第二話 オトコごころは複雑なのよ
スパイラルホールの近くの路地を少しはいったところにある「ミューズ」という名の店は、瑠花が自ら足を運んで世界中から集めた品の良いアクセサリーや雑貨を揃えている。五年前にオープンしてから雑誌の取材には一切応じないのに、口コミで広まって芸能人も多くお忍びで訪れていた。
洒落た小さなレストランやブティックが並ぶ路地は、ランチタイムを過ぎているので通りに賑わいはなかった。だんだんと住居やオフィスが増えてきて道が緩やかにカーブしていく。カーブが終わると落ちついたたたずまいの一軒家が見えてきた。レンガの壁と洒落たアンティック風のドアがレトロっぽい雰囲気をかもしだし、さほど大きくない窓から店内の様子が少しだけうかがえる。
平日の二時という時間帯のせいか店には客はいなかった。亮二が扉の前でサングラスをかけてドアをあけると、ノブについていたチャームの美しい音色が店内に響いた。天窓から差し込む太陽の光が店を明るくし、ゆったりとした空間を演出している。
「いらっしゃいませ」と、見たことがない店員が雑貨やアクセサリーが飾られた木のテーブルの奥にあるレジから声をかけた。春らしい桜色のワンピースを着ている。
「瑠花は休みかい?」亮二が訊ねると、
瑠花という名に馴染みがないのか、店員は一瞬考えてからオーナーなら裏にいますと答えた。
「新しい子だね。大学生?」
「いいえ。短大を卒業して先週から働いてます」
馴れ馴れしく話しかける亮二を警戒しているのだろう。声がうわずっている。
「怪しいものじゃないよ」と苦笑し、亮二はジャケットの内ポケットから名刺をだした。
話し声を聞いて髪をルーズにまとめた瑠花が奥から出て来た。背筋を延ばしてまっすぐ亮二に向かって歩いてくる。いつみても瑠花の立ち振る舞いは軽やかで動きに無駄がない。凛として実に優雅だ。
「今日は一段と、エレガントだね」
「おばさんになったと言いたいんでしょう?」
瑠花は氷のような顔にうっすらと微笑みを浮かべた。
ほっそりとしたエキゾチックな顔立ち。シャープな顎にすっとした鼻。見るものを突き刺すような切れ長の大きな瞳が、芯の強さを物語っている。
「君は二十歳のときから変わっちゃいないよ。むしろ十年経って、美しさに磨きがかかっている」亮二は遠慮のない視線を瑠花の全身に這わせて言った。
ニットの細身のジャケットと女性らしい身体のラインを強調したスカートが、スレンダーな身体によく似合っている。地味で堅苦しい服も瑠花が着ると気品が漂い、逆にこの上なくセクシーに感じられるから不思議だ。
瑠花のこういう装いを見たのは初めてだった。今夜はあの男と出かけるのかもしれない。心の奥に芽生えた嫉妬の火種に気づかないふりをして、亮二はこういう瑠花も悪くないと、じっと見つめた。
「あなたも十年経って、口がうまくなったわ」瑠花はクスッと笑って流れるような視線を亮二におくる。
妖しい瞳に見つめられて亮二はぞくっとした。氷のような瞳に見つめられると、百戦錬磨を誇る亮二も目をそらさずにいられない。
亮二は意思の強い瞳を持つ女性に惹かれる。吸いこまれるように捉えられて目を離せなくなる瞳や、反対に氷の刃に心まで射抜かれるような、見つめられると目をそらさずにはいられない瞳だ。
「かなちゃんのこと、もう口説いちゃったの?」
瑠花は店員が手にしている名刺に目を落とすと、口を少し尖らせて亮二を軽く睨んだ。
「まさか、自己紹介をしただけだよ」亮二は瑠花から店の女の子に視線を移す。
「でも、ちょっとタイプだ。どう? こんど、メシでもいかない? かなチャン」
「東京にでてきたばかりだから素敵なお店に連れて行ってあげてよ」
困った顔をしているかなちゃんの代わりに瑠花が平然として答えた。
CMプロデューサーにとって「こんど、メシでも」は挨拶だ。九十パーセント実現しない。しかし、相手が若くて可愛い女の子なら話は別だ。それは瑠花も知っている。
瑠花は、亮二が誰と逢って何をしようと全く気にもとめない。そういう女だからこそ、関係を五年も続けていられる。でも、たまにやりきれなくなって亮二はわざと焼きもちを焼かせるようなガキっぽいことをしてしまう。その結果、気のない態度を見せつけられて、後でいっそうへこむのだ。
「ふたりがダメなら合コンしようよ。若くて将来有望なイケメンを用意するからさ」
もじもじしているかなちゃんに、亮二はさも気のある素振りをみせる。
「合コン、しようよ」も亮二の口癖だ。軽くてノリがよくてチャラチャラしているのに、なぜか女にモテる。かなちゃんも満更でもなさそうだった。
亮二はいつでもちゃめっけたっぷりに、恥ずかしくて歯に浮くような台詞をさらっと口にする。女を口説くのは、それが女性に対する礼儀と思っているからだ。相手が応じるかどうかは気にしてない。片っ端から口説くけれども、誰とも真面目に付き合わないと決めている。関係を持つのは後腐れがない女だけ。めんどうなのが一番苦手だ。
「どんなものが欲しいの?」瑠花が亮二をじっと見つめて言った。「わざわざ顔を見せに来たわけじゃないでしょ?」
「二十代半ばの女性への誕生日プレゼントだ。出逢ったばかりだから、もらって重荷に思わないものがいいな」
亮二はプレゼントに意味がある振りをする。
「好みはわかる? 好きなブランドとか」
「有名ブランドよりも、知る人ぞ知る、みたいなのが好きそうだな。ごめん、適当で」
「男性にしては上出来よ。だから、あなたはモテるのよ」
こんども瑠花はさらりと受け流す。
瑠花にとって自分は何の興味もない男のように思えて、本気で瑠花と付き合う気もないのに亮二は少しだけ気が滅入った。
瑠花は右手を顎にそえて店内を見渡した。アンティックの食器棚にはアート本や写真集が飾られて、その横にスカーフやバックが色を添えている。
瑠花はちょっと考えるように首をかしげると、スカーフが飾られている棚へいき、プレゼントを選んでカウンターにもどってきた。
「これは、イエローゴールドのベルに、地中海でとれた真珠と珊瑚をあしらったチャーム。ベルは幸運を運ぶお守りよ。こっちはヴェネチアンレースで有名なブラーノ島のハンカチ。手作りの繊細なレースが素晴らしいわ」
瑠花が見たてただけあって、どちらも甲乙つけ難い代物だった。自分の女に贈るのなら間違いなくチャームを選ぶだろう。女はこういう装飾品を男から貰うのが好きだ。でも、相手が取引先の女性となると、レースのハンカチの方が良さそうだ。
もしかしたら瑠花は、どちらを選ぶかで、贈る相手を見極めているのかもしれない。
亮二は瑠花の顔をまじまじと見た。
瑠花は口を結んだまま両端を持ち上げて見つめ返す。
「こっちにするよ」亮二は観念してレースのハンカチを手に取った。
「かなちゃん、お願いね」そう言うと、瑠花は奥の部屋へはいる。
包装されたハンカチを受け取って支払いをすませると、瑠花が奥の部屋から出て来た。
「これ、使ったほうがいいわよ」と言って、マスクを亮二に渡す。
亮二はぽかんとした顔でそれを受け取った。
「花粉症、ひどいんでしょ?」
「どうしてわかった?」
「あなたは店のなかでもサングラスをかけて、よく見たら目が腫れている。今日のように気温が高い日は、花粉がたくさん飛んでるわ」
「君はシャーロックホームズか金田一耕助の孫か?」
「私の祖父はエラリークイーンよ」
「エラリークイーン?」
「ニューヨーク生まれの名探偵よ。金田一耕助は日本人だし、シャーロック・ホームズはイギリス人だわ。知ってるでしょ。私の祖父はアメリカ人よ」
瑠花の細やかな気配りは並外れた洞察力によるものだ。ひとが気づかないことを察して女性らしい心遣いをする。それでいて並の男よりも肝が据わっている。瑠花が動揺するのを誰も見たことがない。二十一歳の若さで銀座のナンバーワンの座についたことも納得がいく。
今夜、瑠花はあの男と逢うのだろうか?
亮二は無性に瑠花が恋しくなった。もう少しだけ瑠花を独占したい。
「昼メシ、まだなんだけど、ちょっと出ないか?」
「まだ、かなちゃんを独りにできないの」
わかっていた返事だった。関係を持ってから瑠花は亮二と一切、外で逢わない。亮二は食事や映画になんどか誘ったが答えは決まってノーだった。瑠花は普通の恋人同士がするようなことを、なぜだか徹底して拒む。
ふたりの割切った関係を思い知らされて亮二はいささか悲しくなったが、そんな気持ちはおくびにもださずに「残念だな」と、さほど残念そうもなく言って肩をすくめた。
「メール、するわ」と微笑む瑠花に、亮二は口の端と片方の眉を微かに動かして見せ、出口へ向かった。瑠花も亮二についてドアまでいく。
「こんどはいつ逢える?」という言葉を飲み込んで、亮二は店をでた。
子供のように拗ねている自分を隠しておとなの男を装う。メールをすると言った、瑠花の言葉を期待している自分が嫌だった。
浮かない気持ちで軽くそこらでメシを食い、誕生日のケーキを買うと、表参道の交差点の近くに薬局があったのを思いだした。
去年まで花粉症は辛い日が数日あっただけで薬を飲むほどではなかったが、今年はいままでの症状よりも明らかに悪い。花粉以外でも、埃を吸ったり乾燥したりしてアレルギーは起きた。湿疹や蕁麻疹にいたってはまさに神出鬼没で原因が食べ物なのか気候にあるのか全くわからない。
亮二が薬局で抗アレルギー作用が含まれる抗ヒスタミン薬を買うと、薬剤師に漢方を勧められた。粉は嫌だと言うと粉でない漢方があるというから、それも一緒に買った。漢方は空腹時に飲まないといけないので、その場で抗ヒスタミン薬だけを飲む。すると幾分、調子が良くなった気がした。
予定どおりに川崎たちと合流して、広告代理店との打ち合わせはつつがなく終わった。ミーティング中にメールを幾つか受け取ったが、どうでもいい女からの誘いや頭を悩ますトラブルの知らせが届くだけで、瑠花からメールはない。四十を過ぎて、メールの着信を気にする自分にうんざりする。遊び人と言われる男が女のメールひとつに振り回されるなんて、あってはならないことなのに、亮二は瑠花のことになるとからっきしダメだった。ここ最近は特にそうだ。
「篠田女史、ご機嫌でしたね」斎藤が軽い足取りで嬉しそうに言った。「打ち合わせがあんなにスムーズにいくとは思っていませんでしたよ」
「女はイベントが大切なんだ。大事な日を覚えているだけで、ポイントがあがるんだよ」
「それが女にモテるコツっすかね」斎藤は感心してうなずくと、急に思い出したように右の手のひらを亮二に差し出して指先だけ上下に二回動かした。「忘れるところだった。池下さんがたてかえたプレゼントの領収書を下さい」
「あれは俺がだすからいいよ」
「もらい忘れたんですか?」
「そんなわけねえだろ」
斎藤が口を尖らしたのを見て、亮二はめんどうくさそうに答える。
女へのプレゼントの振りをしたてまえ、瑠花に領収書をもらうわけにはいかない。亮二はときどき、こういうくだらない見栄をはる。
社にもどって、今日中にやらねばならないことを終えると十時を過ぎていた。瑠花からメールはない。
亮二はふんっと鼻でせせら笑うと、携帯をしまい川崎を誘った。
まっすぐ家へ帰ればいいのに、忙しければ忙しいほど歓楽街のネオンに引き寄せられる。今日のような日は尚更だ。気づくと瑠花のことを考えてしまっている。
亮二は気をとり直して夜の街へ繰りだした。