第二十五話 協力者 1996年、渋谷
周囲の音が少しずつ大きくなってだんだん意識がはっきりとしてくる。亮二はゆっくりと目をあけた。
タイムスリップに慣れてきたのか、頭は前のように痛くはない。亮二は車の助手席に座っていた。
車は十五年くらい前に乗っていたもので、すぐに自分が渋谷東急本店の駐車場にいるということがわかった。運転席には若い亮二がハンドルにうつぶせになって意識を失っている。もし、運転中に自分が現れていたらと思うと、亮二はひやっとした。
いつの時代に飛んだのか、手がかりを探して車内を見わたすと、雑誌が後部座席にあった。テレビの情報誌「月刊テレビニュース」と女性向け月刊誌の「ミュウミュウ」だ。
「月刊テレビニュース」は一九九六年六月号で「ロングバケーション」を大きく特集している。最高視聴率、三十六・七パーセントの大ヒットドラマだ。
ページをめくっていくと、肩にかかるくらいに髪をのばした紫が微笑んでいた。紫がイメチェンをはかったドラマの撮影現場で撮った写真だ。どうやら亮二は望んだ時代に来ることができたようだ。
「ミュウミュウ」は同年の五月号で、「愛の占い特集。あなたの恋の行方は」と表紙に書いてある。雑誌を開くと、着飾った田辺巫女が写っていた。名前は姫宮あんりになっている。四ページの特集が組まれて、なんと最後のページには紫とのツーショットが載っていた。
記事には紫が姫宮あんりの大ファンだと書いてある。紫がよく雑誌の占いを見ていたのは知っていたが、姫宮あんりのことまで覚えていない。
望んでいた時代に来たものの、亮二はどこに行って何をしたらよいか見当がつかない。取りあえず渋谷から移動しようと助手席のドアをあけようとして、靴を履いていないことに気づいた。特効薬を飲んだときに履いていなかったからだ。
亮二はどうにか若いころの自分を運転席から引っ張りだし、赤いスニーカーを脱がせて後部座席に突っ込んだ。靴が服に合わないけれど仕方がない。
気に入っていた買ったばかりのスニーカーを無くした日のことを急に思い出した。
もう、何年も前になる。
「カミーユ・クローデル展」を東急文化村に見に行ったときに気分が悪くなり、車で横になっていたはずが気づいたときには別のところにいて、買ったばかりのスニーカーが無くなっていた。意識がなくなることに慣れてはいたものの、さすがに気味が悪かった。きっとあの日に違いない。
亮二はスニーカーを履いて運転席に座わるとエンジンをかけた。ラジオからパフィーの「アジアの純真」が聞こえてくる。半ドアのランプが点いているのに気づいて運転席のドアを閉め直した。まだランプが点いている。助手席にまわってドアをあけ、力を入れて閉めたがランプはまだ消えない。後部座席のドアを閉め直すとランプはやっと消えた。
「白鳥紫さんをゲストにお迎えして、東京FMステーション 渋谷スペイン坂スタジオから生放送でお伝えしてます。ドラマはとうとう最終回を迎えますが、どうですか?」
運転席にもどると不意にラジオから紫の声が聞こえてきた。亮二は驚いてラジオの音量をあげる。
「恋を取るか仕事を取るかで悩んでます!」
「悩んでますって……」DJが笑った。「元気に答えてくれた紫ちゃんですけど、紫ちゃんでも悩みってあるんですか?」
「ありますよ、もちろん。年ごろですもん」
ラジオのなかで紫は冗談っぽく笑った。
「紫ちゃんはいつも元気いっぱいってイメージですけど、たとえばどんなこと?」
「スタジオの食堂でAランチにするかBランチにするか、いつも悩むでしょ。それから……」一瞬、間があいて、「やっぱり、そんなに悩まないかな」と言って紫は笑う。
亮二は胸が痛くなった。紫はいつも小さいことを気にしていた。このドラマのことだって、食事がのどを通らないほど悩んでいたのだ。無理して笑って人前ではいつも元気な振りをして、紫は小さな胸を痛めていた。
「悩みがあるときはどうするんですか?」
「えっと……星占いしたり、タロット占いしたり、易をみてもらったり……」
ちゃめっけたっぷりな、懐かしい紫の話し方だ。
「それ、ぜんぶ占いじゃないですか」
「そうですね」と紫は答えて、あははと笑う。
「そんな紫ちゃんが、最近夢中になっている方が秘密のゲストで来てくれています。さあ、誰でしょう」
「えー、誰だろ? 私が夢中になっているひとですよね? もしかして……あのひとだったら嬉しいな」
「雑誌『ミュウミュウ』に連載して、人気上昇中の占い師、姫宮あんりさんです」
「本当に? 嬉しい!」紫が喜びの声をあげた。
巫女と紫がこの渋谷にいる。自分がここに現れたのは、ふたりに関係していると亮二は確信した。
亮二は急いで若いころの自分の鞄をあけて、財布とラジオが聞ける携帯用CDプレーヤーを取りだした。五千円を抜きとって財布を鞄にもどし、ラジオを東京FMステーションに合わせてイヤフォンを耳にいれる。そして鍵は車に残したまま、渋谷パルコパート1の一階にある渋谷スペイン坂スタジオに急いだ。
「紫ちゃんは姫宮さんに会ったことはあるのよね」
「はい、雑誌の取材で。でも、やっぱり緊張しちゃってます」
「姫宮さん、紫ちゃんの運勢はどうでしょう?」
「紫さんにはとってもいい守護霊様がついていますよ。運も強いです」
亮二は階段を駆け上がって地下駐車場から地上にでた。目の前の文化村通りを横切って、そのまま路地をまっすぐ進むと、センター街を超えて井の頭通りまでダッシュした。井の頭通りにでると右に曲がって一本目の細い道を左にはいる。ここまで来たらもうすぐだった。この道をまっすぐ行けばパルコの前にでる。
息をきらして亮二はようやくスタジオに着いた。スタジオの前は、「Yukari Love」と書いたうちわを持った、紫のファンでいっぱいだ。
「紫さん、いつでも訪ねてください。観て差し上げますわ」
巫女の気取った声がイヤフォンから聞こえる。
「本当ですか? 今夜なら時間があるんですけど」
「そのお約束は後ほど相談して頂くとして、紫ちゃん、ドラマの宣伝お願いします」
DJが笑って話をもどし、紫が最後に明日のドラマの宣伝をして放送は終わった。
放送が終わると潮が引くようにスタジオの前から人がいなくなった。亮二はそこで巫女が出てくるのを待つことにした。紫を説得するのに巫女を使うことを思いついたのだ。
少しして高そうなスーツを着た巫女がパルコから出て来た。身なりの良さは成功を物語っている。亮二が声をかけると、巫女は足を止めて振り返った。今度はすぐに亮二のことがわかったようだ。
「先生じゃありませんか!」巫女は目を丸くし、声を高らかにして言った。「お逢いしたかったわ。あのときは煙のように消えてしまわれたので本当に驚いたのですよ。先生はいったい……」
「あの日は、その、すまなかった」亮二は巫女の言葉を遮った。「君は幸せそうだね」
巫女は化粧の濃い顔で作り笑いを亮二に向けた。
「先生に助けて頂かなければ、私の現在はありませんでしたわ」
笑顔でそう言いつつも巫女の目は笑っていない。
「それならと言ってはなんだけど、ひとつ頼みごとを聞いて欲しい」
「何ですか?」巫女の顔が曇る。
「今晩、君は白鳥紫と会うのかい?」
「ええ」巫女は戸惑った様子を見せて少し考えてから返事をした。「お忙しい方なので、今夜、うちに来ていただきます」
「紫に髪をのばしてイメージを変えるように勧めてもらいたい。それから彼女のまわりにいるR・Iというイニシャルの男を信用してはならないと、君から告げて欲しいんだ」
巫女は首を傾けてじっと考えこんでいる。
「いくら先生のおっしゃることとはいえ、お受けしかねますわ。たかが占いと思われているかもしれませんが、人の運命がかかっていることですから」
「だからこそ君に頼んでいるんだ。その男を信じていまのままでいると、紫は不幸になるんだよ。頼む」
「そう、おっしゃられましても……」巫女は少し迷惑そうな顔をして溜め息をつく。「先生はいったい何者なんですか? 私はこの目で先生が消えるのを見たんですよ」
亮二は巫女に真実を告げることにした。
「俺は……実は未来から来たんだ」
「ご冗談を」巫女は口ではそう言ったものの、亮二の話を真剣に聞いている。
「本当だよ。君のことだって未来で知っていたんだ。サイキックだなんてでたらめだ。俺が消えたところを見たんだろ。信じてくれ。紫はこのままだと不幸になる。いま付き合っている男と一緒になったらいけないんだ」
巫女の目が妖しく輝いた。その瞳の光には昔のような純粋さはない。
亮二に未来を見通す力があることは既に証明済みだ。疑う余地がない。亮二が消えたのを目の当たりにした巫女は、その話を信じたようだった。必死に頼む亮二にいやらしい微笑みを浮かべて答える。
「ただという訳にはいきませんことよ。何か未来で起きることと交換でないと」
「ああ、いいとも。デカいニュースを教えてやる。その代わり今晩紫を観るとき、俺もその場に居させてくれ。隣の部屋でもクロゼットのなかでもいい」
「しょうがありませんね。交渉成立です」巫女はにやりと笑って言った。
来年にあたる一九九七年の八月三十一日と九月十二日に、偉大な女性が亡くなることを亮二は巫女に告げた。ふたりとも人々に愛をもたらし、救いの手を差し伸べた立派な女性たちだ。
「ひとりはとても美しい人だ。パリで車の事故に遭う。人々の好奇心が彼女を殺す。もうひとりは一生を恵まれない人々に捧げた女性で、インドで亡くなる」
「それは誰ですか?」
亮二は巫女の耳に口を近づけてふたりの名を告げると、巫女は目を見開いて彼を見た。
「ちなみに彼女は今年の八月に離婚する。この情報はサービスだ」
「わかりました。先生を信じましょう」
巫女はそう言うと、亮二に自分の家の場所を教えて二時間後に来るように告げた。
亮二は巫女の家には車で向かうことにした。時間は充分あるので、こんどはゆっくり歩いて東急本店にもどる。
街にはルーズソックスを履いた高校生と、さらさらした茶髪のロングヘアをなびかせ、細い眉にベージュ系の化粧をしたアムラーでいっぱいだった。彼女たちはそろってミニスカートに厚底の靴を履いている。キョロキョロしているうちに亮二は駐車場に着いた。