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第三十四話 最後のチャンス 2000年、夏 

 夢から醒めた亮二はフカフカの羽毛ぶとんに包まれていた。そこは紫と三年住んだ白金の洋館だった。どうりで気持ちのいいはずだ。紫が心地良さにこだわって選んだ掛けぶとんとマットレス。懐かしい感触を肌が覚えていた。


 時計の針は午前八時を指していた。朝が早いのにもう蒸し暑い。紫がいる気配がないので布団から出てリビングに行き、テレビの横にあるキャビネットの上の、見覚えのある猫のカレンダーに目をやった。猫好きの紫が気に入っていたものだ。

 カレンダーはここが二〇〇〇年八月だということを示している。この年は猛暑で眠れない夜が続いていたのを思いだした。このころ紫は毎晩のように家を出て行き、朝にならないと帰って来なかった。


 玄関で鍵をあける音が聞こえたので、亮二は急いでベッドルームの奥にあるメインバスルームに駆け込んだ。すると、その時代の自分がそこにうつぶせに倒れていた。


 紫は帰ってくるなり、スーツケースに身のまわりのものを詰めだした。きちんとたたまないでスーツケースに服やバックを無造作に放り投げていく。亮二はバスルームのドアの隙間から、こっそり様子を見ていた。すると、紫が急に振り返り、バスルームのドア近くのタンスに向かって歩いてくる。

 紫に今の姿を見られるわけにはいかない。

 トイレの中で脱出口を探して、きょろきょろしながら後ろに一歩下がった亮二は、コトンと小さな物音をたてた。紫はその音を聞き逃さなかった。


「亮ちゃん、いるの?」

 返事をするのをためらっていると、紫がバスルームに近づいてきた。

 亮二は急いでドアを閉めて鍵をかけ、ドアに背をむけて寄っかかる。慌てている割には冷静に、自分はよほどトイレに縁があると、便器を横目に思った。

「なにも、隠れることはないでしょ」

 紫がドア越しに話しかけてくる。

「隠れたわけじゃないよ。トイレにいるときにおまえが帰ってきただけだ」

「出て行くから最後に顔を見せてよ」

 見せるわけにはいかないだろ。と、亮二は心のなかで答える。

「いまは、ちょっと……」

 そういって言葉をにごした。


「ねえ、亮ちゃん」紫は口にするのをためらうように、少し間をあけてから心細そうに言った。「出て行っちゃって本当にいいのかな? 私、後悔しないかな?」

 紫の素直な態度に亮二は面食らった。亮二の記憶には紫が髪を赤く染めてから、ふたりできちんと話したことはなかったからだ。亮二は返事につまった。


 迷っているのなら出て行くなよ、と言おうとすると、紫が先に言葉を発した。声が少し震えている。

「掃除をしてたらね、本棚から何か落ちてきたの。拾おうとしたら挟まっていた写真が見えたの。それ、本じゃなくて亮ちゃんの日記だった」

 思いがけない紫の告白に、亮二は愕然とした。


「写真って?」

「私に良く似てる女の人が写ってたわ。髪が短くて目が大きい人。亮ちゃんの好きそうな水色のサマーセーターを着てた。写真、破っちゃった。亮ちゃんはずっと、私じゃなくて、あの(ひと)が好きだったんだね」

「あれは、その……ただ処分しそびれていただけだ。特別な意味はないよ」

「嘘よ。私をあの(ひと)の代わりにしてたんでしょ。私のことを考えているようなこと言って、私はあの女のレプリカじゃないの。短い髪、シンプルな服。色は決まってブルー系だわ。亮ちゃんの理想はあの女じゃない!」紫は気が高ぶって泣きだした。「日記、見ちゃったの」

 亮二はこの場をどうやって取り繕っていいかわからない。何も弁解できずにいた。

「ずっと比べていたのね。亜紀って人と! ばかみたい。私、そんなこととは知らずに、あのひとのコピーになろうと、頑張って……」

 泣き声にかき消されて、言葉にならない。

「紫、落ちつけ。昔のことだ」

「じゃあ、あけてよ。ちゃんと目を見て説明しなさいよ」紫はドアをドンドンとたたき、大きな声をだして泣きわめいた。「卑怯者! 出て来なさいよ」

「そんな状態のおまえとは話せないだろう」

 そのとき、シャワーの横の高い位置にある小さな窓から飼い猫のモカがはいってきた。アレルギーがでるのを恐れて亮二は反射的にモカから遠ざかる。

 以前から猫アレルギーはあったけれど、このころはいまほど酷くなかったので、紫が猫を飼うのを許していた。


 こんなタイミングでアレルギーがでたらまずい……。いや、むしろ、あいつとスイッチしたほうがいいのか? 

 亮二は予期していなかった展開に混乱していた。


「亮ちゃんの思う私のイメージが、ずっとしっくりこなかったの。自分がぶかぶかの服を着せられているような感じだった。やっと、その理由(わけ)がわかったわ」

「確かに、そういうところも少しはあったのかもしれないけど、俺はずっとおまえだけを見ていたよ」


 それは本心だ。紫が好きだった。理想と違っても紫を大切に想う気持ちと、つい、とってしまう自分の態度とのギャッブに、亮二自身どうしていいかわからなかった。

 紫を泣かせる自分に嫌気がさして何もかもが嫌になる。なぜ、大切なひとを幸せにできないのだろう。


「亮ちゃんの言うことなんてもう信じない。本当は気がついていたの。写真を見る前からずっと。亮ちゃんが私の後ろに誰かを見ていたことに、気がつかない振りをしてたの」

「悪かったよ」亮二は紫と会話をしながらモカをつかまえて、早くアレルギー反応を起こそうと、暴れるモカを胸に抱え込むように抱きしめて言った。「なあ、一緒に紫の好きな服を買いに行こう。それでいいだろう?」

 嫌がるモカを撫でて顔をすりよせると、目が痒くなってショボショボしてきた。

 よし。いい感じだ。この調子でもっとアレルギーが出てくれさえすれば……。

 アレルギーがでるまでの時間を稼ぐため、紫に話しかけながら、亮二はしっぽをばたつかせて逃げようと暴れるモカを押さえつけた。


「紫は、どんな服が欲しいんだ?」

「私が言ってるのは、そういうことじゃないの!」

 紫が金切り声をあげると同時に、ふぎゃあ、とモカが鳴いた。モカは怒って毛を膨らませて、本気で亮二の腕をひっかく。亮二は小さく、「いてぇ」と言ってモカを離した。

 ひっかかれたところが赤くミミズ腫れになって痒くなる。

 いいぞ、アレルギー反応がではじめた。もうちょっとだ。

 そう思いながら、亮二は話を続けた。


「じゃあ、ランチを食べて、そのあと買い物に行こう。紫が好きな店、なんていったっけ?」  

 亮二はみみず腫れになったまわりを掻きながら紫をなだめると、バスタブに逃げ込んだモカを追いつめて、小さな声で話しかける。

「モカ、こっちこい。ほら、もっと、ひっかいていいぞ」

 亮二がしつこくモカを追うと、モカは亮二の手首を強く噛んでバスルームから逃げた。

 亮二は痛さのあまり大声をあげそうになるのを堪える。手首からは血が流れた。

「亮ちゃん、全然、わかってない! そうやってごまかそうとしても、もう亮ちゃんには騙されない。私は出て行くんだから。いまさら そんなこと言っても遅いよ!」

「じゃあ、どうしてもっと早く言わなかったんだ!」モカに本気で噛みつかれて、亮二はとっさに怒鳴った。

「髪を真っ赤に染めたり男と出かけたり、俺の嫌がることをするまえに、どうして……」

 あのころの感情がリアルに甦った。胸の奥が微かに震えて感情が高まってくるのを堪えるのに精一杯だ。怒りと悲しみが混じったような感覚が押し寄せてくる。

 あのとき、紫に言えなかった言葉が亮二の口から漏れた。

「直接言えば良かっただろ。いったい、おまえはどうして欲しいんだ」  

「そんなこともわからないの?」

 紫が悲しそうに言った。


 いま抱きしめなければだめだ。だが、亮二はこのドアは開けられない。紫が溜め息をついたのが聞こえた。


「もういいよ。最後まで顔を見て話そうともしないなんて、亮ちゃんの気持ちはよくわかった」

「いま出るから、もうちょっと、待ってくれよ」

「いったい、さっきからバタバタとそこで何をやってるの? これが最後よ。すぐに出てこないなら、私はもう行く」

「おい、待て、紫。悪かったよ。もう少しだけ待ってくれ」

「そこに誰かいるのね。だからドアがあけられないんだ。ひどいよ、亮ちゃん。もういい、一生そこにいればいいわ。二度と亮ちゃんには逢わない。永遠にさようならよ」

「違う、誤解だ」


 紫が去って行く気配がして、玄関の扉が閉まる音がした。

 アレルギー反応は早くでて欲しいときにはなかなか現れない。紫がくれた最後のチャンスを亮二は無駄にした。いま、紫を抱きしめていたら彼女は出ていかなかっただろう。亮二は拳をドアにたたきつけた。


 この会話を自分でなくて昔の亮二が聞いていたらこんな結果にならなかったと、亮二はこの瞬間にタイムスリップしたことを悔やんだ。ちゃんと話しあえていれば、例え別れることになったとしても、あんな風に紫を傷つけずにすんだかもしれない。自分だって、心のどこかに後悔を残したまま離婚することもなかったはずだ。

 せめてこの時代の自分に起きたことを伝えようと、亮二は電話の横のメモ用紙にメッセージを書いた。


『紫が日記と亜紀の写真を見た』


 ここに書いておけば見るだろう。いや、すぐに気がつくところのほうがいいか? あれこれ思考を巡らして、亮二はテーブルの上にあった手帳の上にメモを置いた。


 そのとき、窓から強い風が吹きこんで亮二は大きなクシャミをした。すると、急に頭がくらくらしだして、まぶたの奥が真っ白になった。

 クシャミがメモを吹き飛ばしたことに気がつく間もなく、亮二の意識はとだえた。


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