第二十一話 予言者 姫宮あんり
いつのまにかフラッシュバックが治まり頭痛も嘘みたいに消えていた。亮二が我に返ると、斜め前のボックス席では紫となべちゃんが事務所の移籍について話している。
大手の事務所でないとなかなかチャンスはつかめない。役者も歌手も平等ではないのだ。どんなに演技が上手くても小さな事務所にいたら良い役はつかない。実力がなくても大きな事務所のタレントにはチャンスが与えられる。そのチャンスをものに出来るか出来ないかでスターになれるかどうか決まるのだ。
紫のモデル事務所は養成コースを設けて、その収入で成り立っている小さな事務所だった。亮二は業界一、二を争う大手の「スターゲートミュージック」に紫の身柄を預けようと考えた。そのほうが自分の企画でも紫を押しやすいからだ。養成所を終えたばかりの紫は、正式に契約をしていなかったので移籍するのに問題はなかった。
「池下さん、遅いですね」
紫が不安気になべちゃんに言った。
「きっと仕事の電話をしてるんだよ。池下さんってあんなに軽そうに見えても実は優秀でね。仕事をいっぱい抱えて忙しい人なんだ。面倒見もよくてね。すごくいい人だよ」
陰で、なべちゃんが自分をよく言ってくれるのが嬉しかった。亮二は現代に帰ったら、未婚のなべちゃんを「隠れ家」に連れて行ってやろうと思う。
ウエートレスがオーダーを取りに来たので、亮二はメニューを見ないで頼んだ。
「ケーキセットで、抹茶ケーキとコーヒー」
「申し訳ございません。ケーキはチーズケーキだけになります」
ウエートレスに言われて、『すいれん』が抹茶ケーキを出すようになったのは、ずっとあとの時代だったことを思い出す。
「じゃあ、チーズケーキで」
そう言ってから、亮二はあまり金を持っていないことに気がついた。古い紙幣は巫女からもらった夏目漱石が一枚。小銭は今朝、自動販売機で缶コーヒーを買ったおつりだけだ。この際少し金を借りようと、亮二はトイレに向かった。
トイレに誰もいないことを確かめると、若いころの自分がいる隣の個室にはいって便器に上がり、敷居を超えて隣に侵入した。若い亮二はよく眠っていて少しも起きる気配がない。昔の自分の財布から一万円を抜いて亮二はちょっと考えた。
二十七歳か。
倒れている男の顔を見て、亮二は一万円を返して五千円を財布から取った。
「ちょっと借りるぜ」
返すあてもないのにそう言って、また便器に上り外へでる。
トイレの出入りは、何回やってもなんとなく空しい。
亮二はトイレをでるとレジに行き、池下に頼まれたと言って自分の分と紫のテーブルの分を支払う。五千円をだして六百円のおつりをもらった。百円を十円玉に崩してもらい、レジの横に置いてある店のマッチを取る。次に亮二は公衆電話からマッチに書いてある「すいれん」の番号に電話をかけてなべちゃんを呼びだした。
「もしもし、なべちゃん。悪いんだけどトラブっちゃってさ。そっちにもどれなくなった。支払いは済ませといたから、紫ちゃんのことは頼んだよ」
なべちゃんはわかったというと、紫のことを褒めまくって電話を切った。
亮二はなべちゃんと紫が店をでたのを確認すると、こんどはレジに行って、池下がもどって来たら連れは急用で帰ったと伝えてくれと、伝言を頼む。この時代に亮二が存在しているあいだは、若いころの自分は決して目を覚まさないのだ。亮二は昔の自分をトイレに放置したまま店をでた。
外はもう薄暗くなっていた。この時代では亜紀に逢えない。彼女はとっくに失踪している。
亜紀に逢うのは断念して、あてもなく歩き、上京したてのころのようにキョロキョロしながら一九九三年の新宿を懐かしんだ。
亮二はアルタの横を通って靖国通りにでた。信号待ちをしていると、走ってくる車の前にいきなり若い女が飛びだした。ヘッドライトが彼女を照らし、亮二はとっさにその女性に駆け寄って力づくで歩道に連れもどそうとした。耳元で大きくクラクションの音が聞こえてもうダメだと諦めた瞬間、危機一髪、亮二は彼女を抱えたまま歩道に転がった。運転手がなにやら怒鳴っているのが聞こえたが、まわりの人は誰ひとり気にも止めない。
女が立ちあがって、すぐにまた車道のほうへ走ろうとするのを、亮二が押さえつける。驚いたことに、亮二の腕のなかで泣きわめいている女性は占い師の田辺巫女だった。
「放してください。お願い、死なせて!」
「田辺さん、しっかりして。僕です。覚えていませんか?」
亮二は巫女の肩を両手で強く押さえて身体を揺さぶった。見知らぬ男に名前を呼ばれて巫女は我に返ったが、なかなか亮二のことを思いだせない。
「僕です。五年くらい前に、恵比寿であった」
「サイキックの先生?」
巫女は亮二が誰だかわかって、驚いた顔になった。
「覚えていてくれましたか。いったい、どうしたんだ。死のうなんて」
「先生と出逢ってからずっと頑張ってきました。新宿の伊勢丹の近くで占いをしてますが、もう、自分に力があると信じられません。お金も稼げないし友達も恋人もできない。占いをやっている私がこんなに不幸じゃ、ダメでしょう? 去年、両親が交通事故で死にました。可愛がっていた亀も夕べ息をひきとったんです」巫女は泣き崩れた。「独りぼっちで淋しくて……。生きていてもいいことなんてない」
巫女は顔を歪めると、亮二にしがみついて胸に顔を埋めた。
「ダメなんかじゃない。君の能力は本物だ」亮二は巫女を抱きかかえて励ました。「君は二〇一一年には占い師としてだけではなく、予言者としても名前が知られるようになる。自信を持つんだ。いいかい、一九九四年の一月十七日に起きたロス地震と、その翌年の同日に起きた阪神淡路大震災を君は予言したんだよ。それだけじゃない。その年に、東京の地下鉄でサリンという毒が宗教団体によってまかれることも、君は見事に当てるんだ。大丈夫だよ。君には力がある」
「そんなことがあるわけない。私に力なんて……」
「俺を信じろ」亮二は両手で巫女の肩をつかんで力強く言った。「そうだ。いまは何月?」
「えっ?」巫女は少し落ちつきをとりもどして、不思議そうな顔で答えた。「五月ですけど……」
「もう少し、伊勢丹のそばで頑張ってごらん。この状況をあとちょっとだけ我慢すればいいんだよ。君は来月、内閣不信任案が可決して衆議院が解散することを、まだ誰も予想しなかった時期に言い当てて運命が変わるんだ。まだ、死んではダメだ」
「わかりました。先生を信じて、あと三ヶ月だけ生きてみます」
亮二が両手で彼女の手を包んで勇気づけると、巫女は力なくうなずいた。
ホッとしたとたん、亮二の腹が音を鳴らして空腹をアピールした。亮二が照れくさそうに笑うと、巫女の顔もあかるくなる。こんなことなら「すいれん」でケーキを食べてから店を出ればよかったと思っていると、巫女が鞄から和菓子をだした。
「父母の墓参りに行って、お供えするのに買った残りなのですけど、良かったらどうぞ」
亮二は礼を言って緑色をした餅をほおばった。
うまいと思ったのも束の間、少しすると亮二の身体にぶつぶつした湿疹が現れて真っ赤に腫れだした。身体中が痒くて堪らない。亮二は冷静になって自分の行動を振り返った。
「もしかして、さっきの餅ってよもぎ餅?」
巫女が「はい」と言ってうなずいた。
やっぱりよもぎにもアレルギーがあったのか。そう思ったところまでは覚えているが、次の瞬間、亮二は気を失った。
「先生、大丈夫ですか?」
心配する巫女の声がどんどん遠ざかっていく。
時空を旅するときに瑠花が夢に出て来た。小さなマンションの窓辺に独りたたずんで、遠くを眺めている。いつもの瑠花らしくないとても淋しそうな横顔だった。彼女は何を見つめているのだろう? そう思ったところで亮二は目が醒めた。
* * *
亮二は会社のトイレで呆然としていた。
夢で見た瑠花の淋しげな横顔が目にやきついていた。あんな顔をした瑠花を亮二は見たことがない。
見てきた過去と記憶とを整理しようとしても、まだ冷静に頭が働かない。この目で見てきた過去は前に自分が経験したことなのに、過去を体験したことでどこか他人の人生を客観的に見てきたような何とも不思議な気分だった。
亜紀に逢いたいという思いは少しおさまっていた。なぜ、亜紀のところではなくて紫の時代に行ってしまうのだろう? 亮二は潜在意識に問いかけた。
紫の言ったとおりだった。出逢ったころは、亜紀の面影を紫に重ねていた自覚が自分にはあったのだ。
あのころの亮二は、紫がトップにかけあがって行くのが嬉しくてたまらなかった。公私ともに紫の存在は大きく亮二の人生を占めていた。
――亮二が清涼飲料水のキャンペーンに紫を推すと、満場一致で起用が決まった。紫が人を魅了する透明感と人並み以上の輝きを持っていたのは明らかだった。
キャンペーンは話題を呼んで、紫はCMをきっかけにブレイクした。CMは大好評で、三年間もシリーズ化された。
すぐに紫は連続ドラマの出演が決まって、中高生に人気のアイドルが主演するドラマの敵役に抜擢されるという恵まれたスタートを切った。初めは主役とヒロインの恋を邪魔する当て馬でしかなかったが、回を追うごとに人気があがってどんどん出番が増えていき、最終回のころには主役のふたりを完全に食っていた。紫が脇役をしたのはその一回きりで、次のドラマからは紫のためのドラマが作られた。
底抜けに明るくてエネルギッシュな紫は茶の間を元気づける。大きな瞳の輝きは正義感に溢れて紫のフレッシュさを強調させた。美少女でボーイッシュというキャラクターは例がなく、紫はあっという間にトップに躍りでた。
亮二は忙しくても紫のドラマだけはすべて見た。紫の持つ瞳の奥にある輝きに遠い日の亜紀の姿を重ねていた。あのころの亮二は、自分が紫を見いだして「紫」を創作したことに満足だった――
亮二が制作ルームにもどると、田辺巫女がインタビューを受けている様子を中山がパソコンで見ていた。ちょっと前にオンエアされた情報番組だ。インタビュアーが、「姫宮あんり」と巫女のことを呼んでいた。
「死のうと思って車の前に飛びだしたとき、守護霊様が私を救って下さったのです。その霊は、何も心配することはない、先祖代々伝わっている自分の予知能力を信じるようにと、厳かに言って私を諭しました」
亮二はそのインタビューを見て腰を抜かしそうになった。
あんな形で巫女の前から姿を消してしまったが、どうやら自殺を思いとどまってくれたようだ。
デスクにもどると亮二は急いで桜花堂の企画の修正案をまとめた。スポンサーの機嫌をそこねないように紫の起こしたトラブルをフォローして、紫を降板させないように代理店を説得しなければならない。亮二は昼に紫と逢ったときよりも、彼女の力になってやりたいと心の底から感じていた。