第三十五話 トラウマが邪魔して
過去は何も変わっていなかった。
現代にもどって目が覚めた亮二は、日記を読み直してメモの効果がなかったことを知った。紫の本当の気持ちも、亜紀のことも日記に書かれてない。別れ話もせずに、あのままふたりは別れたのだ。昔の亮二は紫の気持ちを知らない。またしても時が軌道修正した。
亮二はたったいま紫の本心を知らされて、現代にもどってからも動揺していた。こんなに長い間、紫がやり直そうという気持があったことを自分は知らなかった。
紫は亜紀の存在も、自分が亜紀と比べていたこともすべて知っていたのだ。
もし、当時の自分がそれを知ったならどうするだろう?
ギクシャクしてたが、愛はなかったわけじゃない。あったからこそ苦しかった。それを証明するように、亮二はいま、過去に例をみないほど、動揺してしまっている。
さっき、紫を抱きしめてやれさえすれば、運命は違っていたかもしれない。それができなかったことが悔やまれてならない。
亮二は過去を変えられないと頭ではわかってはいたが、心がついていかない。なんとしても紫の気持ちを昔の自分に知らせることで頭がいっぱいだった。
まだ、紫りとの関係を修復できるという感触が、亮二の理性を狂わせた。軌道修正なんかに負けたくない。亮二は意地になってもう一度、薬を飲んだ。
* * *
亮二は夜の街角に立っていた。碁盤の目状になった街並から、ここが銀座だとすぐにわかった。路地裏に人が倒れていて、よく見ると昔の自分だった。近寄るとすごく酒臭い。人の気配がしたので物陰に隠れると、すぐに早足で歩くハイヒールの音が聞こえてきた。派手な衣装に身を包んだ女性が靴の音を響かせて、キョロキョロと辺りを見渡し誰かを探している。驚いたことに、その女性は銀座で働いていたころの瑠花だった。
「池下さん」瑠花は倒れている昔の自分を見つけて駆け寄った。「しっかりして」
酔いつぶれている亮二をひどく心配している。シルクのドレスのことなどおかまいなしに瑠花は地面に座り込んだ。座ったまま、後ろから支えるように亮二の上半身を起こして抱きかかえる。頬に手をあて身体を揺さぶっても、男は全く起きる気配がない。瑠花はしばらく、その姿勢のまま若いころの自分を抱いていた。その姿はミケランジェロのピエタ像のようだった。
次の瞬間、亮二は目を疑った。瑠花は抱いている男の唇に自分の唇をそっと近づけた。亮二の心臓が激しく波打つ。なぜ瑠花が、昔の自分にキスしたのかわからなかった。
瑠花は顔をあげて、抱いている亮二を起き上がらせようとしたが、女の力では無理だ。そこは路地をだいぶ奥にはいったところで、飲み屋があまりなくて人通りも少なかった。瑠花は通りに人を呼びに行ったけれど、ひとりでもどってきた。
「どうしました?」
亮二が偶然通りかかった振りをして声をかけると、瑠花はしゃがんだまま振り向いた。
「知り合いが酔いつぶれてしまって」
「一緒に飲んでいたんですか?」
「いえ、この人がふらふら歩いて路地にはいって行くのが見えたので」
客を見送って外にでたときに、瑠花はひどく酔っている昔の亮二を見かけたと言った。
「お手伝いしましょう」
そう言って亮二は大通りに出てタクシーを呼ぶと、瑠花とふたりで酔いつぶれた自分をタクシーに運んだ。
「どこで、降ろせばいいの?」
運転手は酔っぱらいを独りで乗せるのが嫌そうだった。行き先を告げられないので、瑠花がタクシーに一緒に乗る。
亮二は不思議な気持でふたりを見送り、これは紫が家を出た夜の出来事だということを悟った。昔の紫にはもう逢えないということを漠然と感じる。紫とのことは終わったことなのだ。
タクシーが見えなくなると同時に急にアレルギー症状が出た。昔の自分を車に運ぶときに身体に付いていた野良猫の毛が亮二についたのだろう、亮二は現代に引きもどされた。
時空を漂っているあいだ、瑠花が優しく包むように自分を抱いてくれているのを感じていた。
* * *
昨夜、二回続けてタイムトラベルをして亮二はかなり体力を消耗していた。よく考えれば当然だ。いくら現代の時間が進んでいなくても身体は活動しているのだ。今日が休みで良かったと布団のなかで亮二は反省した。
昨夜のトリップは精神的にも亮二に打撃を与えていた。過去を変えられないと実感して、紫とはあの日に終わったことを認めざる得なかった。
落ちついて考えてみると、昔の紫に逢って衝撃的な告白を聞き一時的に自分の気持までタイムスリップしてしまったような感じだった。現実には十年以上経ってしまっていて、亮二も紫も別々の人生を歩いている。確かに離婚のことを考えると胸がチクリと痛むが、それはいまの紫との関係で生じる痛みではない。
なんども紫との過去へ飛ばされて、自分はそこで何かを変えるために行かされているのだと思っていたけれど、そうではなかったのか? 亮二は自分が過去に飛んでしたことを振り返り、結局のところ何もなし得なかったことを悟った。
昨日の経験は自分を知る材料にもなった。優希への想いは紫と出逢ったころの感情と似たものだが、瑠花に対しては違う。瑠花を想うとせつなくて逢うと癒される。
亮二は自分の気持ちに目をつむり相手を試してばかりいた。傷つきたくなくて瑠花を信用しなかった。いまは瑠花ときちんと向かい合いたい。そんな思いでいっぱいになった。
愛情をむりやり封じ込めていた分、いっきに爆発した。気持ちを自覚すると落ちつかなくなって何も手が着かない。
瑠花に逢いたくて、抱きしめたくて、しかたがなくなった。
中途半端な関係なんてやめて、気持に素直になろうと思う。色々問題はあるかもしれないが、まずは自分の気持を瑠花に伝えようと亮二は決心した。
過去は変えられないかもしれないけれど、いまは変えられる。同じ失敗をくり返したくはない。
亮二は瑠花にメールを送った。
「すぐに逢いたい」と正直に書くと、瑠花から「今日は店に出てない」と返事が来たので、「どこでも行く」と返信する。
すると、「白金の都ホテルに一時」と、瑠花が指定してきた。
瑠花と外で逢えると思うと心が躍る。
気を許すと、瑠花は亮二の心をあっという間に支配してしまうから危険だ。でもいまはそんなことは気にならない。亮二は前に進むことを選んだ。瑠花を信じたいと心が望んだ。胸が弾むのがわかった。
亮二は浮かれて時間を持て余し、約束にはだいぶ早かったけれど家をでた。余裕があるときに限って渋滞もなく早く着いてしまう。待ち合わせまでは二時間近くあった。特にすることもないのでラウンジでお茶でも飲んでいようと、亮二は本を持って車を降りた。
「都ホテル」はいつのまにか「シェラトン都ホテル東京」という名になっていた。大きな窓から緑豊かな美しい日本庭園が見えるラウンジは、自然光が差し込んで心が安らぐ。コーヒーを頼もうと顔をあげると、瑠花が亮二と同年代の趣味の良いスーツを着た男ととても親しそうに肩を並べてロビーにはいってくるのが見えた。
彼女は話に夢中になって亮二に気づかない。男が瑠花の耳に顔を近づけて何か囁くと、瑠花は楽しそうに笑い、亮二の前を通ってエレベーターのほうへ消えた。
親密そうなふたりの様子に亮二は声をかけそびれてしまい、急いで瑠花のあとを追う。すると、瑠花と男は空のエレベーターにふたりっきりで乗り込んた。エレベーターの階を示すランプは十二階で止まる。スィートルームの階だ。胸が鷲掴みされたように痛くなる。亮二は震える右手を握りしめて、左手でそれを覆うようにして震えを押さえた。
すぐにこの場を立ち去りたいという衝動にかられたが、思いきって瑠花に電話をかけた。何か用事があっただけかもしれない。瑠花が電話に出てくれるのを願った。
しばらく待っても発信音が空しく耳元でくり返されるだけで、彼女は電話にでない。
自分に見せるのと同じ微笑みを男に向けて、エレベーターに乗った瑠花の顔が頭から消えない。五年前、巧みに亮二を誘った瑠花の妖しい微笑みがちらついた。
本気になるなんてどうかしていた。愛人をしている女の、なにを信じるというのだ。
瑠花にとって自分は特別でもなんでもない。
亮二は、用事ができたとだけ携帯にメッセージを残すと、そのままホテルをでた。
ずっと昔に感じた同じような感情が急に甦って、デジャビュのように亮二の心を支配した。
遠い昔、亮二は言葉にしなくても心は繋がっていると本気で信じていた。それなのに、ある日、破局と絶望に導く悪魔が現れて亮二はすべてを疑った。足下からビルが崩れ落ちるように音をたて破壊されていく。もう誰も、何も、自分すらも信じられなかった。孤独に溺れて深い海の底をあの日からずっと漂っている。辛くてボロボロなのに、立ち直った振りを続けながら氷がいっぱい突き刺さった心がずっと震えていた。
愛しているのか恨んでいるのか、どんなに愛しても憎んでも、それを相手にぶつけないことには何も変わらないのに。亮二はもう二度と、あんな思いはしたくない。
車にもどった亮二は、ハンドルに頭を押しつけて、手の震えが止まるのをひたすら待った。