第二十六話 偽りの予言
巫女の部屋はJR中野駅から徒歩で二十分ほどのところにあった。正確には西武新宿線の新井薬師前駅だ。
新井薬師という名で知られている梅照院のおかげで、この地は昔から医者や漢方医、特に鍼などを行うセラピストが多い。
この周辺はちょっとしたエネジースポットだと言われていて、最近はアロマセラピーやリフレクソロジーといったヒーリングサロンが増えている。高層ビルがそびえる新宿の膝元とは思えないのどかな下町の風情を現代でも残していた。
亮二はひさしぶりにカーナビのない車を運転した。勘を頼りに中野通りを北上して早稲田通りを超える。あと五分で着くところまで来て左折と右折を間違えてしまい、小さな家が密接している住宅地の奥深くに迷い込んでしまった。ぐねぐねとした道を何度か曲がってどうにか住宅地を抜けると、商店街にでた。商店街は歩行者も多く、道の狭さと一方通行に悩まされる。余裕を持って出たにも関わらず、目的地に着いたのは約束の時間の五分前だった。
車を停めて亮二は後部座席で眠っている男を見た。このまま死んでしまわないかと少し不安になる。自分のしたことなのにすべてはこの男のせいだと思えて、軽く頭を小突いた。
鍵を残して車から降り、辺りを探すと巫女のマンションはすぐに見つかった。二十世帯ほどの五階建てのビルで、コーポとかメゾンと呼ばれる、アパートとマンションの中間のような建物だ。巫女は身なりに金をかけていたが、まだそんなに裕福ではないのだと亮二は思う。防犯用のドアもないのでそのまま待機していたエレベーターで五階へあがった。
ブザーを鳴らすと巫女がドアをあけた。紫色のシースルーの布を肩からまとい、透明なベールを被って顔を隠している。いかにも占い師といった装いがなんともインチキくさい。
巫女に靴を持って中にはいるように促されてリビングへ行くと、ゆったりとした癒しの曲がかかっていた。キッチンとリビングが一体になっている部屋の奥に、二人が向いあって座るのにちょうどよい大きさの丸いテーブルがあり、紫色の布がかかっている。テーブルの上には、決まりごとのように大きな水晶が置いてあった。
亮二は隣の部屋にいるつもりだったが、隣の部屋では話が聞こえないのでリビングで隠れる場所を探した。クロゼットも何もないリビングで身をひそめられそうなところは、部屋のわりに大きなテレビが乗っているキャビネットの裏しかない。テレビは占いをするテーブルと反対の位置にあって、上からのぞきこんだら亮二の姿は見えてしまいそうだが、巫女は離れているし電気を消してろうそくだけを灯すから、音をたてなければ大丈夫だという。他に隠れるところがないので、亮二はテレビの後ろに隠れることにした。
紫が来るまであと五分。亮二が巫女にもう一度伝えてもらいたいことを確認すると、インターフォンが鳴って約束の時間ちょうどに紫はひとりで現れた。
亮二はテレビの脇から紫の姿を見ようとしたが部屋は薄暗くてよく見えない。見つかるわけにはいかないので、そのままそこにうずくまった。
「かわいそうに」巫女は哀れむように首をゆっくり左右に振った。「お仕事と恋愛、どちらを優先させたら良いのかであなたは悩んでいますね」
「わかりますか?」
紫は声を高くして目を大きく開くと驚いた顔をした。
「水晶にあなたの未来が映っています。いまは仕事を優先させろと、守護霊さまが言っておられますよ」
「仕事ですか」紫の声のトーンが下がった。
「あなたが仕事で悩んでいることも水晶は知っています。イメージを変えようとすることはいいことです。前のようなイメージにもどってはいけません。髪の毛はのばしたほうがいいでしょう」
「でも、大切なひとに個性を大事にしなさいって言われたのです」
巫女は黙った。亮二が顔をあげると、巫女が水晶に手をあてて何やら呪文めいた言葉を呟いているのがうっすらと見える。
「その方のイニシャルがR・Iだったら、あなたはその人の話を聞いてはなりません。これ以上、近づくのもやめたほうがいいでしょう。その男性はあなたを不幸にします」
「彼のイニシャルです」紫は大きな声をあげた。「信じられない、それだけはダメ。彼のいない生活は考えられません」
紫は首を激しく左右に振って、いまにも泣きそうな声をだした。
「残念ながら、これは前世からのカルマです。その男はあなたの仕事も幸せもすべてを奪います」
「仕事なんてどうでもいいの。別れるくらいなら仕事はいつ辞めたってかまわないもの。私にとって彼は初めての家族なんです」
亮二は胸が痛んだ。こんなにも紫は自分を想っていてくれたのだ。両親が早く死んだ紫は、親戚の家をたらい回しにされて育った。紫にとって亮二は彼氏以上の存在だったことをいま初めて知った。
「あなたが辛い思いをするのを止めてあげたいけれど、そこまで望むのなら、それもまたあなたの人生。人生は自分で切り開くものです。ご自分でお決めなさい」
巫女は穏やかな口調で諭すように紫に言った。
ふたりのやりとりを見ているうちに、亮二はなんだか鼻がむずむずしてきた。無意識に目をひっきりなしにこすっている。鼻がちくちくしてクシャミがでそうになった。
ここでクシャミをして男がこんなところに潜んでいたとわかれば大変なことになる。紫に顔を見せるわけにはいかない。亮二は必死にくしゃみを我慢して両手で鼻と口を押さえたが「くしゅん」と小さな音をたてた。その音を聞いた紫が辺りを見まわす。
「いまの音は何ですか?」
「猫です。人見知りでひとが来ると隠れてしまうんです」
「私も猫が大好きなんです。出てくればいいのに」
巫女が何食わぬ顔をして答えたので、紫はまったく疑っていない。巫女はすぐに話しをもどした。
「もうひとつ守護霊さまがおっしゃっています。一ヶ月以内に、あなたは彼の家の前で写真を撮られてしまうでしょう。その家は危険です。しばらくは行動を慎しむようにとのお告げです」
「わかりました。彼の家には行かないようにします。あんりさんの占いはとてもためになりました。でも、私、彼とのことに人生をかけてもいいと思ってます。子供の戯言と思われるかもしれないですが、どんな運命が待っていても負けたくないんです」
紫は巫女に力強くそう言うと、携帯からマネージャーに電話をして部屋を出て行った。
巫女も紫を送って下まで行った。玄関のドアがガチャンと閉まる音がする。
亮二はその音を聞くと、慌てて立ち上がって埃まみれのテレビの裏からクシャミをしながら飛びだした。ずっと我慢をしていたせいかクシャミは一向に止まらない。
なぜ急にアレルギーがでたのだろう? 思い当たるのは埃だ。
そんなことを考えているうちに、グルグルめまいがして意識を失った。
時を超えて現代にもどるとき、いまにも海にとび込みそうな顔をして瑠花が岬の断崖絶壁に立っている夢を見た。その全身からはこの上ない寂しさが漂っていた。
* * *
布団のなかで亮二は目が醒めた。紫のその後が気になって、すぐに日記を読み直した。
紫の行動も態度も特に大きな変化は見られなかったが、週刊誌の写真は、朝、紫が亮二の家から出てくるところではなくて、深夜に紫の家にふたりではいるところを撮られていた。亮二が未来を変えようと紫に伝えても軌道の修正がされたのだ。こんなに時間が経ってから自分の過ちに気づいても遅いということを、亮二は思い知らされた気がした。
どんな運命にも負けたくないと言った、紫の声が耳に残っている。
亮二は紫のキャリアを潰してしまったけれど、ふたりはうまくいっていた。それなのに何が引き金になって、紫は豹変したのだろうか?
亮二は思い巡らしているうちにいつのまにか眠りについた。
次の朝、出社すると代理店から連絡があった。紫の起用が確定したのだ。亮二は少しでも罪滅ぼしになったような気がしてホッとした。
一刻も早く紫に知らせてやりたくて喫煙ルームへ行った。いつもは紫の声を聞くだけで腹立たしくて憂鬱なのだが、今日はいつもとは違った気持ちで憂鬱だった。紫にどうやって接してよいかわからない。
煙草を一本吸って紫に電話をすると、呼び出し音が十五回鳴ってやっと紫は電話にでた。受話器の先から聞こえる「もしもし」という声が擦れている。紫は低血圧で朝が苦手だ。
「俺だ」
「ん? ショウちゃん?」
「おまえの元亭主だ」
亮二が不機嫌に答えた。別れた女房に他の男と間違えられてムッとするなんて、自分はどうかしていると、亮二は首を振る。
「ああ、亮ちゃん。こんな早くに何か用?」
「もう、十一時だ。用事がなくておまえに電話をするか」これではいつもと変わらない。亮二はイライラして煙草に火をつけた。「代理店から連絡があったぞ。お咎めなしだ」
「ほんと? 嬉しい! やっぱり亮ちゃんに任せて良かった」
紫は若いころを思いださせる、むじゃきな声をだした。
亮二は煙草を深く吸い込んで白い煙をゆっくりと吐きだすと、呟くように訊いた。
「本当にそう思うか?」
「えっ? あたりまえじゃない。持つべきものは仕事のできる元亭主ね」
「紫、あの……」すまない、と言いかけて亮二は言葉をつまらせた。
「なに?」
「いや、その……」頭のなかが真っ白になる。「こんど、メシでも食わないか?」
紫が一瞬、戸惑っているような間をあけた。
「熱でもあるの? さては女に振られたな。別れた妻を誘うほどモテなくなったの?」
「おまえを口説くほど落ちぶれてねえよ」
「残念だな。その気じゃないならやめとくわ」
紫はふざけた口ぶりで答えて、亮二は胸を撫で下ろす。
「おまえをCMから降ろさないで良かったって、みんなに思わせろよ」
「わかってる。ありがとう」
亮二は煙草を備え付けの灰皿の上で揉み消して電話を切った。
紫が食事の誘いを断ってくれてホッとしていた。
いまさら食事に誘ってどうするつもりだったのだろう?
頭の隅のほうで、紫と別れていなかったら? という考えがうっすらと浮かんだ。