第三十七話 怯えの正体
アメリカのスポーツバーのような目黒川沿いのカジュアルなバーで、亮二は優希と待ち合わせた。
店内は薄暗く、奥にダーツの台が数台並んでいて、数年前はよく使われていたらしいが、いまではオブジェになっている。
亮二が着いたときには、既に優希はカウンターに座っていた。知らなかったが、優希もこの近くに住んでいるらしい。優希が赤ワインを飲んでいたので亮二も同じものを頼んだ。ふと、亜紀が赤ワインを嫌っていたことを思いだした。
しばらく仕事の話や雑談をして、ワインがほどよく亮二を酔わせたころ、亜紀の話を切り出した。
「前に、彼女と喧嘩別れした話をしたよね。彼女が泣いて出て行ったって。覚えてる?」
優希が「はい」と言ってうなずいた。
「あれ、続きがあるんだ」亮二はゆっくりとグラスを置いた。「俺は五分ほど経ってから彼女を追っかけた。引き止めようと思ったんだ。よく行く喫茶店、本屋、公園、駅、街中を走りまわって探したけれど見つけられなかった。すぐに追いかければ良かった。悩んだ五分ですべてが決まってしまったんだ。もし携帯があったら、あの時代の多くのカップルが別れないで済んだだろうな」
あの日亮二は何時間も走りっぱなしで亜紀を探して、貧血を起こし救急車で運ばれた。睡眠不足で疲労もたまっていて、病院のベッドの上で目が覚めたのは次の日の朝だった。絶望的な気持ちになった朝のことを、いままですっかり忘れていた。
亮二がデュポンのキャップをあけると、ピーンと、心地よい音がカウンターに響いた。
「彼女はそのことは?」
「いまも知らない」亮二は煙草に火をつけて白い煙を吐きだした。「どうしても逢わなきゃ、いま言わないといけないって、わかっていたけど遅かったんだ」
「後悔しているんですね」
「なぜ、彼女の手を取らなかったんだろう。ただ抱きしめるだけで良かったのにと、ずっと悔やんだよ。自信がなくて拒絶されるのが恐かったんだ。あいつのためには別れたほうがいいとも思っていた。あのとき俺は大切なものを手放す実感がなかったのさ」
「もし逢えていたら、引き止められたと思いますか?」
亮二は煙草をふかしながら、ゆっくりと首を左右に振った。
「さあ? でも、想いを伝えていたら、例え別れても、後になってこんな風には思わなかったかもな」
「うまくいかなくなったきっかけは、何だったんですか?」
「大抵きっかけは、たいしたことじゃないんだよ。でも一度歯車が狂うと、その恋はどうしてこんなにもうまく行かなくなるのだろうね。少しずつすれ違い始めて、次第に修復できないほどの溝ができちまう。気づいたころにはもう遅いんだ」
「なんとなく、わかります」
「きっかけは、俺が悪かった。友達のなかに俺に好意を持っていた女の子がいて、その子に彼女の存在を話さなかったんだ。浮気するつもりなんてなかったけれど、ちょっとだけ、いい気になっていた。女の子の存在がばれて、そんな俺の気持ちを彼女は見抜いた」
「それは、同じ女として許せないかな」
「男ってずるいからね、他の女の子にもいい顔しちゃうんだ」
亮二はもう一杯ワインを、優希の分も一緒に頼んだ。
「男じゃなくて、池下さんがでしょ」優希が軽く睨んだ。「その子とは何にもなかったんですか?」
もちろん、と言って亮二は即座に否定した。
「俺は純情だったし、何より彼女に惚れ込んでいたからね。その子とはすぐに友達付き合いもやめたよ」
「でも、彼女は信じなかった?」
亮二は目でうなずいた。
「ちょっとだけ、彼女の気持ちがわかります。私も似たような経験があるから」
「あのときは相手の気持ちも考えずに何の説明もしないで、めんどうくせえって、思っていた。言わなくてもわかるだろって。そうしたら、彼女は俺の友達に相談を持ちかけた。こんどは俺がふたりの仲を疑って泥沼だよ。いま思えば、彼女は俺に焼きもちをやかせたかっただけかもしれない」
「信じられなかったんですか?」
亮二は黙った。
バーテンダーがワインをふたりに手渡した。
「結果的にはそうだな。相手が悪かったんだ。俺は兄貴にコンプレックスがあってさ、その友達は兄貴に良く似ていたんだ」
――亮二と亜紀はギクシャクしながらもお互いを必要とした。ところが卒業のころになって関係が少しずつ変わり始めた。二年間も専門的な知識を学んだのに、いざ就職となると仕事に結びつかない。大手の会社は専門的知識のある亮二たちより、何も知らない有名大学の卒業者を選んだ。それでも友達の就職が次々と決まっていくのに自分は決まらない。焦りと不安を抱えていた。楽天家の亜紀に呑気な口調で励まされると、亮二はもっといら立った。
結局、就職先は決まらず亮二は先輩に紹介されて、いまの制作会社でバイトを始めた。最初は手伝い程度で撮影日にだけ呼ばれたが、そのうち制作に関わって眠る間もない毎日が続いた。「制作」の仕事は覚えることが多くて、亜紀をかまっている余裕がなかった。
亜紀が家で待っていても、ろくに口も聞けずに眠ってしまう。悪いとわかっていたが、午前一時に帰って二時間後には起きる生活だ。限界だった。泊まり込みで家に帰れない日も続いた。亜紀は、電話一本かけられないのかと、亮二を責めたが、携帯がない時代だ。自分の時間が一分たりともない下っ端に、スケジュールを読むことも私用電話をすることもできるわけがなかった。
亜紀が待っていることが亮二にとってストレスになった。帰れないかもしれないのに、寂しがりやの亜紀を独りで待たせたくない。亜紀にしばらく家に来ないように言ったことが誤解を生んで、亜紀は亮二が自分から離れていくと思い込んだ。普段は明るく振る舞って前向きな亜紀が、本当はずっと孤独で淋しい思いをしてきたことを亮二は知っている。父親に捨てられて母親にもいつ捨てられるかと、不安を抱いて大きくなった亜紀にとって、最愛の人が去っていくのは耐え難い恐怖だとわかっていた。
喧嘩が増えて「長瀬だったらもっと優しい。もっと話を聞いてくれる」亜紀は長瀬を引き合いに出すようになった。亮二は亜紀がおとなの男を欲しているように感じて、兄に似た友人のほうが、ずっと自分よりいい男に思えてコンプレックスを感じた――
「ふたりの仲を疑う根拠があったの?」
優希の問いに亮二は首を縦に振った。
「俺はこの仕事を初めたばかりで、てんてこ舞いだった。ひさしぶりに休みがとれたから、俺の誕生日に彼女と逢うことになった。家を出ようとしたときに時間を遅らせて欲しいと電話があったが、俺はそのまま出かけて待ち合わせの店の近くでぶらぶらしていたんだ。そうしたら、彼女とそいつが仲良く買い物をしているのを見ちまった」
「それだけじゃ、わからないじゃない」
優希が少しむきになって言った。
「寂しがりやの彼女を長いこと放っておいたんだ。信じようとしたけど、俺は約束の時間になる前に店を出ていた。来ないかもしれない、騙されているかもしれないと、一瞬の迷いが浮かんじまった。気づいたら俺は席を立っていた」
「なぜ、直接聞かなかったの?」
「かっこ悪くて言えねえだろ。彼女は俺がすっぽかしたと思って大喧嘩だ」
「あたりまえよ。怒るのは当然だわ」
いつのまにか優希は、親しげな口調になっていた。
――亮二が亜紀を疑ったのは、彼女の弱さを自分は背負えないと思ったからだ。亜紀がもっと大きな男を求めているように感じた。亜紀を惹きつけておく自信もなかった。仕事も恋も上手にこなせない無力さ。必死に働いても所詮バイトという劣等感。それは売り言葉に買い言葉の、亜紀の一言で確実になった。
「忙しいって言っても、亮はバイトじゃん。長瀬さんは就職しているのに余裕があるよ」
亮二の顔はひきつって亜紀を見られなかった。彼女は慌てて謝ったが、言葉は亮二の心に深く刻まれた。
亜紀が、好き? と訊くと、亮二は変わらず、ああ、と答えるけれども、もう亜紀の顔が正面から見られなくなった。――
「それからは溝はどんどん深まるばかりで、あの事故が起きたんだ」
亮二は目をつむって口をとざした。手には汗をかいている。事故が起きたあの日のことを口にしなくなって、二十年以上経っていた。
「事故?」と訊き直して、優希は言葉を止めた亮二の顔を見つめた。
「彼女と神社の階段で口論になった」亮二がようやく口を開いた。「俺は、急に気を失って、意識がもどったときには彼女が階段から落ちていて、そのせいで踊れなくなったんだ。頭を打って前後の記憶がないから、彼女にも何があったのかわからない。もしかしたら俺が突き落としたのかもしれない」
「そんなこと、池下さんがするわけないわ」
「誰も見てなかったんだよ。そうでないとは言いきれない。彼女は精神が不安定になって笑わなくなった。俺が彼女の夢を奪ったかもしれないと思うと、どう接していいかわからなくなって、俺は仕事が忙しいことを言い訳にあいつと向かい合うことから逃げたんだ」
――最悪のタイミングで事故は起きた。亜紀の怪我は生活には支障がないがバレリーナとしては致命傷だった。亜紀が自分で足を踏み外したとは思えない。
事故のとき、記憶を失う直前に胸がえぐれるような感情がわいたのを覚えている。その感情が何だったのか思いだせない。亜紀への憎しみでないと言いきれなかった。
あのころの亮二は長瀬に対する嫉妬で壊れそうだった。ちょうどいま、瑠花に対して、悲しみと怒りと憎しみの感情を処理できないのと同じように、亜紀を信じられなくて絶望のどん底にいた。事故のあとは亜紀を愛しく想う気持ちとは反対に、自責の念にさいさまれて彼女と口が利けなくなっていった。
ある日、急に時間があいて亮二が家にもどると、偶然に亜紀が来た。逢えた喜びよりも、時間ができても亮二が連絡しなかったことを嘆く気持ちのほうが、亜紀には大きかった。
「亮から電話があるかもしれないと思うと牛乳を買いにスーパーにも行けないの。お風呂にも電話を引っ張ってはいるのよ。一日中電話を待って、もう、気が狂いそう」
半狂乱の亜紀を前に亮二は口をつぐんだ。亜紀をこんな風に変えた責任を感じた。自分ではダメだ。亜紀を不幸にする。兄のように大きな器でない自分は、長瀬のように女性を支えてやれないと卑下した。母が自分を嫌っていた理由がわかった気がした――
亮二は話しているうちに優希が亜紀に見えてきた。酒を飲み過ぎたのかもしれない。
亜紀が隣にいるような気がして、懺悔するような気持ちで優希に語り続けた。亜紀の影は日々少しずつ大きくなって、亮二の心を占めていく。
亮二はいまでもあの事故に怯えている自分に気づいた。