮二を幸せな気分にさせる。静かな朝だ。
こういう幸せを、亮二はもう何年も感じてない。女性に向き合って恋愛をしていないのだから、あたりまえだった。
そのうたかたの幸福を壊す予感とともに首に異変を感じた。最初は少し痒い感じがしただけだった。無意識に触っていると痒みは首全体に広がった。鏡で見たら、ネックレスが触れている部分が真っ赤に腫れてかぶれている。アクセサリーによって起きるアレルギー性接触性皮膚炎のようだ。身につけた金属が汗や体液で僅かに溶けてイオン化し、体内のタンパク質と結合してアレルギー症状を起こす、俗に言う金属アレルギーだ。金メッキに使われているニッケルが他の金属に比べて唾液や汗によって溶けだし易く、アレルギーを引き起こすことが多いと小冊子に書いてあったのを思いだした。
このまま黙って消えたら、亜紀をいっそう傷つけてしまう。
意識が薄くなっていくのを亮二は必死に耐えた。
少しして、やっと亜紀がシャワーから出て来た。亮二は彼女を力強く抱きしめてキスをすると、「ごめん、時間がないんだ。行かなきゃ」と言って部屋をでる。
ドアを閉めるやいなや、亮二の意識は途絶えた。
時空を彷徨っているあいだに小学生の女の子の夢を見た。子供たちがレッスンしている様子をバレエ教室の外から女の子が眺めている。ストレッチやバーに捕まって練習しているのを見て、その子も家でやってみた。ジャンプができるほど家は広くないので公園に行って練習をする。ターンも覚えた。そこへ亜紀が現れてバレエの指導を始めると、そのうちその子はひととおり踊れるようになった。