第十六話 腐れ縁
日本に帰ると、浮き立つような春のときめきは桜や色彩豊かな花々とともに姿を消し、かわりに若々しい木々が緑色に輝いていた。眩しいほどにキラキラと輝く陽射しは、初夏の兆しをもう感じさせている。
亮二が時差ぼけの身体をひきずって出社すると、机の上に書類が山積みになっていた。
「これさあ」亮二は机の上を指さして、真っ赤な目でパソコンに向かっている川崎に声をかけた。「俺、いっきに萎えちゃうんですけど」
「お帰りなさい。僕もニューヨークに行きたかったですよ。それ、今日中に目を通してハンコを押しといてくださいね」
川崎は亮二を横目でチラっと睨んで事務的に答えた。
「これ全部って……。ちょっとは休ませてよ。川崎ちゃん」
「なにを甘えたことを言ってるんですか。オフィスを空けていたぶん、今日は働いてもらわないと」
「そう目くじら立ててガミガミ言うなよ。おまえ、新婚時代が過ぎた嫁さんみたいだぞ」
亮二はジャケットを脱いで椅子の背にかけると、机の上の書類をパラパラっとめくった。
「白鳥ゆかりの化粧品のキャンペーンですが、ドラマとタイアップって話が出ています」
川崎はキーボードをたたく手を止めると、引き出しからファイルをだして亮二に渡した。
「ドラマ?」
「きのう、桜花堂が協賛している夏期のドラマがとんで、急に枠が空いてでた話です」
「紫が主演のドラマか?」
「はい。先月から準備を進めている若い世代をターゲットにした新ブランドも絡めようという動きがあって、そのキャンペーンガールも妹役でドラマに出演させたいようなんです。そうなると、そっちのキャンペーンも早まることになるでしょうね。CMはゆかりのCMと連動して、同時進行にしたいって言われています」
「これからじゃ、ばたばたじゃねえか」
「だから休んでいる暇なんてありませんよ。代理店にさっそく電話をいれてください」
「新ブランドの進行状況は?」
「キャスティングは数日以内に終わると思います。"ボナペティート"のオーディションのときに池下さんが気に入っていた子が最終オーディションに残っていますよ」
「ボナペティートの?」優希のくしゃくしゃな笑顔が脳裏に浮かんだ。「瀬名優希か?」
「確かに彼女、雰囲気がどことなく白鳥ゆかりに似てますね」
川崎はファイルから、優希の資料を取りだした。
「似てねえよ。あんな性悪女に似ていてたまるか」
「池下さんは私情がはいってますからね」川崎が冷やかすような眼差しを向けてにやにやして言う。「女の好みって変わらないものですね。あの子、アイドルだったころの白鳥ゆかりによく似てますよ。髪が短かったらもっと似ているでしょうね」
「そうか? 俺にはちっともわかんねぇよ」
紫と優希が似ているって? 優希は亜紀にそっくりだ。亮二は心のなかで答えた。
「ドラマとタイアップか」亮二は椅子に座ったまま両手を頭の後ろで組んで、反るように伸びをしながら言った。「気が乗らねえなあ。新しいブランド、俺がやらないとダメ?」
「大きな身体でダダをこねないでくださいよ」
「だってさ、桜花堂の仕事って、なんやかんやと現場に呼びだされることが多いだろ」
「それは、白鳥ゆかりが『亮ちゃんじゃなきゃ、ダメっ』って言うからじゃないですか」
川崎が紫の声色をまねて言った。
「何だってあいつは、そんな嫌がらせをするんだ」
「知りませんよ、本人に聞いて下さい。よっぽど愛されているか、憎まれているかのどっちかですね」
「離婚してから何年経っていると思ってるんだ。もう十年だぞ」
そのとき電話が鳴って、川崎の後ろの席に座っている斎藤が受話器を取った。
「池下さん、電話です」
「誰だ」
「それが白鳥ゆかり……」
「紫のマネージャーか?」
「いえ、白鳥ゆかり本人です」
それを聞いて、亮二の顔が歪んだ。
「あのやろう、よくものうのうと会社に電話なんかしやがって。あっちで出る」
亮二は会議室にはいってドアを強く閉めた。歩き方で機嫌が悪いのがわかる。
「池下さん、オーディションに来たあの子にご執心だったじゃないですか。この話を聞いたら喜ぶと思ったのに」
電話を取り次いだ斎藤が上半身だけ川崎のほうに向けて話しかけた。
「ご執心だから気が乗らないんだろ。池下さんは白鳥ゆかりと離婚してから女優やアイドルを毛嫌いしているし、気に入っている女が前の嫁さんと一緒に仕事するのは嫌だろ」
「そんなもんですかね」と言って、斎藤は首をすくめた。
紫からの電話なんて、どうせろくなことはない。亮二はトラブルの予感がして電話にでるのをためらった。点滅しているランプが早く出ろとせかす。亮二は立ったまま受話器を取った。
「亮ちゃん。ひさしぶりね。元気?」
受話器から紫の気だるい声が聞こえた。
「何がひさしぶりだ、二週間前に会っただろうが」
「そうだったっけ? 忙しくて忘れちゃったわ」
おまえのトラブルで呼びだされたんだろ、と怒鳴りそうになるのを亮二は我慢する。
「何で会社にかけてくるんだ。携帯にかけろよ」
「だって、携帯にかけたら出てくれないでしょ」
「あたりまえだ。おまえが電話をかけてきてろくなことはないからな。で、用件は何だ」
「怒らないでね」
紫が媚びるような甘ったるい声をだした。
昔はこの声で甘えられると何でも許してしまったことを思いだして、亮二はむかついた。
「用件を言わないんだったら切るぞ」
「切ってもいいけど、亮ちゃんが困ると思うな」
「だったら、さっさと言えよ。おまえと遊んでいる暇はないんだ」
「すぐ近くにいるの。出てきて」
「無理をいうなよ」
「五分後に会社の地下駐車場に迎えに行くわ。あなたにとっても大事なことよ」
「おい、ちょっと待て」
電話は紫によって一方的に切られた。
亮二は舌打ちして、投げるように受話器を電話に置いた。いつからあんな横柄な女になったんだ。出逢った当初は素直でおとなしい田舎娘だったのにと、溜め息をつく。
会議室を出て席にもどった亮二は、椅子の背にかけてあったジャケットを乱暴に取ると、それを羽織って廊下へ向かった。
「またお姫さまのお相手ですか。王様も大変だ。それで、おもどりは?」
まだ話があると言いたげな顔で川崎が皮肉を言う。
「すぐにもどる。あんな女と何時間も一緒にいられるか!」
亮二は怒鳴って答えると、制作ルームをあとにした。
ちくしょう。あいつはいつも俺にめんどうをしょいこませやがって。
亮二はエレベーターを呼ぶためのボタンを乱暴に押し続けた。
なぜ、あの女を理想の女性だと感じたのだろう。昔のことを考えると腹立たしくなる。結婚前はあんなに紫が大切で独占したかったのに、結果はこれだ。恋なんてものはあてにならない。いまとなっては、紫を愛していたころの気持ちをまるで思いだせない。
チンと到着を知らせるエレベーターの音が鳴り、ドアが開いた。誰もいないので亮二はホッとする。感情を抑えきれないときにはなるべく人に会いたくない。エレベーターに乗って地下一階のボタンを押すと、扉の上の到着階数を表示するランプを見つめた。
別れてからはお互い別の人生を歩んでいた。亮二はすぐに再婚して、紫は「白鳥ゆかり」の名で芸能界に復帰した。ふたりの人生を比べると、紫のほうが少しだけラッキーだった。亮二は一年でまた離婚したが、紫は離婚を機に清純派のイメージを一新し、妖艶な色気を武器に芸能界に返り咲いた。そして、亮二が手がけている桜花堂のキャンペーンガールに紫が起用されたのが三年前だ。それ以来、亮二は紫と顔を合わせなければならなくなった。
エレベーターがガタンと揺れて地下に着いた。駐車場に紫の車は見当たらない。亮二はかっかしてのどが渇いたので缶コーヒーを買おうとエレベーターホールにもどった。財布をあけると小銭がない。仕方なく千円札を自動販売機に入れる。すべての不運の原因が紫のように思えてくる。いがみあって別れた女と仕事をせざる得ない腐れ縁に、亮二は天を呪いたくなった。