第十七話 スキャンダル
駐車場にもどると、真っ赤なマセラティのスポーツカーが軽快なエンジン音をたて滑り込んできた。スタイリッシュで、イタリア車ならではの流れるような美しいボディを持つグラントゥーリズモ。フェラーリのエンジンを搭載したツードアクーペーだ。
車は亮二の目の前で止まると左の窓があいて、胸元が大きく開いたショッキングピンクのブラウスを着た紫が顔をだした。紫は白い大きめなフレームにシャネルのロゴがはいった派手なサングラスをしている。
「乗って、早く」
紫にせかされて、亮二は記者がいないか駐車場を見渡しながら、しぶしぶ車に乗り込んだ。
「少し走るわよ」
「嫌だって言ったって、おまえはどうせ聞かねえだろ」
「昔の旦那様はものわかりが良くていいわ」
紫が口元に笑みを浮かべてアクセルを踏むと、大きくカールした栗色の長い髪が揺れた。
亮二は人目をひく紫のファッションを見て、溜め息をつく。
「この車どうしたんだ?」
「まえの男がくれたのよ。マセラティのエンジン音が、一番女を興奮させるんですって。亮ちゃん、知ってた?」
「そんなことは聞いてねえ。真っ赤なスポーツカーにゴージャスな髪と派手なサングラス。おまえに気づかないやつは、よほどのぼんくらだ。撮ってくれって、言ってるようなもんだろ」
紫は珍しく黙って亮二の話を聞いている。
「それで何だよ。大切な話って」
「ちょっと言いづらくなっちゃったな」
「わざわざ来たんだ。早く言えよ」
紫は少し間をあけてから、亮二の顔色をうかがうように甘えた声をだした。
「撮られちゃったの。ごめんね」
「またかよ」亮二は身体から力がぬけて左手で顔をおおった。「どんな記事だ」
イライラしてマルボロライトの箱を上着の内ポケットから取りだす。
「恋多き女、白鳥ゆかり。恋人発覚! お相手は六歳年下の若手脚本家って感じかな?」
「ちぇっ」亮二は舌打ちした。「それで写真は?」
亮二は箱から煙草を一本取りだしてくわえる。
「愛車で熱烈なラブシーン」
それを聞いて亮二はしばらく言葉を失った。煙草をくわえたま火をつけようとした手を止めて、呆れた顔で紫を見る。
「キスだけか?」
亮二が煙草に火をつけて訊くと、紫が助手席の窓を少しだけあけた。
「あたりまえでしょ。車のなかよ。私を誰だと思ってるのよ」
「撮られておいて偉そうに言うな。こんな目立つ車で、馬鹿かおまえは」
亮二の脳は即座に代理店とスポンサーへの対策を考え始めた。記事が出てからでは遅い。
「事務所は何て言ってる? だいたい何でいつもおまえが直接、俺に連絡してくんだよ? 普通はマネージャが代理店と話すことだろ」
「元亭主なんだもの。水臭いじゃない。マネージャーも直接話せって言うし」
「事務所に抗議してやる。管理不行き届きだ」
「そんなことしても、起きちゃったもんはしょうがないでしょ」
少しも悪びれない紫のあっけらかんとした態度を見て、亮二はあくせくしている自分が馬鹿らしくなった。
「そいつとは、その……」亮二は言葉を詰まらせると窓に視線を移した。「本気なのか?」
「失礼ね。あなたと一緒にしないで。私はいつも本気よ。遊びだと思ったことはないわ」
「それで、どうするつもりだ」
「正々堂々としたいけど。スポンサー次第ね」
「この時期、まずいよ。タイアップの話は聞いてるんだろ?」
「ええ。だけど、もう私もいい年よ。バツイチだし。いまさらこんな写真の一枚や二枚……」
「馬鹿やろう!」亮二は紫の話を最後まで聞かずに大きな声をだした。「幾つになったってイメージは大切なんだよ。化粧品メーカーがお堅いことぐらい、おまえだってわかっているだろう」
「清純派で売っていた年端もいかないアイドルに手をだした人がよく言うわよ」
「おまえな……」
亮二は怒鳴りそうになるのを必死に堪えて煙草を携帯灰皿で揉みくちゃにして消すと、外を見て大きな溜め息をついた。「おまえは俺を怒らせる天才だな」
亮二は黙ってすぐにまた煙草を取りだすとデュポンで火をつける。最後の一本だった。
紫は亮二が黙っているときは、放っておいたほうがいいことを知っている。しばらく車を走らせて広い通りから一本はいった人通りの少ない道に車を止めた。
「ごめんなさい、迷惑をかけて。悪いと思っているのよ」
紫はいつになく真面目に言った。
亮二は口を開くとまた怒鳴ってしまいそうで、顔を背けて外をじっと眺めている。
「タレントだって人間だってこと、あなたはわかってくれていると思っていたけど?」
そういうと紫は黙った。窓の外で車の走る音が一定のリズムを刻んでいる。重苦しい空気がふたりの間を行き来した。
「わかってやりたいけど……」亮二は気を静めて口を開いた。「君は回数が多すぎる」
紫は顔を少しだけ亮二のほうに向けた。サングラスの奥の憂いを帯びた大きな瞳が亮二を睨みつける。
「個人的な感情でどうこう言っているわけじゃない。前回の騒動のときも、桜花堂は君を降ろすかどうかで揉めたんだ。今回は新しいブランドの立ち上げの企画もある。これを機にタレントを一新ってことになりかねない。そうなりゃ、ドラマの話も飛ぶぞ」
「それは困るわ。あなたと離婚してから死に物狂いでここまで来たのよ」
「初耳だな」
「何もできなかったアイドルが再デビューして、もう一度注目を浴びることがどれだけ大変か、考えたらわかるでしょ」
亮二はそう言われて初めて紫の身になって考えた。確かにそのとおりだ。そんなに甘い世界じゃない。いつだって紫はチャラチャラして人を振り回し、苦労なんて、おくびにもださずに運だけで生きているような顔をして笑っていた。亮二は敢えて紫の苦労や苦しみを見ないようにしていたのかもしれない。
運転席に座っている紫の頼りなげな横顔を見て、知り合ったばかりのころ、紫は自分の前ではいつもこういう表情をしていたことをおぼろげに思いだした。
「亮ちゃんにしか頼めないの」
サングラスをはずして紫は亮二をじっと見つめた。
一度、その瞳につかまってしまうと、誰も目をそらせない。目の奥にある揺れる光に吸い込まれて身動きがとれなくなる。それは別れて十年経ったいまでも同じだ。紫が年と経験を重ねた分、その瞳は妖艶な輝きを増して見つめられると背筋に電気が走る感じがする。亮二はこういう瞳を持った女を、遠い昔にもうひとり知っていた。
紫が瞬きして魔法が解けたように瞳の呪縛から解き放された。
「スキャンダルを利用するように上を説得して欲しいの」
「おまえはいつも難しい注文をするな」
「それしか生き残る道はないもの。記事は来週でることが決まっているわ。それを逆手に取るしかないじゃない。桜花堂が契約を破棄したら、他の企業もそれに続くわ」
「脚本はもうできてるのか?」
「まだじゃないかな。不治の病気の妹を献身的に看病する姉の役ですって」
「そんな真っ白な役じゃダメだな。逆手に取るなら悪女っぽくねえと。自分を犠牲にして生きる天使のような妹と男を手玉にとってのしあがっていく姉の話とか、なんかあんだろ」
「まだ、内容は変えられるんじゃないかな」
「演技が下手だと、チープな昼メロになっちまうぞ」
「大丈夫、なんとかするわ」
「おまえ、絶対脱ぐなよ。映画や写真集でもだめだぞ。それだけは約束しろ」
「わかってるわよ」紫はうるさそうに答えて、急に真剣な顔で亮二に頭を下げた。「ありがとう。亮ちゃんなら何とかしてくれるって思ってたわ」
「代理店もスポンサーも説得できるかわからないぞ。広告の企画を変えなきゃならなくなったらおおごとだ。企画をひっくり返すのは並大抵のことじゃないからな。おまえを降ろすという結論になるほうが普通だ。覚悟しとけよ」
「わかってる」
紫が降板すれば、ほぼ準備が終わっているプロジェクトを一からやり直すことになるが、賠償金もある程度は支払われるだろうし、亮二に責任はない。むしろ、紫と関わらないでよくなる分楽になる。降ろさないように説得する義理もない。だが、紫に頭を下げられると、亮二は何とかしてやりたくなった。一度は一生を共にしようと決意した相手だ。こんな風に頼りにされると、切り捨てるのは気が咎めた。
この調子でいつも亮二はめんどうだと言いながらも、つい紫に救いの手をさしのべてしまう。
「記事がでる前に記者会見をしたほうがいいかしら?」紫が一瞬ためらって、一息ついてから言った。「再婚も考えているの」
「真剣なら、そのほうがスポンサーも納得するだろうな。代理店と相談するよ」
「亮ちゃんにはひどい目に遭わされたけど感謝してるわ。ちゃんと叱ってくれるのは亮ちゃんだけだもの」
「ひどい目に遭ったのは俺のほうだろ」
紫は何か言いたげな顔を亮二にむける。
「妹役に内定している子の資料を見たわ。確かに、少し私に似ているわね」
「似てるか? おまえみたいな女はひとりでたくさんだ」
「私もみんなが言うほど似ているとは思わないわ。もっと、私よりも似ているひとがいるもの。あなたもそう思っているんでしょ?」
紫は含みのある言い方をして、亮二の目を見つめた。
「何のことだ?」
紫が何を言おうとしているのか察しがついた。
「とぼけなくていいわ。あなたがずっと想い続けている女に、優希って子はそっくりだわ」
「何のことを言っているかわからねえけど、俺の昔の女のことを言ってるのだとしたら、おまえの大きな勘違いだ。あんなガキのころの恋愛なんてとっくに忘れちまってる」
「あなたが気づいてないだけよ。あの子はあの女に生き写しだし、昔の私もあの女によく似ていたわ」
紫は感情が高まって声が震えている。視線を亮二から外して顔を背けた。
「おまえと似ているって? だいたい、おまえはあいつを知らないだろ」
紫に亜紀の話をしたことはない。いきなり亜紀のことを持ちだされて亮二は困惑した。
紫は睨みつけるように亮二に顔を向けて何かを言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。
「もういいわ。いまさら言うことじゃないし」
紫は窓に向かって涙が溢れないように顔をあげ、指でさっと拭うとサングラスをかけた。
亮二は長いこと見ていなかった紫の涙を見て動揺し、言葉を失う。
紫はサイドブレーキを降ろしてアクセルを踏んだ。片手でハンドルを持ち、反対の腕をドアにそえて親指を噛んだ。親指が微かに震えている。気持ちが高ぶったときの紫の癖だ。
「おまえは何か勘違いしているよ」
「亮ちゃんのこと本当に愛していたのよ」
「俺にはおまえって女が未だにわからないよ」
「亮ちゃんがわからないのは私じゃないわ。あなた自身のことよ。それがわからないと誰とも生きていけないわよ」
「もう、結婚する気はねえよ」
「賢明ね」
車内に再び静寂が訪れる。亮二はデュポンを手に取ると煙草を切らしたことを思いだした。仕方なくデュポンのキャップをあける。「キーン」という冷たい音が車内に響いた。
マセラティは軽やかな唸り声をあげて滑らかな走りを見せた。エンジン音とデュポンの音色がぎくしゃくしつつも調和して、不思議なハーモニーを奏でている。
紫と歩んだ時間があっという間に過ぎ去ったように、窓の外の景色が猛スピードで流れていく。しばらくして、車は亮二の会社の前で止まった。
「白鳥ゆかり、復縁か? なんて記事がでると困るから、さっさと降りてよ」
紫は端正な顔に微笑をうかべて顎で指図した。いつもの紫だった。
「おまえ、その性格を直せよ。タレントは人間かもしれねえけど、おまえは悪魔だ。そんなんじゃ、嫁に行けねえぞ」
亮二はそう言いながら車を降りると勢いよくドアを閉めた。
亜紀のことを自分が慕い続けていると、紫は思い込んでいるが、誤解もいいところだ。最近まで亜紀の存在すらすっかり忘れ果てていたと、亮二は鼻で笑った。紫がそんな風に思っていたことを初めて知った。
出逢ったころの紫はあんな派手な性格ではなかった。それがある日突然、髪を真っ赤にして帰ってきた。あのころから紫は変わった。だが亮二は、紫に何があったのか考えようともしなかった。亮二は離婚する前から紫を見ようとも知ろうともせずに避けていたことにやっと気づいて、少し後ろめたく思いながら代理店の担当者に電話をいれた。