第十九話 スカウト - 1993年、新宿 -
亮二の机の上が綺麗に片付いたときには夕方になっていた。
スペースが空いた机に、紫と優希の写真を桜花堂のファイルからだして並べた。黒目がちな丸く大きな瞳にふっくらとした形の良い唇。言われてみればふたりの顔立ちは似ている。だが、それ以上に優希は亜紀に生き写しだった。姿、形だけでなく、コロコロと表情が変わるところや好奇心旺盛な目の輝きまで、優希のすべてが亜紀にそっくりだ。
ふっと、そのとき妙な考えが頭をよぎった。亜紀の娘は二十三、四になるはずだ。優希もそれくらいの年に見える。亮二はすました顔で微笑んでいる優希の写真を手に取った。優希の笑顔を見ていると、忘れていた亜紀との想い出がぽつりぽつりと甦る。このまえ電話で聞いた亜紀の声が亮二の心に木霊して、噴水で見かけた亜紀に似た人影が脳裏に浮かんだ。
亜紀、君は幸せなのか?
亮二は優希の写真に問いかけた。
急速に亜紀への思いが込み上げて逢いたくて堪らなくなる。もう少しで逢えたという思いが後悔となって、もう一度、過去に行きたいという欲求に変わった。
亮二が漢方を紙袋から出すと、机の上に同じプラスチックの容器が三つ並んだ。それぞれにラベルがはってあり、タイムスリップする漢方のラベルには何も書いていない。中身はどれも同じ大きさの黒い丸薬だ。それらを少しのあいだ眺めて、何も書いてないラベルに「特効薬」と書いた。大きく一回溜め息をつくと、亮二は「特効薬」に手をのばす。
過去にいるあいだは時間が進まないけれど、意識が途絶えて薬が効くまでの時間と目醒めるまでの時間は進む。この時間は多少は長くなることもあると、シン先生が言っていた。薬を飲むならば誰の目にもふれない場所がいい。亮二は水を持ってトイレの個室にはいるとふたの上に腰をかけた。漢方を三粒手にだして水と一緒に飲みほす。亜紀に逢いたいと、強く願った。すると、すぐに亮二は強烈な眠気に襲われた。
* * *
亮二は古ぼけたビルの緑茶色した絨毯が敷かれた階段に立っていた。
見覚えがあるのにどこだか思いだせない。階段を降りて外に出てみると、そこはよく打ち合わせに利用していた「談話室すいれん」だった。
「すいれん」は新宿中央東口近くの古いレンガのビルの二階に、三百五十席という広々とした空間を持っていた。低い曇りガラスの仕切りのおかげで話がしやすく、談話室と呼ぶだけあって長くいてもかまわないのでマスコミ関係者のたまり場となっていたが、平成十七年に閉店していた。
いつの時代に来たのかヒントを探していると、亮二の前を亜紀に良く似た少女が通った。柔らかな栗毛色のロングヘアだったので明らかに亜紀ではないのに、亮二はつい声をかけてしまった。振り向いた少女を見て驚いた。
「君、雑誌のモデルをやってるよね?」亮二は思いがけない相手を前にあたふたして言った。「広告を作ってるんだけど、その……ちょっと、話を訊かせてもらっていいかな」
少女の大きな瞳に吸い込まれそうになり、亮二は気づくと少女を誘って緑茶色の階段を上がっていた。
少女と一緒に「すいれん」にはいると、音楽の代わりに滝や小川を感じさせるせせらぎの音が聞こえる。古き良き昭和の香りが漂う店内が懐かしかった。
ふたりは絨毯と同じ、緑茶色したソファーに向い合って座った。
「白鳥紫といいます。モデルを始めたばかりです」少女が名乗る。
短い丈のグレーのサマーセーターにタイトのロングスカートを着た紫は、年のわりには落ちついて見えた。印象的な大きな瞳が亜紀を思いださせる。高校生向きの雑誌モデルをしている紫のほうが、亜紀より少し美人だった。
亮二は適当な会社名と名前を告げた。なりゆきで紫を誘ってしまったものの、何を話したらよいかわからない。
冷静になると、うっすらと記憶が甦ってきた。このころの紫に逢ったことがある。あれはいつだったんだろう? 紫がモデルを始めたばかりなら九十三年か。亮二は紫の年から逆算した。髪が長いからきっとそうだ。紫が髪を切ったのはCMが決まったからだったように思う。
きちんと髪をまとめて秘書のようなスーツをきたウエートレスが「ご注文は」と訊くと、「ホットミルクを」と紫が答えた。
「お決まりですか?」
ウエートレスがぼうっとしている亮二に訊く。
「えっ」亮二は我に返った。「俺も、ホットミルク」
ウエートレスが席を離れると、「ちょっと考え事をしていて」と亮二は言い訳するように言った。ずっと黙っていた亮二を前にして、紫が困っているのがわかったので、亮二は話題を探す。
「雑誌以外にも、何かにでてるの?」と訊ねると、紫は「いいえ」と首を振ってから、少し間をあけて「色んなことに挑戦したいと思ってます」と付け加えた。
ウエートレスがホットミルクを二つ運んできてふたりの前に置いた。ホットと言うつもりが間違えてホットミルクを頼んだことに、亮二はそのときになってようやく気づいた。
「まいったな、ホットを頼んだつもりだったのに、ホット、馬鹿だな」
仕方なく亮二がめったに飲まない牛乳を口にして、苦し紛れにダジャレを言うと、紫がクスクスっと笑った。
無邪気に紫が笑うのを見て愛らしいと素直に思えた。昔、この子を好きになったのもわかる気がする。しかし、目の前の純真な少女が紫だと思うと、普段、女の子と口を利くように気軽には話せない。会話が弾まず息が詰まった。
この場を逃げだす適当な理由を探していると、急に腹がグルグル鳴って下っ腹が痛くなった。亮二は「ちょっと失礼」と断って席を立ち、やっぱり来たかと思いながらトイレへ急いだ。牛乳を飲むといつもこうだ。トイレのドアをあけたところで激しいめまいと耳鳴りに襲われ、その場に這いつくばった。耳鳴りがだんだんと大きくなってくる。そのまま床に倒れ込むと亮二の身体は現代へと移動した。
* * *
なかなかもどって来ない亮二を心配して、紫はホテルのフロントのようなレジに行き、髪を七、三に分けた男の店員を呼んだ。
「一緒にいた男性がトイレにはいって二十分くらい経つんです。具合が悪そうだったので見て来てもらえませんか」
店員はわかりましたと答えてレジの奥にあるトイレに行った。
「この方じゃ、ありませんよね?」
店員は若い男と一緒にトイレから出て来て、レジにいる紫に訊いた。
「いえ、もっと年上のひとです」
紫が男を見て首を振った。男は若いころの亮二だった。
「私もその男性を覚えているんですけど、トイレには他にどなたもいらっしゃいません」
店員は不思議そうに首をかしげた。すいれんでは入口で必ず客を出迎えて、見送るからだ。
「では、お会計をしてください」
困った顔で紫が言うと、若いころの亮二が口を挟んだ。
「僕がそのひとの分もお支払いします」
亮二は作ったばかりの名詞を紫に渡して「新製品のキャンペーンのためにフレッシュな新人を探していたんだ。君はイメージにぴったりなんだよ」と告げると、自分が座っていた席に紫を連れて行った。亮二はそのころ、プロデューサーとして初めて手がける清涼飲料水のCM制作に意欲的に取り組んでいた。
「高校生?」
緊張をしている紫に、亮二は軽い調子で話しかけた。
「高校はやめました。十七歳です」
「十歳も下か、俺も年を食っちまったな。二十七歳ってさ、君から見たらおじさん?」
「いえ、そんな」紫は首を振った。「ちょっと年の離れたお兄さん……かな」
「そういうのを世間じゃ、おじさんって言うんじゃん? ちぇっ、やっぱ、おじさんか」
亮二は左手を額にあてて笑った。つられて紫も笑う。
「笑ったほうが可愛いよ」
そう言って亮二が顔をのぞき込むと、紫は頬を赤くしてうつむいた。
仕事の話を始めると、紫は顔をあげて大きな瞳で亮二を見つめた。
瞬きが少ないところが亜紀に似ている。深く澄んだ瞳に亮二は見とれた。
「緊張しないでいいよ。楽にして」
紫に言ったようでいて亮二は自分に言いきかせる。
モデルは見慣れているのに、十歳も年下の少女を前にして亮二の心はときめいた。
「何か頼みなよ」
亮二はそんな気持を隠すように、メニューを開いて紫に見せた。
「私は紅茶で」
「紅茶だけでいいの? 遠慮してない? ケーキセットがお勧めだよ。ここ変な店でさ、ドリンクもケーキもアイスクリームも全部、千円。でもね、二つセットにすると千百円で、三つセットにすると千ニ百円なの。セットのほうがスッゲー得なんだぜ」
亮二に勧められて、紫もケーキセットを頼む。
注文を終えると、亮二は赤いマルボロの箱から煙草をだして百円ライターで火をつけた。
「君の髪、とても綺麗だね。ほめられるでしょ」
紫は何も言わずに嬉しそうに微笑んだ。
「その髪型、君にすっごく似合ってるんだけど、そこを敢えてバッサリって、ダメかな? 君はショートだと思うんだよね。長いとさ、ありふれちゃうんだよ」
紫の表情が暗くなった。長い髪を指でつまんで毛先を見つめる。
「君みたいな女の子っぽい顔立ちの子って、だいたい髪が長いんだよ。ロングでもそこそこいけると思うけどさ、そういう子は替えがきくっていうか。ショートだったら、君にしかない魅力が引き立つと思うんだ」
嘘ではなかった。確かに亜紀の面影をこの少女に重ねて、ショートカットの亜紀に近づけたいと考えたのかもしれないけれど、この子はショートにしたらとてつもなく化けると、亮二の勘が囁いた。
「ショートですか。子供のころからずっと長かったから、どうかな?」
紫があまり気乗りがしていないのが、見てとれた。
「だよねえ、会って間もない男にいきなりそんなこと言われてもね。俺、実績がないしな」
紫はそんなことないと、手を顔の前で左右に振って、考えさせて欲しいと言った。
* * *
現代にもどされた亮二は会社のトイレで目を覚ました。予期せぬ時代に飛んで面食らっていた。
紫には悪いが、あの場を抜け出せてほっとした。現代に帰されたということは、牛乳でアレルギーがでたのだろう。子供のころから牛乳を飲むと必ず下痢をしたが、アレルギーが原因だったとわかってなんだがすっきりした。腹痛はすっかり治まっていた。
素朴なころの紫に逢って、若いころを思いだした。モデルをしていたくらいだから、紫はもともと勝ち気だったのだろう。だが、このころの紫は控えめで亜紀とは対照的だった。
それでも紫のまっすぐな瞳を思いだすと心が温かくなって、亮二は即座に亜紀を連想した。顔立ちよりも第一印象が似ているのだ。雰囲気というか、ふたりが発するエネルギーのようなものが似ている。彼女たちがいるところだけ陽があたっているような、暖かいオーラをふたりに感じた。亮二は紫と亜紀が似ていたことを、ここにきて認めざる得なかった。
前回のトリップに比べてトラベルしていた時間が短かったのでまだ充分に体力が残っている。こんどこそ亜紀のもとへ行けるようにと願って、亮二は再び特効薬を飲んだ。