第二十七話 臆病者
「今夜の打ち合わせ、スポンサーの都合でキャンセルだそうです」
川崎が受話器を置いて亮二に告げた。
「そうだ、瑠花さんを誘ってメシに行きましょうよ。彼女は何が好きなんですか?」
「知らねえよ。俺は瑠花とメシどころか、お茶もしたこともねえもん。食べ物の好みも、男の好みも、あいつのことは何にも知らねえよ。前に言っただろ」
亮二はわざと拗ねた口調で答えた。
「てっきり冗談だと思っていましたよ」川崎は苦笑する。「本当に付き合ってないんですか?」
「なんどか誘ったけど、いつも撃沈してるんだ。おまえは脈があるかもな。一発で食事の約束を取り付けたんだから」
「三人だからでしょ。仕事だし、全然、意味が違うじゃないですか」川崎は呆れた口調で言う。「どうします? またにしますか?」
亮二はちょっと考えてから、気が乗らないふりをして答えた。
「あいつに都合をきいて、適当に店を予約しとけよ」
このときまでは亮二も食事に行くつもりだった。夜中に瑠花が出て行ったあの夜から、亮二は気まずくて連絡をしていない。あのままというわけにもいかなかったので、こういう機会があって助かった。
だが時間が経つうちに、食事には川崎だけを行かせようかと思い始めた。春ごろから急に頭をもたげてきた瑠花への狂おしい想いは、逢わないでいると胸の奥深くに息をひそめて、以前と同じように冷静で距離をおいた関係を続けていける気がしていた。割切った関係に空しさを感じるけれど、それはふたりが望む本来あるべき姿に思えた。
五年前、瑠花と再会したその日に彼女が手慣れた調子で亮二を誘って、あまりにも軽く再び自分と関係を持ったことを、亮二は自分のことは棚に上げて未だに気にしている。
川崎と瑠花をふたりで食事させることに不安がないわけではなかった。瑠花はそういう女だと、どこかで思っていた。でも、それならかえって気持ちに整理がつくのではないかと考えた。変な期待をすることもなくなるだろうと思えた。
「遅いですね。もう来るでしょうから始めてましょう」
川崎は困った顔で言うと、イタリアをよく訪れる瑠花にワインを選んでもらった。
イタリア人シェフが作るホームメードパスタが評判のこの店は、最近雑誌に掲載されて混んでいた。天井が高く音が響いて話が聞こえづらいのが難点だが、壁にずらっとワインが並んだ広々とした店内は、洗練されていておとなのカップルが多い。前菜にカプレーゼとカルパッチョを頼んだところで、亮二から川崎に電話があった。
「来ないって、どういうことですか? それじゃあ意味がないでしょう」
「はずせない用事ができたんだ。俺に気を使わなくていいから、口説くなりなんなり好きにしろ」
「また、そんなことを言う。いい加減、僕だって怒りますよ。来ないと本当にどうなっても知りませんからね」
いつも穏やかな川崎もさすがにむっとして答える。
「だから勝手にしろと、言ってるだろ」そう言い放つと亮二は乱暴に電話を切った。
川崎がすまなさそうに、亮二がこれなくなったと伝えると、「ふたりで楽しんじゃいましょう」と言って、瑠花は目を細める。
一瞬、表情が暗くなったように感じたのは照明のせいだろうか。川崎は瑠花を見つめた。
「我がままな上司を持つと大変ですよ」乾杯をしたあとに、川崎が言った。
「そのわりには、いつも楽しそうよ」
「そんなことないですよ」川崎は笑って首を振ると肩をすくめた。「めんどうなことが大嫌いな人なのに、実はあのひとが一番めんどうだ」
「仲がいいのね」
「恩があるだけです。入社したとき、俺は違うチームにいたんですよ。部下をいじめてストレスを発散する上司に目をつけられていて、池下さんに助けられたんです」
「あのひとはいい加減なくせに、妙に正義感が強いから」
瑠花は頬をほころばしてそう言うと、優しい顔になった。
「女優の浅田百合香と浅田舞子を間違えたんです。上司が若くて可愛いほうと言ったので、てっきり百合香だと思って出演交渉をして、でも上司は舞子のことを言ってたんです」
「浅田百合香のほうが年下でしょ。川崎さんは言われたとおりにしただけじゃない」
「それでも確認しなかったのは俺のミスです」ワインを一口飲んで川崎は答えた。「池下さんなら絶対に部下を守ろうとする。そういうところは、とても頼りになるひとです。でも、その上司は自分の失態すらいつも部下のせいにするひとだった。池下さんは代理店の指名でそのプロジェクトに加わっていて、くどくど俺を責める上司を一喝してくれたんですよ。そして、同姓で人気を二分しているトレンディ女優の共演という話題性をアピールして、ふたりとも起用するようにスポンサーを説得したんです」
「覚えているわ、そのCM。あれから、「ダブル浅田」という言葉が生まれたのよね」
「浅田舞子を承諾させるのは大変だったんですよ。池下さんの粘り勝ちです。おかげでCMは大ヒットして、池下さんはチームに居づらくなった俺をひきとってくれたんです」
「あのひとらしいわ」
亮二の話をしていると瑠花はとても楽しそうだ。
ウエイターが前菜を運んできてテーブルに置き、瑠花がそれを取り分けた。
「池下さんは川崎さんをとても信頼しているようね。あなたのことよく褒めてるわ」
「任せてもらえて感謝していますよ。口には絶対しませんけどね」川崎は照れくさそうに笑った。「面倒見がいいから、スタッフはみんな池下さんを頼りにしてます。あんなにめんどうくさいって言いながらも、白鳥ゆかりのことだってなんども尻拭いしている。情のあるひとなんです。だから、少しくらいめんどうなところも目をつむっているんですよ」
「おふたりの関係が羨ましいわ。私にはそういう仲間がいたことがないから」
「俺たちずっと、池下さんの話をしてますね」
「そうね」と言って瑠花はくすっと笑った。
その後は互いの趣味や生活について語り、トリュフとポルチーニのパスタと、ニョッキのペストソースをたいらげて、いい感じに酔いがまわってきたころで川崎が質問した。
「池下さんとは、長いんですか?」
周囲の騒音で声が聞こえづらくて瑠花は自然に身体を川崎に寄せた。
「ええ。初めてあったのは十年以上も前になるかしら。良いお友達よ」
「好きなんでしょ?」
川崎がさらりと訊いて瞳をじっと見つめると、瑠花は黙って謎めいた微笑を浮かべた。
「あなたも、めんどうなひとのようですね」
「いまの関係がちょうどいいのよ」
「部下としては、ああいう手のかかる上司には再婚してもらいたいんですよ。ところが、殊の外あなたに関しては妙に尻込みしてまして、どういうわけか俺にあなたをあてがおうとまでする」
「それはお気の毒ね。川崎さん、付き合っているひとがいるんでしょ?」
「いまはフリーですよ。気の毒だなんてとんでもない」川崎は大きく首を振って否定した。「俺は恋愛に積極的なほうじゃないけど、あなたみたいなひとなら積極的になってもいい」
川崎はさらさらした前髪をかきあげると、頬杖をついて甘く瑠花に囁いた。