第二十話 フラッシュバック
眠りから覚めると、そこはトイレの個室だった。さっきまでいた会社のトイレではない。
個室から出ると洗面台の鏡に現代の亮二が映っていた。壁にはってあるイベントのポスターには平成五年と書いてある。鏡を通して入り口近くに男が倒れているのが見えた。気を失っているその男は昔の亮二だった。
亮二はすぐさま倒れている自分をひきずってトイレの個室に放り込んだ。ドアから手を離すと戸が自然に開いてしまう。人が来る気配がしたので、自分もすかさずその個室にはいった。内側から鍵を閉めて息をひそめる。人が出ていくのを確認してから便器に上がり、敷居をよじ登って上から脱出した。トイレの敷居をよじのぼっている自分の姿を想像して亮二は情けなくなる。
トイレからでるとホテルのフロントみたいな立派なレジがすぐ横にあって、亮二はここが「談話室すいれん」だとわかった。
ウエートレスが、トイレから出て来た亮二を不思議そうに見た。厳しい接客を躾られている「すいれん」の店員は、例え十五人の団体であっても、ひとりひとりの前にメモも取らずに注文を間違えないで置くことができた。その並外れた記憶力を持った店員が、亮二の入店を覚えていないはずはない。ウエートレスが怪しんでいるのがわかった。
「参ったなぁ。腹の調子が悪くて」腹をさすりながら最高の笑顔をウエートレスに向けて、さも親しげに亮二は訊ねた。「ビックフットエンタープライズの池下、来ているよね?」
常連の名前を聞いて安心したウエートレスが、亮二を席に案内した。そこにはショートカットの女の子と、大手のタレント事務所でマネージャーをしている渡辺がいた。
「打ち合わせ中みたいだから、こっちでいいよ」
そう言って、亮二は通路を挟んで斜め前の席に座った。
女の子は窓側に座っている渡辺に身体ごと向けて話しているので顔が見えない。一瞬、亜紀かと錯覚しそうになったが、すぐに髪を切った紫だとわかった。
急に亮二の頭に割れるような痛みが起きた。フラッシュバックのように映像が次々と頭に浮かんでは消えていく。
緊張して渡辺と話しをしている紫。汗を拭きながら太ったからだを揺らして店にはいってきた渡辺。ケーキセットを注文する若き日の亮二。まるで、記憶が超高速スピードで巻きもどされていくようだ。
記憶の巻きもどしが終わると、亮二ははっきりとその日にあったことを思いだした。
* * *
――紫と逢ったのは、この日で二度目だった。数日前に紫をスカウトした亮二は、紫から電話をもらって「すいれん」で再び逢う約束をした。
他の打ち合わせを終えたばかりの亮二のまえに、髪をばっさりと切った紫が現れた。階段をあがってきた紫を遠くから見て、一瞬、亜紀かと思って亮二の心臓が大きく音をたてる。このあいだは雰囲気が似ていると感じただけだったけれど、紫が亜紀と同じようなヘアスタイルにすると想像以上に良く似ていた。
後ろはバッサリと短く切っているが前と横を長めに残しているので、動くと、さらさらとした薄茶色の髪の毛が紫の頬に触れた。顔立ちが美しく愛らしいので、ボーイッシュやマニッシュという表現はされても、けっして男っぽくはない。短い髪は明るくフレッシュなイメージを与えて、芯の強そうな大きな瞳は正義に満ちていた。髪を切ったせいで大きな目が強調されて、ひとを惹きつける瞳のパワーは増している。店のなかにいる人たちが、紫を目で追うのがわかった。
「すっごく似合ってるね。見とれちゃったよ」
亮二がストレートに思ったことを口にすると、紫は少し得意げに微笑んだ。
「池下さんの言うとおりでした。新しい自分になったみたいで、気に入ってます」
「予想以上だ。断言するよ。君は必ずスターになれる」
紫は自信に満ちていて前にあったときとは明らかに違った。髪型に合わせて服装も変わった。白いシンプルなミニのワンピースから綺麗な足を惜しげもなく見せて、その自信が、いっそう彼女を魅力的にしていた。
紫は後に、あのときは亮二の言うことを聞くべきだと直感が働いた、と言った。そして、初めて逢ったあの日に、たぶん亮二に恋をしたのだと打ち明けた。
亮二はすぐに、「スターゲートミュージック」の渡辺に店内の公衆電話から連絡をした。
「なべちゃん。すげえよ。ダイアモンドの原石を拾っちゃったよ。三十分以内に来られるならおたくに預けるけど、どうする? この子はマジ、金の卵だよ」
なべちゃんは三十分以内で来ると言って電話を切り、二十五分後に大きな身体を揺らしながら汗だくになって現れた。
なべちゃんもひとめ見て紫に惚れ込んだ。何万人に一人いるかいないかの逸材を前に興奮していた。十七歳の紫は荒削りだけれども、言葉どおりきらきらと光り輝く可能性を秘めたダイヤの原石だった――