第二十二話 アイドルとの恋
記憶とは実にいい加減だ。無意識に都合の悪いことは忘れたりすり替えたりしている。そうでないと人は生きていけないのかもしれないと、亮二は思った。
嫌だったとか辛かったとか、漠然とした感情は覚えているけれども具体的なことは忘れている。なぜ、あのとき彼女が怒ったのか、泣いたのか。どうして自分が不機嫌だったのか。そういうことは覚えていない。嫌なことは思い出したくもなかったし、その時ですら考えないようにしていた。
紫に言われたように、自分のことをわかっているつもりで何もわかっていないのかもしれないと、亮二は過去に行って思うようになった。
年月が経つにつれて忘れてしまった記憶とは別に、亜紀との記憶だけが完全に抜け落ちてしまっていることに亮二は最近になって気づいた。いままでは過去を振り返ろうなどと考えもしなかったけれどもシン先生に会ってからというもの思い出せない過去が気になっている。
中途半端に残っている感情の断片のような記憶が何かを語りかけてくるけれど、それが何かわからない。それは自ら忘れようとした記憶なのかもしれないと感じていた。
亮二はいつもより早く帰宅してソファーで日記を付けていた。ビールを片手に今日あったことを簡単に書き連ねる。昔はあれこれ思ったことを書いたものだが、最近は日記というよりも日誌になっている。ふと、昔の日記を読めば忘れていることを思い出すのではないかと気づいた。
いままで日記を読み返したことはない。捨てるわけにもいかずに押し入れの奥深くにしまい込んだ段ボール箱を亮二は引っ張りだした。
東京に来てからの人生がすべてここにある。忘れてしまった亜紀との遠い日々も、紫が豹変したヒントも、この日記に書かれているはずだ。亮二は一枚だけ亜紀の写真を挟んでいたのを思いだして、亜紀と付き合っていたころの日記を手に取りぱらぱらとめくった。
写真はふたつに破かれていた。自分で破いた記憶はない。しかし、亮二はときどき記憶がなくなるのだ。自分でやって忘れているのかもしれない。二枚を丁寧にあわせてテープでとめると、そこには、亮二が愛した亜紀の笑顔があった。それを見て胸の奥がチクッとする。くしゃくしゃな顔をして大笑いしている亜紀がそこにいた。彼女の名前を頭に浮かべるだけで心が熱くなる。亜紀のことを自分はどんなふうに愛したのだろう。
ページをめくって日記を流し読みしていくと、亜紀と出逢った日が近づくにつれて亮二の心臓は激しく高鳴り胸が痛くなった。そのうち息が苦しくなって右手が小刻みに震えだす。とうとう耐えられなくなって日記を閉じた。
ダメだ。読めない。
想像もしなかった身体の抵抗に驚いた。まだ心臓が激しく音を鳴らしている。
亜紀の時代の日記は諦めて、紫に出逢ったころの日記を手にした。
そこには無限の可能性を秘めた紫を見つけた興奮が事細かく書かれていた。最初は紫に対する個人的な思いを綴った記述はなかった。それがページをめくるごとに、彼女のことで埋められていった。全く覚えていないこともあったけれど、紫に恋して楽しかった日々が日記を読んで鮮明に甦った。
――デビューしてから一年もたたないうちに、紫はCM契約数過去最大の十一社を抱えて、CMの女王と言われるまでになった。
亮二が制作する紫のCMは年に四本作られたので、打ち合わせや撮影やらで彼女とは定期的に逢っていた。そのうち紫は、用もないのに亮二に電話をしてくるようになった。最初は週に一回だった電話が、三日に一回、二日に一回、そして、毎日かかってくるようになるまでに、そんなに時間がかからなかった。
一躍トップアイドルとなった紫が心を許せたのは亮二だけだ。まわりは紫を利用しようとするおとなばかりで、誰もが紫にとても親切に接していたけれど、それは自分が売れているからだと聡明な紫はわかっていた。同世代のタレントたちは表向きはいい顔をしても裏で足を引っ張ろうとしていることは明らかで、紫はさんざん嫌がらせを受けた。顔の見えない悪意は不気味で、紫の神経をすり減らす。
明るく元気でさばさばした紫のイメージは仕事上作られた姿で、底抜けに明るい笑顔に隠された彼女の素顔は内気でおとなしく繊細だった。彼女は世間が求める紫のキャラクターを演じていただけで、その作られたキャラクターこそ亜紀そのものだった。亮二が紫の亜紀に似ている部分を最大限に引きだしてCMのために作り上げたキャラクターで、それがそのまま紫のイメージとして定着していた。
「どんどん自分が遠くなっていく気がするの」
電話を通して紫の辛そうな声が聞こえてくる。亮二は仕事の手を休めて話に集中した。
「君とタレントの『紫』は別人だ。気にすることはないよ。虚像の世界だから」
「ときどき自分でわからなくなる。どっちが本物の私なのか。辛いの」
「みんなそうだ。社会で生きているってことは多かれ少なかれ自分を演じているんだよ。俺だってそうさ。軽い自分を演じているうちにいつのまにか軽薄になっちまったし 、多少なりともそういう一面も自分のなかにはあるんだよ」
「でも、『紫』は明らかに私じゃない。私が考えないことを『紫』は考えて行動するの。それを世間が求めているから。でも、それは私じゃない」
このところ紫はナーバスになっている。
亮二は紫の本来の姿が亜紀と異なることをわかっていたが見ないようにしていた。自分が作り上げた『紫』が何よりも愛しかった。
「わかるよ。だから、君は仕事では『紫』という役を演じていると思えばいいのさ」
「世間に誤解されているのが嫌なの」
「他人にわかってもらう必要がどこにあるんだい? 俺は君を作ったひとりだけれども、君の本質はわかっているつもりだ。俺がわかっているだけじゃ、ダメかい?」
亮二は甘く囁くような声で紫をなだめた。
「池下さんの前では『紫』を演じなくていいの?」
「自然でいてくれていいよ。俺はボーイッシュで正義感が溢れる『紫』よりも、明るく女の子らしい少し弱虫の君のほうが好きだよ。勝ち気なのは嫌いじゃないけどね」
そうやって言っておきながら亮二は紫の後ろに亜紀を見て、無意識のうちに亜紀の性格や好みを紫に少しずつ押しつけていった。
紫は亮二を最大の理解者だと思って信頼し、亮二の言うことなら何でもきくようになっていった。そのうち「紫」のイメージとのギャップにも、どうにか折り合いがつけられるようになった。好きな男の理想に近づきたいという思いが、彼女を「紫」のキャラクターに近づけていったからだ。
紫は薄いピンクや女性らしい色を好んだが、水色や薄紫が似合うと言って亮二はブルー系の色を彼女に勧めた。ブルーを好んだのは亜紀だった。
紫が自分に向けている特別な感情に亮二は気づいていた。何でも言うことをきき、自分を慕う紫が可愛くないわけがない。大切に思っている気持ちには嘘はなかった。
しばらくして、紫が完成したばかりのレインボーブリッジの夜景を見たいと言ったので、亮二は紫をドライブに連れだした。宝石が散らばっているような素晴らしい夜景を、外にでられない紫と車のなかで眺めているうちに、どちらからともなく自然に唇を重ねて亮二は紫とこっそり付き合い始めた。人気絶頂のアイドルとの秘密の恋は自尊心をくすぐって、誰にも知られてはいけないという状況がいっそう恋を燃え上がらせる。
紫を手に入れた亮二は亜紀に勝った気になって、亜紀よりも百倍いい女と付き合っている自分が誇らしかった。亮二にとって紫は理想をそそぎこんで創りあげた何ものにも代えられない美しい人形で、紫の喜ぶ顔を見ているだけで幸せになれた。
亮二は紫と甘美な時間を過ごすうちに亜紀のことを思いださなくなった。紫の純粋な愛情も美しい肉体も手にした亮二は、男としての自信をみなぎらせて、仕事でも実力を発揮していく。毎日が楽しくてしょうがなかった。
紫はラジオやテレビのトークショーで亮二にだけにわかるサインを送った。ふたりともこの恋に夢中だった。紫はいろいろと理由をつけて亮二のマンションの近くに引っ越した。マネージャーのなべちゃんは、まるでふたりの仲を疑っていなかった。――