第四十四話 逢瀬に胸をときめかせ
「やっとタレントの目処がつきました」
中山が明るい顔で亮二に告げた。
桜花堂のキャンペーンが一段落してホッとしたのも束の間、中山からエステのプロジェクトが遅れていると報告を受けて、亮二は気をもんでいた。
「誰になりそうなんだ?」
「姫宮あんりが有力ですね」
「あの占い師、まゆつばじゃねえか?」
狡猾に亮二と取引をした巫女の顔が頭に浮かんだ。
「東洋医学の美人医師が有力だったんですけど、ギャラや条件が合わなかったんですよ。エステのオーナーが姫宮あんりの大ファンだってことで、彼女に決まりそうです」
「占い師を広告塔に使うとはね。女はみんな占いが好きだねえ」
亮二はにやにやして茶化すように言うと、巫女が出版した占い本をぱらぱらとめくる。
「池下さん、何か最近、妙に機嫌が良くないっすか? いいことありました?」
「なんもねえよ。おまえのエステ以外は、仕事が全部うまくいっているからじゃねえの?」中山は本当に鼻が利く。亮二はひやっとした。
亮二は過去で亜紀と再会してから、なんども特効薬を飲んで亜紀と逢っていた。
川崎として、上京したからと言ってはバイト先の近くでお茶を飲み、笑ったり怒ったりと、ころころ変わる亜紀の表情を見ながらとりとめない話で盛り上がる。亮二は出逢ったころのようにすっかり亜紀に夢中だった。
亜紀は明るく振る舞っているものの時おり寂しそうな顔をする。亮二は気持ちを隠して相談役に徹したが、昔の自分のことなのに的確なアドバイスをしてやれない。
亜紀はひたむきに亮二のことだけ想っているのに、このころの亮二は猜疑心の塊で素直になれない。そんな亮二の態度に亜紀はもう愛されていないと思い込んでいる。若いふたり故に、溝は深くなっていた。
「独りで部屋にいると、消えてしまうような気がするの。私が消えても誰も気づかなくて誰も悲しまない。そう思うと無性に恐くなるの」
亜紀は川崎にくり返し言った。
ふと垣間見せる、この弱さが過去の自分には重かったんだと、亮二は思った。
明るくて気の強い亜紀の外見からは繊細な内面は全く想像できない。いまの自分なら余裕で受け止められることでも、若いころの亮二は亜紀の流す涙に押し流され、彼女を闇の中からひきずりだすどころか自分がひきずり込まれて、一緒に窒息しそうになっていた。
いまの亮二には、亜紀の気持も昔の自分の思いも痛いほどわかるのに、何もできない自分が歯がゆい。亮二はただ亜紀の話を聞いてやることしかできなかった。
それでも亜紀は川崎と逢うようになって明るさを取りもどしていた。亮二は少しでも亜紀の支えになっていることが嬉しかった。
仕事が終わるとまっすぐ家にもどって、特効薬を飲むのが日課になっていた。今日もさっさと用事をすませて、寝る前に特効薬を飲んだ。亜紀に逢わずにはいられなかった。
過去へ向かう夢のなかで、亮二は亜紀と電話をしていた。
電話口から重苦しい空気が流れてきて、会話につまって電話を切る。
すると、亮二は急に空高くあがっていくのを感じた。亮二の魂は身体という不自由な入れ物から抜け出して、ふわふわと星空の下を漂っている。何かに導かれるように進んでいくと、亮二はいつのまにか亜紀の部屋の上空を漂っていた。
屋根を突きぬけて亜紀の部屋へはいると、そこには力を落として涙を流している亜紀がいた。
「もっと、もっと強くなりたい。亮に負担をかけない、おとなになりたい。亮の苦しみを半分でも受け止められるおとなに……」
亜紀はそう言って泣き崩れた。
亜紀の姿を見ていると、急に亜紀の心情が亮二の脳にテレパシーのように伝わった。
「どうして一緒にいてもこんなに淋しいんだろう。こんなにも亮にそばにいて欲しいのに、逢うともっと孤独になる。歯車が合わないのはなぜ? 好きで、好きすぎて、上手に接することができない。少し距離を置いたほうがいいのかな? 私が亮を苦しめている」
夢はそこで醒めた。
* * *
薬品の匂いが鼻について目が覚めたとき、亮二は静かな廊下に立っていた。
この廊下に見覚えがある。事故のときに亜紀が入院した病院だった。
それがわかると、胸が急に苦しくなって神社の光景が頭に浮かんだ。心臓の高鳴りと感情の変化を身体が再現して、両手に亜紀を突き飛ばした感触があるような気がしてくる。
亮二は倒れそうになって廊下の手すりにしっかりとつかまった。
事件のあと、亮二はずっとこんな状態だった。何も喉を通らず、眠れない夜が続いた。疲れ果てて眠りにつくと悪夢を見た。亜紀を殺す夢だ。あるときはナイフで刺して、またあるときは紐で首を絞め、なんどもなんども亜紀を殺した。亮二は自分が恐ろしかった。
当時、亮二はこの病院になんどか足を運んだけれど、亜紀が眠っているときにしか病室を訪ねなかったので、亜紀は亮二が見舞いに来たことを知らない。悪夢のせいで睡眠不足が続き、ここで倒れて点滴を受けたことがあった。きっと今日はその日なのだろう。
亜紀は病院で一番良い個室に入院していた。母親は金だけだして一度も見舞いに来ないと看護士が噂をしている。
川崎として亜紀の病室を訪ねると、亜紀はとても驚いて、すぐに亮二の大好きな笑顔を見せた。あの事故のあとは、二度と見ることがなかった笑顔だ。
「亮とは、もうだめかも」亜紀が目を細めて淋しそうに笑った。「逢いにきてくれないの。きっと愛想が尽きたのよ」
「そんなことは絶対にないよ。戸惑っているだけさ」
亜紀は寂しそうにふっと笑った。
「もう、踊れないんだって。お医者さんにバレエは無理だって、はっきり言われちゃった。そんなこと言われてもピンと来ないの。バレリーナになろうって真剣に思っていたわけじゃなかったのよ。大好きなバレエを仕事にできればいいなって、思っていただけ」
亜紀が上半身を起こそうとしたので、亮二は身体を支えてゆっくりと起こした。
「踊れないんだよね。この足じゃ」足をさすって亜紀が呟いた。「でもね、涙がでないの」
亮二は胸がしめつけられて、気づくと亜紀を力強く抱きしめていた。
「泣いていいんだよ。強くならなくったって、そのままの君でいいんだよ」
亜紀の頬を一筋の涙が伝って、亮二の腕のなかで彼女は声を抑えて泣いた。
* * *
亮二は急に現代にもどされてベッドの上で目を醒した。
帰ってくるときの夢のなかで、辛そうな顔で海岸を歩いていた瑠花が、初老の男と仲良く夕陽が沈む海を見つめていた。
なぜ急に現代へもどされたのか、亮二はすぐにわからなかった。アレルギーの原因として考えられるのは、隣の病室のお婆さんがくれたメロンしかない。泣き止んだ亜紀に亮二が切ってやって、ふたりで食べたのだ。
食べた後に上顎と喉の奥が痒くなった気がした。そのうち腹の調子が悪くなったので、亜紀に「お大事に」と言って、病室をでたところで意識を失った。でも、メロンは前にも食べている。なぜ今回だけアレルギーがでたのだろう?
病院でもらったアレルギーの小冊子にはアレルギーを誘発する代表的な果物にメロンが上げられていた。特に鮮度が低いものを摂取したときや、一度に大量に食べた場合に起きることが多いらしく、症状は口のなかや喉の痒み、下痢や腹痛とあるので、やはりメロンで間違いなさそうだ。原因がわかると、すっきりして、急にいま経験した過去のことがずっしりと亮二の胸にのしかかってきた。
亮二はとうとう事故の後に飛んだのだ。穏やかな亜紀との時間が続いていたので油断をしていた。事故のことを忘れていたわけではなかったけれど、亜紀との時間を純粋に楽しみたくて考えないようにしていた。さっきまで目の前にいた亜紀と自分は住む世界が違うのだと思い知らされて、亮二は事故の真相を知るという、本来の目的を思い出していた。
事故の後に飛んで、亜紀だけでなく自分もあの事故で心に傷を負ったことを自覚した。どんな秘密が隠されていようと真実と向き合わなければならない。
亜紀が神社の階段から落ちたときのことを考えていると、重大なことに気づいて足が震えた。
亮二が過去にいるとき、その時代の自分には意識がない。逆に言えば、過去に意識を失ったときに未来の亮二が現れている。こんな簡単なことに気づかなかった。
神社で亮二の記憶が途絶えた。
つまり、自分がその場に現れたということだ。その事実に気づいて亮二は愕然とした。