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第三十話  運命の出逢いの記憶

 大輪の花を咲かせて薫るアジサイに心を奪われながらも、亮二はこのところ毎日降り続く雨に気が滅入っている。空模様がいまの亮二の気持ちを代弁している気がして嫌だった。


 瑠花とは食事をすっぽかした後に一度だけ電話で話した。どんなときも動じない瑠花は、川崎をあてがわれて怒るわけでもすねるわけでもなく、いつもと変わらぬ様子だったが、さすがに川崎は腹をたてているらしく、この件に関しては一言も口にしない。亮二は瑠花とこのまま少し距離をおこうとしていた。


 冷えたビールの缶をあけて夕刊をひらくと優希がくしゃくしゃな顔で笑っていた。桜花堂の新ブランドのキャンペーンに関した記事だ。紫とのドラマの共演も決まって、このごろ雑誌やテレビでも優希を見かけることが増えた。優希のメディアへの露出が増えるにつれ、紫がいつまた亜紀について何か言いだすのではないかと亮二は気がきじゃない。


 ふと、いま亜紀はどんな生活をしているのだろうかと思い、亜紀の屈託ない笑顔が頭をよぎった。

 亮二より年上なのだから、だいぶおばさんになっているだろうが、頭に浮かぶ亜紀はいつまでも若いままだ。

 梅雨にはいってから亮二は亜紀のこと考えてばかりいる。来週からCM撮影が始まるので、打ち合わせで亜紀にそっくりな優希となんどか逢っていたせいかもしれない。優希に逢うたび亜紀のことを思いだして亮二の心は揺れる。優希を通してみる亜紀は、瑠花への想いにブレーキをかけるのにも都合が良かった。


 亜紀に対する記憶は依然としてぼんやりとしたままだった。亜紀との過去を思いだそうとすると、激しい感情がいつも胸の奥底から突き上げてくる。心がほんわりと温かくなることもあれば、胸が張り裂けるようにせつなかったり、ときには殺意をともなうほどの怒りが沸き上がってきたりする。そのくせ、具体的な出来事は殆ど思いだせない。

 亮二は過去を見つめなければ前に進めないと感じていたが、亜紀と過ごした時代の日記を読もうとすると、いつもあの症状がでるのだ。動悸が激しくなり身体が震える。心は徹底的に過去を見つめることを拒絶していた。


 風呂からでた亮二は、今夜こそ日記を読むと決意して気持ちをほぐすために酒を喰らった。テレビを見ながら酔いがまわるのを待っていると、だんだんとリラックスしてきた。

 日記を手に取って、大丈夫だ、と自分に言い聞かせ、心を落ちつかせて頁をめくった。いつものように心臓がどきどきしだした。慌てずに煙草を一服して、大きく深呼吸する。目をつむって亜紀の笑顔を頭に浮かべると再び日記に視線を落とした。

 心臓のどきどきは日記を読みだしたら自然に治まっていた。一日、一日を読んで行くうちに、亜紀と過ごした日々に魂が宿る。トンネルのように真っ暗だった世界に光が差して、亜紀との想い出に艶やかな色をつけた。

 いつのまにか、封じ込めた記憶を辿ることに夢中になっていた。読み終えたとき、封印は解け、亜紀との運命的な出逢いのすべてを亮二は思いだした。



――いつまでたっても通勤ラッシュに慣れない。上京してしばらく経った今でもだいたい二本は電車を見送る。

 三本目の電車がホームに到着して車内に一人分のスペースを見つけた亮二は、こんどこそ乗り込もうと足を進めた。すると、亮二の前を自分と同い年くらいの少女がさっと横切って、空いているスペースにすっと収まった。あっという間の出来事で、亮二がぽかんと口をあけている間にドアが閉まった。

 ポジションを横取りしたショートヘアの女の子は、少しも悪びれずに大きな瞳で亮二を見ると、にこっと笑って拝むように両手を鼻の前に添えて軽く頭をさげた。亮二は独りホームに取りのされて、電車がとうに姿を消してから少女の笑顔を思いだし、自分のとろさと彼女のずうずしさに腹を立てた。


 加賀の小さな街で育った亮二は母や兄のいる家から早くでたかった。広い東京のどこかに自分の居場所がある気がしていた。

 最初は見るものすべてが新鮮で都会の生活に特別な未来があるように思えた。上京しただけで既に夢が叶った気がしていたけれども、すぐに自分が異邦人のように感じだした。憧れの東京に住んでもキラキラしている街とは裏腹に、自分は灰色のままだった。住んでいるだけじゃダメなのだ。そう思っても、何をしたらいいのか見当もつかない。大都会に溶けこめない亮二は輝くネオンの外に取り残されている。


 次に彼女を見かけたのは水曜の夜だった。その日亮二は学校の友達の誕生日で初めて新宿で飲んだ。高校を卒業したばかりの亮二は酒を旨いと思ったこともないし、酔うのにも慣れていない。

 あの時代は新歓コンパだなんだと言って、ことあるごとに学生も新入社員も社会へ出た証のように先輩たちから酒を飲まされた。未成年でも高校を卒業すれば酒を飲んでもいいような風潮があったのだ。


 その日も亮二は慣れない酒を飲んで生じた身体のだるさを持て余していた。

 急行のほうが早いけれども混んでいる電車に乗る気がしなくて、各駅で座って帰ることにした。電車は空いていて長いシートを占領できる。亮二はホーム側の端の席に座ると、酔って重い頭を手すりにあてた。金属の冷たさが頬に伝わって気持ちがいい。発車まではまだ数分ある。そう思ったら急に眠気が襲ってきた。頭を左右に激しく振って眠気を払い、目を大きくあけて辺りを見渡した。

 車内の殆どの人が眠っているように見える。目を閉じてているだけの人もいれば泥酔している人もいる。ホームのところどころに吐いた跡があって、酔っぱらいがベンチで眠っていた。あの人たちはどうやって家に帰るのだろうか? 泥酔している男をたたき起こしてホームを掃除する係員を、亮二は気の毒がった。亮二が育った街では見ることがなかった光景だ。こんな大都会で無防備に生きている人たちが不思議だった。


「閉まる扉にご注意下さい」と、アナウンスが流れてドアが閉まろうとしたとき、亮二の灰色の視界の隅に、夏の海のように鮮やかなマリンブルーカラーが飛び込んできた。亮二は目が覚めるような色に惹きつけられて視線を移す。ドアはそのブルーの物体にあたり、もう一度開いた。視線の先に若い女の子がいる。鮮やかなその色の正体はその子が着ていたマリンブルーのワンピースだった。


 その女の子は二、三歩、電車のなかを歩くと、亮二に背を向けたまま前かがみになった。両手を膝に添えて息を切らしている。短めのワンピースから鍛えられた形の良い足がまっすぐのびていた。ドアが閉まって電車はガタンと大きく揺れて発車した。彼女はよろけて手すりにつかまると、亮二の向かいの席に腰をかけた。どうやら酔ってはいないようだ。  

 荒い呼吸が治まり顔をあげた少女を見て、亮二は驚いた。その子は亮二を出し抜いて電車に乗ったショートヘアの女の子だった。


 その子は全く亮二に気づかずに左右をざっと見渡すと、鞄から文庫本を取りだした。

 こんなに可愛い女の子だったっけと、亮二は首をかしげる。前に駅で彼女を見たときは、一瞬だったし、何より腹を立てていて容姿に気を配る余裕がなかった。亮二はいつのまにか彼女に見とれていた。

 その女の子は本を読みながら眠ってしまって、亮二の降りる駅が近づいた。


 あの子も同じ駅で降りるのだろうか? あの駅から乗ったからって降りるとは限らないよな。だけど、もし降りるなら次だ。あの子は乗り過ごすはめになる。起こしてあげようか。いや、変に思われるかもしれない。


 亮二が思いを巡らしているうちに駅に着いた。


 結局、女の子をそのままにして亮二がホームに降りると、すぐに出発を知らせるベルがけたたましく鳴り響いた。気になってホームから寝ている女の子を見ていると、彼女は急に目を覚まし、血相をかえて電車から飛び降りると何食わぬ顔で階段へ向かう。

 亮二もちらちら彼女を見ながら改札へと向かった。改札をでようとすると、どこにやったのか切符が見つからない。切符を探しているうちに彼女を見失った。


 亮二の目には、ワンピースの鮮やかなマリンブルーカラーがしっかりと焼きついていた。それからしばらく、その少女に遭うことはなかった。



 三度目の偶然は東京の生活に少し慣れてきたころだった。亮二は普段より五分遅れて駅に着いた。ラッシュにも少し慣れて、電車をニ本待って次の電車に乗り込もうとしたとき、まるでデジャブみたいにショートヘアの少女が車内にすべり込んだ。亮二が呆然としてその場に立ちつくしていると、彼女は亮二の腕をつかみ電車のなかに引っ張りこんだ。


「ボヤボヤしていると、いつまでも乗れないよ」

 少女はぽかんとしている亮二を見つめて、顔をクシャクシャにして言った。


 電車が動きだすと、車内の人たちは揺れに身をまかせて自分のスペースを確保していく。乗る前はぎゅうぎゅう詰めだったのにいつのまにか自然に収まっていた。少女も身体をうまいこと回転させ、ドアに寄りかかって外を見ている。

 電車が揺れて左の頬が少女の頭に軽く触れ、亮二は慌てて顔を動かした。鼓動がだんだんと早くなる。胸が彼女の肩に触れていた。つかまれた右腕には少女の手の感触がずっと残っている。亮二は心臓の音が伝わってしまうのではないかとハラハラし、顔が赤くなってないかと気になってうつむいた。少女のことを思えば思うほど心臓は波打ち、亮二は頭を働かせてむりやり違うことを考えた。


 今日の昼飯は何にしよう? 


 しかし、気づくとまた、いつのまにか少女のことを考えている。


 何をしている人だろう。自分より年上だろうか? 背は百六十五センチくらいか? 高いヒールを履いていたから、もう少し低いかも……


 髪が短くて派手な顔立ちだから背が高く思えたけれど、近くで見ると意外に小柄で華奢だ。細くて長い首がすらっとのび、美しいうなじについ目がいく。 


 少女に気をとられていると電車が急カーブして大きく揺れた。バランスを崩して倒れてきた少女を、亮二は胸で受け止めて全身で支える。女の子の身体をこんな風に身体中に感じたのは初めてで、柔らかい感触が亮二の四肢に衝撃を与えた。頭に血が上って顔が熱くなる。

「ごめんなさい」と、少女が身体を起こして頭を軽く下げたので、亮二も返事の代わりに首を縦に振った。鼓動が激しさを増し、亮二は左手を窓について彼女から身体を離す。一駅がとても長く感じる。騒音も聞こえないほど心臓はドキンドキンとスピードをあげて、恥ずかしさのあまり亮二はうつむいた。一刻も早くここから逃げだしたい。 


 左の頬の辺りに心地の悪いものを感じて亮二が視線を左にずらすと、少女が上目遣いでじっと見つめていた。

 少女は目が合うと、固まっている亮二に口元だけで微笑んだ。亮二も微笑みを返したつもりだったが、普段女の子に微笑んだりしないので不自然な顔になった。


 電車はやっと次の駅に着いてドアが開いた。降りようとする人の波に飲まれてホームに押しだされる。そこでまた亮二は彼女を見失ってしまった――


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