第三十一話 恋の予感
軽快なダンスミュージックをバックに、カメラマンがチェックするストロボの弾けるような音がテンポよくスタジオに響いている。亮二は桜花堂のCM撮影に先駆けて、ポスターや雑誌で使う広告写真の撮影のために都内のスタジオにいた。
「誰か、タレントがあとどれくらいで準備ができるか見て来てくれ」
斎藤が入社したてのアシスタントのほうを向いて叫んだ。
スタッフはそれぞれ自分の仕事に忙しく、斎藤のアシスタントは朝食の用意で走りまわっている。誰も答える気配がないので、「俺が見てくる」と言って、亮二は優希のいるメイク室のドアをノックした。
中にはいると、メークを終えた優希がカーラーを巻いて大きな鏡の前に座っていた。プロのメイクは顔立ちをいっそう華やかにして、蕾が大輪の花を咲かせたように美しく変身した優希に、亮二はドキっとする。そこには亜紀の面影がなく、初めて優希をひとりの女性として意識した。
亮二が緊張している優希に鏡越しに冗談を言うと、優希はすぐにクシャクシャの顔になって、いつもの亜紀に似ている笑顔になる。
「ダメよ、ダメ、そんなに笑っちゃ。しわになっちゃうでしょ」メイクのケンちゃんが、おねえ言葉で優希を叱った。
カメラの用意ができて、白いドレスをまとった優希がセットに立った。表情が硬くて動きがぎこちない。
カメラマンが優希に話しかけて上手に誘導し、自然な笑顔を引きだしていく。
優希は慣れないなりにも言われるままに動いてポーズを決めていき、一時間もしないうちに自然に動けるようになっていた。
午前中に三カット撮り終えて、昼食をとったあとは髪型とメイクを変えて衣装もブルーになった。
午後には優希の緊張はすっかりとれていた。ハッとするほどいい表情を見せる優希にその場にいるスタッフ全員が魅せられていく。カメラマンは音楽のボリュームをあげて夢中になってシャッターを切った。
クラブのような大きな音でダンスミュージックが流れて、ストロボがリズミカルな音と共に一定の感覚をあけて光った。
スタジオの空気がひとつになって気分が高揚し、ライブやコンサートで時おり感じるような軽い興奮状態に陥る。脳の感覚が麻痺していく中で、亮二はセットで生き生きと動いている優希に見とれていた。
「踊るように軽やかに動く姿や首をすくめる仕草が亜紀とよく似ている」と、亮二は心の中で言う。
ブルーのドレスを着た優希を見ているうちに、優希の姿がだんだん亜紀と重なって、いつのまにか亮二は昔を思いだしていた。
――その日は水曜日で五月にしては暑い日だった。学校と家の往復に飽きて求人雑誌にでていた調布の喫茶店に亮二は面接を受けに行くことになっていた。
調布の駅から徒歩十分と聞いていたのに、もう十五分は歩いている。どうやらに道に迷ったらしい。亮二は住宅地の奥深くにはいりこんでしまっていた。こんなところに喫茶店があるのか不安になってきたとき、バレエ教室の前を通った。さっき通ったところだ。
電話をしたくても公衆電話がない。炎天下を長時間歩いて頭がくらくらしてきた。
道を聞こうとバレエ教室の近くの公園にはいったとたん、頭が激しく痛んでその場にうずくまった。意識が遠のいていくのに抵抗して必死に目をあけると、眩しい太陽の光の先に黄色の帽子がうっすらと目にはいった。それを最後に亮二の意識は途絶えた。
* * *
しばらくして雑音が遠くに聞こえて意識が急にもどった。
ゆっくり目をあけると、青い空をバックに電車で逢った少女が逆さまに見えた。夢を見ているのだと思って亮二は目をこする。もう一度目を開けても、やっぱり少女が上から亮二の顔をのぞきこんでいた。
「良かった、気がついて」
「えっと、俺、どうして……」
「救急車を呼ぼうとしていたとこ。もう、大丈夫?」
亮二は公園の入り口近くの砂場に倒れていた。すぐ横には鼻を滑り降りるように作られたゾウの形をした滑り台があった。亮二は片手を鼻の先っぽに置いて仰向けに倒れていて、額の上には濡れたタオルがのせられている。
それは、亮二が運命を感じるのには充分なシチュエーションだった。
「もう平気だよ。君が助けてくれたんだ」
亮二はタオルをはずして上半身を起こした。
「私たちって縁があるね」少女がとびっきりの笑顔で亮二を見る。「私、藤野亜紀。君は?」
女の子に“君”と呼ばれたのは初めてだった。
「池下亮二」亮二はゾウの鼻の先っぽに座って答えた。「こんなところで逢うなんて……」
「運命かもね」亜紀が冗談っぽく言った。
運命という言葉が、亮二の心に響いた。まさに運命だとしか思えない。出逢えた奇跡に感謝した。
「ねえ、亮って呼んでもいい?」
「いいけど」
ひと懐っこい亜紀のペースに乗せられて亮二は戸惑った。
「こんなとこで何をしてたの?」
「ああ!」亮二が突然大きな声をあげた。「いま、何時?」
「四時すぎだけど?」
「やべえ、三時半にここに面接に行く予定だったんだ」
亮二はアルバイト募集の広告を亜紀に見せた。
「ここ、知っているけど、お客は近所のおじいちゃんしか来ないよ」
「そうなの?」
「よし、行こう!」
亜紀はいきなり亮二の手を取って立たせた。
「ほら、行くよ」と腕をつかんで、ぐいぐい亮二を引っ張って行く。
「ちょっと待ってよ。どこに行くの?」
「新宿」
「新宿?」
亮二は目を丸くした。
「バイト、探してるんでしょ。お洒落で時給も良くて、可愛いバイト仲間がいるとこなんてどう?」と言って亜紀はウインクした。
亜紀は自分が働いている新宿のダイニングバーに亮二を連れて行った。その店は雑誌によく載っていて亮二も見たことがある。店内は流行のファッションの若者で賑わっていた。こんなところで働けたら自分も東京の人間になれるような気がして亮二はひとめで気に入った。何より亜紀と一緒に働きたかった。
店はバイトを募集していなかったが、亜紀が店長に話をつけてくれて、その日から働けることになった。最初は厨房で皿を片付けたり、料理を出したりすることで店に慣れることから始まった。
亜紀の働きぶりには感心した。てきぱきと動いているのに動きが軽やかで、踊るようにできあがった皿を次々と客に運んでいく。始終にこにこしながら客を楽しませ、彼女目当ての常連客が多いこともわかった。
亮二はそんな亜紀の姿をずっと目で追っていた――