第四十二話 再会 1986年
「ラテックスアレルギーですね」
てきぱきとした口調で白衣が似合う美しい医者が言った。
街で逢う美人の女医にはグラっとくるけれども、患者としては美しすぎる医者には診てもらいたくないものだと、しどろもどろに女医の質問に答えながら亮二は思う。
優希の部屋からもどって撮影の準備でゴム手袋をつけた亮二は、一時間ほどして手がひどく痒くなった。手袋をはずすと水泡をともなう細かい湿疹で手が真っ赤に腫れ上がっていたので、急遽会社の近くの皮膚科を訪ねていた。
「ラテックスアレルギー? 何ですか、それは?」
「ゴムのことです。正確にはゴムの木の樹液に含まれるラテックスというタンパク質です。ゴム製品に接触することでアレルギーが起こる人がいるんですよ。そんなに神経質になる必要はないですが、症状が進むと血圧が低下して意識がなくなり、アナフィラキシーショックを起こすことがあるので気をつけて下さい」
「どんなものが、ダメなんでしょうか?」
「ゴム製品全般と接着テープやスパンデックスの衣類とか……カテーテルのような、医療用品にも多く使用されていますから、病院に行かれる際はラテックスアレルギーがあることを医師に伝えて下さい。それから、コンドームもダメですよ」
「えっ、コンドームもですか?」
間の抜けた声をだした亮二を見て、女医はクスッと笑って答える。
「ラテックスフリーのポリウレタン製のコンドームを使って下さい」
「はあ」亮二はなんとなく照れくさくなって、少し腫れが治まったように見える手をじっと見つめ、開いたり閉じたりを繰り返した。
「バナナやアボガド。それにキウイや栗も、食べるときは気をつけてくださいね。これらのタンパク質がラテックスのタンパク質と似ていて、アレルギーを起こすことがあります。スギやシラカバのアレルギーを持っている人に起こりやすいとも言われていますが、何か他に思い当たるアレルギーはありますか?」
「花粉症がひどいのです。たぶん、猫や埃のアレルギーもあると思います」
「そうですか。では調べてみましょう。これをお渡ししときますね」
亮二はアレルギーの種類が詳しく書かれたリストと小冊子を受け取ると、血液検査をして病院をでた。リストは役に立ちそうなので持ち歩こうと財布に挟む。小冊子には亮二の知らないアレルギーのことがいろいろ載っていた。
社にもどらないでそのまま帰宅し、家で処方されたステロイドの薬をぬると症状は少し落ちついた。
アレルギーと聞いて、亮二はタイムトラベルを連想した。最近は特効薬を飲んでいないことに気づく。
亮二は机の引き出しをあけて、福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石、そして聖徳太子の懐かしい旧札を取りだした。これらは少し前にネットオークションで手に入れていたものだ。連番は値がはる。どうせ使うのだし、手数料の安いものを選んだ。現代でも古い紙幣は使えるので少しでも多いほうがいいと思い、聖徳太子の旧千円札も手に入れた。
正直なところ、亮二は過去と向き合うことにもう嫌気がさしていた。辛い思いをして、過去を知る必要もないように思えた。だが、自分が亜紀を突き落としたという疑惑が心から消えない。それが亮二を怯えさせる。事故の真実だけは知りたかった。
ひさしぶりにタイムトラベルをする気になった亮二は、旧札を財布に入れて特効薬を手に取った。
* * *
発車を知らせるピロピロピロという耳障りな電子音が聞こえると、ガタンと大きく揺れて亮二はふらついた。目が覚めると山手線の中にいた。電車は秋葉原をでたところで、亮二はホームとは反対側のドアの前に立っている。目を丸くしてぽかんと口をあけた、五歳くらいの男の子がじっと亮二を見ている。亮二と目が合うと、子供の眉がへの字になった。この時代に現れた瞬間を見られたようだ。
亮二はその子にニコっと笑いかけて顔の横で小さく手を振った。あやすつもりが子供は顔をしかめて泣きだしたので、亮二は逃げるように隣の扉へ移動する。
移動した先のドアに一番近い席で、若い自分が眠っているのを見つけた。
二十代前半に見える昔の自分を見て、いつの時代に来たのかを知るために亮二が車内を見まわすと、山手線はまだ国鉄のマークだった。JRになったのがいつか覚えていない。亮二は雑誌の中吊り広告に目を向けた。
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中吊り広告の内容から一九八六年だとわかった。亜紀が神社で怪我をする約三ヶ月前だ。
誕生日に亜紀の約束をすっぽかし、仕事が忙しくて亜紀とはうまくいっていなかったころだった。CM制作のバイトを初めて半年が過ぎたころに、山手線で爆睡して急ぎの届け物を持ったまま都内を何周もまわっていたことを思いだした。本当のことを言っても誰も信じてくれず、もう少しましな嘘をつけと怒られた記憶が甦る。
スーツの人が多いので平日なのだろう。亮二は亜紀に逢いに新宿へ向かうことにした。平日なら亜紀はバイト先にいる。品川駅に着くと若い亮二の隣の席が空いたので、すかさず座った。昔の自分の胸ポケットにある手帳が欲しかったからだ。
手帳を取ろうと、なんどもトライするけれどもなかなかうまくいかない。人の目が気になって思い切った行動にでられない。あと一歩のところで勇気がでなかった。
早くしないと新宿についてしまう。亮二は焦った。
すると電車はカーブにさしかかり大きく揺れて、若い亮二が覆い被さってきた。電車が渋谷駅に着いてたくさんの人が降りる。亮二はざっと左右を見まわした。誰も見ていない。いまがチャンスとばかりに昔の自分の胸ポケットに手を入れて手帳を抜き取った。
手帳の紙を一枚破って亜紀の名を書き、アドレス欄からバイト先の電話番号を写すと、それを最初のページに挟んだ。電車は新宿駅に着き、亮二は昔の自分を残して手帳を持ったまま電車を降りた。
東口をでたところの公衆電話から、さっき写したバイト先の番号に電話をかけて亜紀を呼びだした。いつもより低い声を出し、池下亮二という人の手帳を拾って、そこに亜紀の名前と店の電話番号が書いてあるメモがあったと手短かに告げると、亜紀は疑いもせずに手帳を取りにくるという。亮二は心臓が大きく音を立て走りだすのを感じながら、三十分後にタカノフルーツパーラで手帳を持って待っていると告げて電話を切った。
こんどこそ亜紀に逢える。亮二の心は弾んだ。
前のときみたいにアレルギーが起きないように注意してすぐにタカノへ行く。ホットを頼んで五分おきに隣の人の腕時計を見ていると、二十分も経たずに亜紀は店へ姿を現した。
水色のシンプルなミニのワンピースを着た亜紀を見たとたんに胸がときめいた。大好きだったくしゃくしゃな亜紀の笑顔がすぐそこにある。長いこと自分が追い求めていたのは亜紀だと確信した。
亜紀はテーブルの上の手帳を見つけると、笑顔を向けて亮二の前に座った。手帳の礼を言って簡単に自己紹介をする。
亮二は亜紀に名前を聞かれて、咄嗟に”川崎雅也”と、部下の名を騙った。
「ボーイフレンドの手帳ですか?」
亮二は手帳をテーブルの上で滑らすようにして、亜紀に差し出した。
「ええ。これで逢う口実ができたわ」
亜紀がクシャクシャな顔をして笑う。
「彼が羨ましいね。どんな人なの?」
「川崎さんにちょっと雰囲気が似ているかも。年をとったら、そんな感じになりそう」
「年をとったらか」亮二は苦笑いをした。やはり亜紀は、誰とでも親しく話すと思う。
「川崎さんみたいに渋くなってくれたらいいな。結婚しても素敵な旦那樣がいいもの」
「もう、結婚したいの?」
「ええ」亜紀はうなずいた。「彼と結婚して、ふつうの奥さんになるのが夢なの」
「ふうん、珍しいね。この時代の子はみんなキャリアウーマンになりたいって言うのに」
亮二は驚いた。亜紀の夢はバレリーナになることだと、亮二は思い込んでいた。
ウエートレスが水を亜紀の前に置き、注文を聞きに来た。
「ご馳走するよ」と言って、亮二はメニューを亜紀に渡す。
わざわざ届けてもらってご馳走なんてとんでもないと遠慮する亜紀に、「年をとっているから大丈夫」とウインクをして、亮二はフルーツパフェを二つ頼んだ。
「君は、付き合う人の過去は気になるかい?」
亮二はコーヒーを一口飲んで亜紀に訊いた。
「過去を知りたいとは思うわ。好きな人のことは全部知りたいもの。でも、気にするのとは少し違うかな。知りたいと思うのと、気にするのとは違うでしょ。過去を気にしても仕方がないし、それに現在がすべてじゃない? 私は過去にも未来にも恋をしないわ」
「過去に恋をしないか。じゃあ君は、別れた男をすぐに忘れられるの?」
「引きずることもあると思う」亜紀はちょっと考えてから答えた。「でも、できるだけ前を向いて歩いていたいの。だから自然消滅って嫌い。ちゃんと終わらせられないでしょ」
「そんな風に全身でぶつかっていって、傷つくのは恐くないのかい?」
亮二はカップをそっとテーブルに置いた。
「傷つかない恋なんてないんじゃない? ちゃんと向き合えば傷はいつか癒えると思うの。辛い恋から逃げて傷ついてないつもりでも、自分で気がつかないだけで心は傷ついてるわ。古傷のほうが始末が悪いと思わない?」
自分は亜紀のどこを見て疑っていたのだろう?
亮二は、まっすぐな目をして語る亜紀が眩しかった。
ウエートレスが色彩豊かなフルーツパフェをふたりの前に置いた。イチゴにバナナ、桃やメロンもはいっている。亜紀は「おいしそう」と言って目を輝かせた。
よくこうやって亜紀と向かい合い、パフェやケーキを食べさせられたことを思い出して、亮二は急に懐かしくなる。
「美味しくて、元気がでてきた」と、亜紀がスプーンを口に運んで言った。「実はこれでも私、いまけっこうめげているの」
「彼とうまくいってないの?」
亮二が聞くと、亜紀はうなずいた。
「誕生日に仕事で使えるものを何かプレゼントしたくて、わざわざ彼の友達に頼んで一緒に選んでもらったのよ。それなのに彼ったらあけてもくれないの。その日のデートもすっぽかされたし、つい、頭に来ちゃって、絶対言っちゃいけない一言を言っちゃった」
亜紀が長瀬と買物をしていたのは、自分へのプレゼントだったことに驚き、亮二は言葉を失った。
「すぐに謝ったのだけど許してもらえないみたい。こんなに大好きなのに嫌われちゃった。あれ以来、彼の気持ちが冷めているのがわかって、前みたいに逢いに行ったり電話したりできなくなっちゃった」
亜紀は話し終えると、長いスプーンでアイスをすくって口へ運んだ。
あのころの亮二は、亜紀が滅多に逢いに来なくなり電話もなくなったので、長瀬と一緒にいるのではないかと疑っていた。
「それは辛いね。男はかっこつけていても、実は弱くて情けないからね。どうしていいかわからないんだよ。彼も君のことが好きだと思うよ」
「どうかな? 彼の前だと冷静でいられなくなって、怒ったり泣きわめいたりしちゃうの。私が一緒にいると疲れさせちゃう。だから我慢をしてるんだけど、結構限界かも」
「君はとても魅力的だ。自信を持って」
亮二が励ますと、亜紀は少し照れて目を細めた。
「相談相手がいないから、川崎さんに聞いてもらってすっきりした。初めて逢ったのに、何でだろう? ずっと昔から知っている親戚の叔父さんみたい」
亜紀はクスッと笑った。
「親戚の叔父さんね」亮二は苦笑いをして、ためらいながら聞いた。「彼の友達っていうのは?」
「とても優しくていい人よ。でも、彼が気にしてるから親しくしないようにしてるの」
亮二はそれを聞いて胸が痛んだ。
なぜ、あんなにも長瀬のことを気にしていたのだろう?
亜紀はパフェをきれいに食べたが、亮二はアレルギーを気にしてバナナを残した。
「バナナ、嫌いなの?」
「アレルギーなんだ。花粉症もひどくてね」
「花粉症?」
この時代はまだそんなに花粉症が知られていないようだ。亮二が花粉症を説明すると、亜紀はなんとなく聞いたことがあると言った。
楽しい時間はあっという間に過ぎて亜紀がバレエ教室に行く時間になった。
仕事でたまに上京するのでまた連絡してもいいかと、思い切って亜紀に訊ねると、亜紀はためらわずに、バレエ教室と家の電話番号をさっきのメモに書いて、亮二に渡した。
ふたりは店をでると京王線の改札まで並んで歩いた。
「こんなに楽しかったのって、ひさしぶり」
亜紀は少し淋しそうな笑顔でそう言うと、手を振って人の波にのまれていった。
神社に行かないようにと、なんども言おうと思った。でも、未来は変えられない。神社に行かずとも亜紀は踊れなくなるだろう。過去を変えれば、もっと大きな怪我をするかもしれない。そう思うと、亮二は事故のことは告げられなかった。
もうここにいる必要がないのにアレルギーは起きない。まだ完治していないけれども、ゴム手袋を買って右手にだけ手袋をつけた。十分もしないうちに手が痒くなってきて、亮二は意識を失った。