第四十一話 優希の出生
じめじめした梅雨がやっとあけて晴天の日が続いているが、亮二の心は晴れないままだった。
桜花堂のコマーシャルは好評でキャンペーンは大成功した。彗星のごとく現れて一躍有名になった優希は、七月から紫とのドラマも始まって、いまや時の人となっている。
田辺に頼まれた優希のサインのことは気になっていたが、亮二は瑠花とのことがあってから女性を遠ざけて、仕事以外のことを考えないようにしていたので、まだ連絡もしていない。瑠花を責めたあの夜から数週間が経っていた。
台風が近づいて天候がくずれた日に優希から電話があった。天気のせいで急に撮影が中止になったというので、亮二は優希のマンションにサインを取りに行くことにした。すっかり優希は顔が知られていたので前のように気軽に外で逢うわけにいかない。
優希が亜紀の娘ではないかという疑いは常に亮二の心にあった。優希のプロフィールを確認すると、誕生日は一九八七年十二月二十五日だ。
自分の子である可能性も疑って、亮二は過去の日記を探る。記述によると最後に亜紀に逢ったのは四月三日だった。亜紀が別れを告げに来た日だ。その前は亮二の誕生日の三月五日。その日を最後に亜紀の身体に触れていない。
亮二の子なら優希の誕生日は十一月でなければおかしい。
予定よりもひと月も遅く、生まれることはあるのだろうか?
亮二は少し頭を悩ませて、優希が亜紀の娘であるとしても長瀬の子と考えるほうが自然だと結論づけた。
亮二は昼すぎに優希の家へ向かった。山手通りを北西に進み、青葉台交差点の角を右に曲がる。昔はここにアートコーヒーがあった様子が頭に浮かんだ。道を曲がってすぐに、目黒川がある。その手前にある十二階建ての大きなマンションの十階に優希は住んでいた。かなり古いビルだが、代官山の方まで高いビルがなくて見晴らしがいい。
天気が良かったら素晴らしい眺めだろうと思っていると、亮二の心を読んだように、「景色を気に入ってこの部屋に決めたの。夜は星がいっぱい見えるのよ」と優希が言った。
亮二はサインをしてもらって玄関先で帰るつもりが、お茶を勧められて部屋へあがってしまった。優希の元気な顔を見て、ひさしぶりに明るい気分になれたからだ。
優希の部屋はオレンジ色を中心に鮮やかな色のポップな雑貨が部屋を彩り、彼女の個性が良く表れていた。優希はいれたてのコーヒーをテーブルに置くと、小さめの二人掛けソファーを亮二に勧めて自分は床にクッションをひいて座った。
色紙を渡して、クリスマスに生まれたんだってね、と言って、亮二はさりげなく生まれたときのことを訊くと、優希はサインをしながら、クリスマスが予定日と知った母親がとても楽しみにしていて、初産は遅れると聞かされていたのに予定どおりクリスマスに生まれたことをとても喜んでいたらしいと答えた。
その話が本当なら優希は亮二の子ではない。母親の名を知りたかったが、なんとなく訊くのがためらわれた。
優希はサインペンに蓋をして、ペンと色紙を亮二に渡すと、亮二の目をじっと見た。
「何かありました? 少し逢わないうちに感じが変わりましたね」
勘が鋭い優希は、ここ最近の亮二の異変にすぐに気づいた。
「そうかな? 別に何もないけど」
亮二が顎を撫でて視線を右に泳がせると、優希は口元に笑みを浮かべて「怪しいなあ」と下から亮二の顔を覗き込み、目をあわせようとする。
「私はどう? 何か気づきませんか?」
「どうって、綺麗になったよ」
「それだけ?」優希は不満そうに口を尖らした。「亮二さんって、彼女はいないの?」
優希はいつのころからか、ふたりだけのときは亮二を下の名で呼ぶようになっていた。
「何だよ、急に」
「いいから答えて」
「特定の女は作らないんだよ。誰とも付き合わないし、もう結婚もしない」
「好きなひとは?」
めんどくさそうに大きな溜め息を一回ついて、亮二は答えた。
「おとなになるとね、なかなか恋なんてしないんだよ」
「ふうん」と言って、優希が意味ありげな視線を亮二に向ける。
その目の動かし方が亜紀にそっくりで、亮二はドキっとして、一瞬昔に引きもどされた感覚に陥った。
「青山のミューズって定休日はあるんですか?」
唐突に優希が瑠花の店の名を口にし、亮二はびくっとした。
優希は、亮二のささいな表情の変化も見逃さないかのようにじっと亮二を見て続ける。
「近いうちに行こうと思って。一緒に行きませんか? オーナーに紹介して欲しいな」
「今は時間が取れないよ。店は祭日は休みだけど定休日はない。七時までやってるはずだ」
亮二は窓の外を見る振りをして優希と目が合うのを避けた。すると、自然に壁の時計が目にはいる。社にもどらないといけない時間なので亮二は立ちあがった。
「また逢えますか?」と優希は玄関まで送って訊くと、「こんど、メシでも食おう」と亮二は曖昧に返事をした。
優希への感情が瑠花に対するものと全く異なることを感じていた。それは亜紀への幻想であり、亜紀への気持ちは未練と罪悪感かもしれないと考えていた。
突然、「おまえが亜紀を階段から突き落としたからだろう?」と胸のうちの声が聞こえてきて、亮二は背筋が冷たくなるのを感じた。