第三十九話 荷物をおろした日
亮二は紫に呼ばれて麻布に古くから店をだしている、カウンターに十席あるだけの小さな寿司屋の前にいた。
紫の撮影は今日で無事に終わって桜花堂の仕事は順調に進んでいる。編集作業があるので気は抜けないけれども、撮影が無事終了したことを祝って亮二がスタッフと飲んでいると、一時間ほどして紫から電話があったのだ。急な呼び出しに、相変わらず勝手な女だと思ったが、過去にした仕打ちを思うとむげに断れない。それになぜか今夜は、紫の誘いが嬉しかった。
いちげん客を断るこの店はプライバシーが守られるので著名人がよく利用する。亮二は紫と別れてからは滅多に来なくなっていた。
引き戸をあけると、紫がひとりでカウンターに座っているのが見えた。すかさず、板前の勝さんが「いらっしゃい!」と、威勢のいい声をあげる。亮二が軽く頭をさげて席に座ると、奥さんがのれんをしまって鍵をかけた。
刺身を適当に見つくろってもらい、亮二は焼酎を頼んだ。紫は運転するのでお茶を飲んでいる。亮二は過去を見てきたばかりでなんとなく気まずいけれども、紫にとっては遥か昔の話だ。なるべく自然に接しようとして、紫に話しかけた。
「急に呼びだして、こんどは何だ?」
「いきなり何だとは、とんだご挨拶ね。このまえは誘ってくれたじゃない」
「おまえは断ったじゃねえか」
「気が変わったの。お礼もしないといけないし」
紫が綺麗に巻かれた髪をかきあげた。
「礼なんて、いいよ。それより……」亮二はふうっと溜め息をつくと、グラスを見つめて呟くように続けた。「悪かったな」
紫が大きな目を更に大きくして、きょとんとした顔で亮二を見た。
亮二は反応を伺うように紫をちらりと見て、また視線をグラスにもどす。
「おまえを亜紀と比べていて、悪かったって言ったんだ」
「いまさら?」
「しょうがねえだろ、いままで気づかなかったんだから」
亮二が乱暴にグラスを口に運ぶのを見て、紫は箸をおき、亮二のほうに身体を向けた。
「あなたは私をちっとも見ようともしないで勝手に他の女に似てると思い込んで、挙句の果てに『思っていたのと違う。理想とギャップがあった』では、こっちはたまらないわ」
紫は亮二を鋭く睨みつけて、すぐに微笑んだ。「あのころ、こんな風に気持を言えれば良かったのよね」
「すまなかった」
「勉強になったわ。女は好きになった人が理想になるけれど、男は理想にあてはめられそうな女を好きになって、もっと理想に近づけようとする。たいがいの男はどんなに時間をかけても、理想に合わない女は愛せない。男は一生、理想の女を求めるのね」
亮二は苦笑いをする。
「おまえが荒れていたとき、叱って欲しかったのか?」
「それもいまごろ気づいたの? 亮ちゃんが止めてくれるのを、ずっと待っていたのに」
紫はクスっと笑って亮二に視線を緩やかに流すと、揺れる瞳でじっと見つめた。
紫と過ごした歳月が頭をよぎる。いい女になったなと、亮二は素直に認めた。
紫がレインボーブリッジを見たいというので、亮二は一緒に派手な車に乗った。真っ赤なマセラティは、昔、紫とドライブしたルートを走る。
「景色が全然違うわね」
「十年以上も経てば変わるさ」
「亮ちゃんも、ちょっと太ったしね」紫が不満そうに言う。「私もあなたに着せられていたぶかぶかの服をアレンジして、いつのまにか上手に着こなせるようになっちゃたわ」
そう言って紫は、少し寂しそうに笑った。
紫は豊海水産埠頭で車を停めエンジンを切った。竹芝桟橋の方角には東京タワーが立ち、フロントガラス越しにはライトアップされたレインボーブリッジが見える。パノラマで見る東京湾岸の夜景の美しさに息を飲んだ。
他に車はなかったが、用心して外にはでない。遠くで汽笛が鳴って、月の明かりが紫の艶やかな顔を照らした。しばらく、心地よい静寂がふたりを包んだ。
「結婚するのか?」
「たぶんね」紫が窓の外を見たまま答えた。
「ちゃんと、叱ってもらえよ」
「亮ちゃんも、いい加減に忘れなさいよ」と言って紫が振り向くと、魅惑的な瞳が亮二の目を捉えた。急に居心地の悪い空気が車の中に流れて静寂が訪れる。
「おまえが忘れさせてくれないか?」
沈黙の末に、自分の口からでた言葉に亮二は驚いた。
紫は戸惑いを隠せず、真意を測るように妖しい瞳で亮二を探る。
ふたりはじっと見つめあい、車内は再び沈黙に包まれた。亮二の左手が紫の整った顔にそっと触れようとしたとき、紫が目を伏せてふっと笑った。張りつめていた糸が切れる。
「私の顔は、思いださせることはあっても忘れさせることはないわよ」
「だよな」
亮二はシートに背をもどして、口の端を持ち上げた。
少しだけ、いまの紫とならやっていけるような気がした。
紫は亮二をマンションの前まで送った。
亮二が車から降りようとするのを、「ちょっと待って」と紫が止める。亮二が無防備に振り向くと、紫は両手を亮二の首の後ろにまわし「あなたのことは一生好きよ」と言って、いきなりキスした。
亮二は予期せぬことに驚いて身体が固まる。慌てて紫から離れると辺りを見まわした。
紫はあたふたしている亮二を見て笑っている。
「こんなことして撮られたらどうするんだ。とにかく、こんな派手な車は売っちまえ!」
「心配しなくていいわ。おやすみのキスよ。頑に心を閉ざしている人はこりごりだもの」
「そういうことを俺は言ってるんじゃねえ。何かあっても、もう助けてやらねえからな」
亮二は憎まれ口を叩くと、車を降りてドアを強く閉めた。
紫は楽しそうに笑って右手をあげ、「じゃあね」と言って、マセラティを発車させる。
亮二は車を見送りながら「勝手なやつ」と呟くと、紫に振り回されている自分が急に可笑しくなった。
紫はとっくに自分の道を歩き出している。亮二は大きな荷物をひとつ、やっと、降ろせたような気がした。
亮二が部屋の前で鍵を取りだしたところに、田辺から携帯に電話がかかってきた。右手がふさがっていたので、携帯を左の耳と肩で挟み、左手で鍵をまわしてドアをあける。
「ひさしぶりだな。どうした?」と言いながら、玄関の電気をつけた。
「長瀬の子供の名前がわかったよ。おまえ、知りたそうだったからさ」
「そんなことで、わざわざ電話してきてくれたのかよ」
「実は、ちょっと頼みがあってさ。桜花堂のCMをおまえやっているだろ。白鳥ゆかりもいいけど、新しい子もいいよな。瀬名優希だっけ。つい、友達がこれを作っているって、おまえのこと自慢しちゃったんだよ。そしたら、サインを甥っ子に頼まれちゃってね」
紫より先に撮り終えた優希のCMは、今週からオンエアされていた。
「そういうことか。瀬名優希のサイン、もらっとくよ」
亮二はリビングにはいって、携帯を持ったままジャケットを脱いだ。
「助かるよ。おまえさ、美術科にいた鷺沼って覚えてる? 長瀬と仲良かった」
「ああ。ロンゲで髭を生やしていたやつだろ」
「そうそう。こないだ、現場で会ってさ。あいつ、長瀬の子が生まれたときに家に行って子供の写真も撮ったらしくてさ、しばらく年賀状のやりとりもしてて名前も覚えてたよ。漢字が違うけど瀬名優希と同じで、有紀っていうんだ。有名の有に糸偏に己だ」
亜紀にそっくりな優希と、亜紀の娘が同じ名前? そんな偶然があるのだろうか?
亮二は眉をひそめると、ソファに身体を投げだして訊いた。
「鷺沼って、長瀬とまだ付き合いあるの?」
「いや、お袋さんが亡くなったときに長瀬は家を売ったんだ。鷺沼もやつが引っ越してからは付き合ってないそうだ。嫁さんがいなくなって子供は施設に預けられたようだけど、それが一時的だったかどうかもわからないな。海外にいるって噂もある」
「誰も長瀬の消息は知らないんだな」
「また、何かわかったら教えるよ」
亮二は田辺に礼を言うと、サインを渡すときに飲もうと約束をして電話を切った。