第二十三話 心空なり
急に携帯の着信音が鳴って、亮二は現実に引きもどされた。
夜中の電話は心臓に悪い。時計の針はもうすぐ午前零時を指すところだ。こんな時間にかかってくる電話に良い知らせは少ない。トラブルが起きたのかとドキリとして、急いで携帯を取った。
瑠花だ。亮二は携帯に表示された名前を見て驚いた。瑠花から電話をしてくることなど、滅多にないからだ。ましてや、こんな夜中にかかってくるなんて。
「夜分にごめんなさい」
「どうしたの?」
「……このごろ、ゆっくり話をしてないから」
一瞬、間があいたので亮二は瑠花が言葉を探していたように感じた。
この前の亮二の態度を気にしているのだろうか。もしそうなら、亮二には意外だった。気を引くためにあんな態度を取ったわけではなかったが、気にかけてくれたのであれば嬉しい。亮二は川崎に指摘されるまでもなく、あの日のことは反省していた。
「このまえは悪かった。仕事がたまっていて、とても忙しかったんだ」
「気にしてないわ。今日も疲れてる?」
逢いたいということなのだろうか?
亮二は瑠花の真意を測りかねた。逢いたいと思ってくれるのなら嬉しいけれども、今夜はそういう気分になれそうもない。
それなのに亮二は、つい口にしてしまった。
「くる?」
「いいの?」
瑠花の声が明るくなったような気がした。
亮二は「ああ」とだけ、気乗りがしない口調で返事をして「じゃあ、後で」と言って電話を切った。
瑠花を家に呼んだことをすぐに後悔した。瑠花との距離がうまくとれない。恋という感情など一時的なものだとわかりきっている。恋は冷めるもの。愛情なんて不確かなものにいまさら期待をするのは愚かだ。そういう面倒なものがなかったから、いままで瑠花と上手くいっていたのだ。
それに今は亜紀のことが頭から離れない。こんな気持ちで瑠花に逢いたくなかったが、夢で見た瑠花の淋しげな横顔が気になっていた。
二十分ほどで瑠花がドアをノックした。
「開いているよ。はいって」
瑠花がリビングへはいると、キッチンで亮二が声をかけた。
「適当に座って、何か飲む?」
「池下さんと同じものを」と答えて、瑠花はソファーに腰をかける。
亮二は氷とバーボンをいれたグラスを運んできて瑠花に渡すと、彼女の隣に座った。
「仕事でニューヨークに行っていたんだ」
「そう」
瑠花は普段と変わらない。夢で見たような様子は微塵も感じられなかった。
「君から連絡をもらうなんて珍しいな」
「そういうときもあるわ」瑠花は静かな口調で答えた。「池下さんこそ、何かあった?」
「別に、何で?」
「珍しく、強いお酒を飲んでいるから」
「そういうときもあるさ」
どういうわけか会話がはずまない。
瑠花の長い黒髪を見て、亮二は亜紀とは全く違うと感じた。亜紀が太陽なら瑠花は月だ。何にでも興味を持ってどん欲に未来をつかもうとする亜紀と、何事にも執着せずに未来を手放すことをいとわない瑠花。髪型も、顔立ちも性格も、すべて似ても似つかない。
部屋の中は静寂に包まれて、時を刻む時計の音だけがカチ、カチと部屋に響いている。瑠花の表情のない氷のように整った顔を見て、優希や亜紀ならいっときも同じ表情をしていないと思った。
「君に渡すものがあったんだ」亮二は立ちあがって隣の部屋へ行き、リボンのついた小さな箱を持ってきて瑠花に渡した。「ニューヨークの土産だよ。気に入るかわからないけど」
瑠花が包みをあけると、それはクリア・クリスタルのパヴェがあしらわれた、クロスの形をしたスワロフスキーのペンダントだった。
「ありがとう、つけてもいい?」
瑠花が一瞬、子供のような顔をした。
「かしてごらん」
亮二はペンダントを取り上げた。髪を瑠花が両手で持ち上げ、首の後ろで亮二は留め金をとめる。そのまま、うなじにキスをして首筋に唇を這わせると、瑠花が身体をびくっと震わせた。
力任せに瑠花を抱きよせたものの亮二は上の空だった。瑠花に触れながら心はどこか別のところにある。
どうやって亜紀を抱いていたのか、もう思いだせない。亜紀はどんな顔をしてこの腕に抱かれ、どんな声をだしたのか……。
「心ここにあらずって感じね」不意に瑠花が言った。「ごめんなさい、疲れているときに押しかけて。今日は帰るわ」
瑠花は優しい微笑を亮二に向けて立ちあがると、手早く乱れた服を整えた。
「飲んでいて、運転は大丈夫か?」
「車じゃないの。ぜんぜん使わないから随分前に売っちゃったのよ」
送って行こうか、と言ってやりたかったが、亮二も酒を飲んでいる。一緒にタクシーをつかまえてやることも考えたけれど、なんとなく気まずい。悶々としてソファーに座ったままグラスを傾けている間に玄関のドアが閉まった。
亮二はやるせない気持ちになって酒をいっきに飲みほした。何もかもがめんどうになる。やけになって酒をもう一杯グラスについだ。
いくら飲んでも今夜は酔えない。亮二は身体をベッドに転がした。疲れているのに頭が冴えて眠れそうもない。仕方なくナイトスタンドをつけて日記の続きを読み始めた。