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第十三話  不思議な漢方薬

 マンハッタンは昔に比べると街が整備されて安全になっていた。

 ニューヨークを象徴する摩天楼は、ワールドトレードセンターというシンボルを無くして少し物足りなさを感じさせるが、車やサイレンの音で街は相変わらず騒がしく、街中にエネルギーが溢れて息づいている。世界中から集まった人たちの壮絶なパワーから生まれた強烈なエネルギーが、街のなかでうごめき美しいマンハッタンを妖しく輝かせる。音楽、芸術、ファッションにおいて、この地ほどインスピレーションを感じさせてくれる街は他にない。


 亮二もマンハッタンのエネルギーに刺激されて身体中に活力がみなぎり、ひさびさに自分が心地よい興奮状態にあるのを感じていた。ここ数日、女のことで頻繁に心を揺さぶられた亮二は、女々しい自分に嫌気がさしている。異性に対して心が乱されるのは離婚のとき以来だ。期待と不安の波が交互に押しよせて、感情を処理しきれずに持て余している。そんな自分にうんざりしていた。それが一歩、マンハッタンに足を踏みいれただけで気分が変わった。この地を訪れたことによって、くすぶっていた魂が洗われたような気がする。


 撮影は大きな問題もなく予定どおりに終了して、コーディネーターのマイクに紹介されたチャイナタウンの漢方医を、亮二はこれから訪ねることにした。

 マイクの地図を片手に、ひとりでぶらぶらとイーストヴィレッジからブロードウエイを下ってソーホーまで歩いた。ソーホーもかなり変わっていた。前に亮二がニューヨークに来たときは、ソーホーは既にお洒落なエリアとして注目されていたけれども、まだ多くのギャラリーが残っていたし、個性的なショップも多かった。しかし、家賃の高騰からアーティストたちはソーホーを出て、いまはモールにあるような量販店ばかりが目立つ。亮二は昔のニューヨークのほうが味があって好きだった。


 そのままブロードウエイをキャナルストリートまで下ると、漢字が増えてきて雰囲気がぐっと変わった。キャナルストリートを左に曲がって進むと、もうチャイナタウンだ。

 どこかで見たデザインのバッグや小物が、店の前でおおっぴらに売られている景色は、昔と少しも変わらない。亮二は人の波を泳いで、チャイナタウンで一番賑わっているモットストリートにでた。この街でこんなに人が多いところはチャイナタウンだけだ。


 モットストリートからは地図を見て、同じような路地をなんども曲がった。昔はどこからでもワールドトレードセンターが見えて目印になっていた。ランドマークがなくなって、いまはどこにいるのか、すぐにわからなくなる。マイクの地図がわかりやすかったので、それでも迷わず目的地に辿り着くことができた。


 通りには同じような古い石造りの建物がずらっと並んでいて、クリニックは通りの角から二軒目の五階建てビルの一階にあった。入り口に「シン・アキュパンクチュア&ハーブ」と英語で看板が出ている。壁の黒いボタンを押すとブザーが鳴ってカチッと鍵があく音がする。亮二は様子をうかがいながら恐る恐るなかにはいった。


「どうぞ、はいって」

 少し早口のたどたどしい日本語が聞こえた。アジア人にしては背が高い五十歳くらいの男が奥の部屋に立っている。 

 部屋は薄暗く、陰干しにした鹿の袋角や、アンモナイトのように見える暗紫色の乾燥させたマンネンタケの傘など、グロテスクな見ための生薬が透明のビンにはいって棚に並んでいる。壁一面に、患者から送られた感謝の手紙や写真が重なりあって貼ってあった。


「はい、こっち、来て」

 アクセントのある日本語で男に呼ばれた。

 亮二は言われたとおりに奥の部屋へ向かう。その男がシン先生のようだ。

 部屋の妖しい雰囲気とは反して、シン先生はにこやかな顔で亮二に近づいた。中国人にしては珍しく表情が豊かだ。よくよく話を聞くと台湾人だそうだ。前髪がまっすぐ眉の上で揃えられていて、そのカツラのようなヘアスタイルが亮二にはおかしくて堪らない。

 先生は亮二に椅子を勧めて自分も机の前に座った。

 アレルギーを治したいと言うと、シン先生はいくつか亮二に質問する。

「あなた、お酒、飲みますか?」

「はい」と言って亮二はうなずく。

「お酒、よくない。煙草はもっとダメ。あなた、煙草吸う?」

「まあ……」さっきより小さな声で亮二は返事をした。

「お酒、煙草、身体悪くなる。薬、効かない」

 シン先生が呆れた顔をして怒った口調になったので、亮二はここに来たことを後悔した。怒られても、酒と煙草はやめられない。


 先生はアレルギーの症状について亮二に詳しく訊くと、何か中国語で書いていた。次に亮二の舌を見て診察台に横たわるように言い、腹を触ってから優しく笑いかけた。

「あなた、お酒と煙草やめる。大丈夫、シン先生は神様。治る、治る」

 先生が薬を用意するために席を立ったので、亮二は診察台から降りた。

 手紙と写真が待合室の壁と同じようにはってある。それらを端から見ていくと、手紙に埋もれていた不思議な写真を見つけた。


 それはブルックリン側からマンハッタンをバックに撮影した色あせた写真だった。いまよりも少しだけ若いシン先生の後ろに、ブルックリン橋と摩天楼が写っている。アールデコの装飾が素晴らしいクライスラービルが空高くそびえているのに、ニューヨークのシンボルであるエンパイヤーステートビルが建設中で完成していない。

 ワールドトレードセンターもないし、高層ビルの数も圧倒的に少ない。このシン先生のそっくりさんが、先生の祖父なのかもしれないとも亮二は考えたが、それもあり得ない。なぜなら、この写真はカラー写真なのだ。こんな写真はあるはずがない。考えられるのは合成だ。でも、この変哲もない写真を合成するだろうか?


「先生、この写真って合成ですか?」

 漢方を持ってもどってきたシン先生に亮二が質問すると、先生は考え込むような顔をして写真を壁からはがした。

「クライスラーが完成していてエンパイヤーが建設中だと、一九三〇年くらいのはずだが、その時代にカラー写真ってあり得ないよな?」

「この写真を見つけたの、あなた、初めてよ」シン先生は怪しい微笑みを浮かべた。

「写真の秘密、あなた、知りたい?」

 亮二はシン先生の意味ありげなものの言い方に戸惑った。

「タイムスリップ、あなた、信じる?」

「未来に行ったり過去に行ったりする、あれか?」

 亮二は先生の意外な言葉に眉をひそめる。

「そう。未来、行けないけど、過去はいける。あなた、行きたい? アレルギーがいっぱいある人、ラッキーね。タイムトラベルむいてる」

 まさか、そんなことがあるわけないと笑ったが、そのとき頭に亜紀の顔がよぎった。もし本当なら、亜紀に逢えるかも知れない。

 そう思ったら勝手に口が動いた。

「本当に過去に行けるのか? どうやって行くんだ?」

「やってみる?」と言って、シン先生はいたずらっ子のようにニヤっと笑う。

 亮二が不安気に小さくうなずくと、先生は引き出しから漢方薬のはいった容器を取り出し亮二に渡した。容器を傾けると直径八ミリ程の黒くて丸い薬が三粒、亮二の手に転がる。

「一粒飲んでテストしましょう。はい、それ飲んで。そこのお茶で飲んで」 

 先生はポットを指さした。


 得体の知れない薬を飲むことに抵抗がないわけではなかったが、過去にもどれるかもしれないという興味がそれを上まわって、亮二は言われるままに手にのっている漢方を一粒だけ飲んだ。不思議な写真と怪しい診察室の雰囲気が亮二をその気にさせた。すると、急に激しい睡魔に襲われた。  


                    * * *


 亮二は真っ暗な部屋で目が覚めた。頭が割れるように痛い。両手を頭に添えて上半身を起こすと、そこは中目黒にある自分のマンションで、亮二はいつものようにリビングのソファーに横たわっていた。夢にしては妙にリアルで、シン先生に会ったことのほうが夢だったのではないかと思うほど、いつもと何も変わらない自分の部屋でくつろいでいる。まるで酔って帰って来てソファーで寝てしまい、夜中に目覚めたときのようだった。


 ガラスに映った自分の姿も変わっていない。足下を見ると靴を履いていた。手には残りの漢方を二粒握りしめていたので亮二はそのまま歩いて靴を脱ぎに玄関へ向かう。

 廊下にでると人の気配がしてびくっとした。玄関に誰かがうずくまっている。亮二はその人物を見て背筋が凍った。一目でその男が自分だとわかったからだ。

 幽霊にでもなったような気分だった。身体から魂だけが抜け出てしまったのではないかと思い、自分の身体に触って確かめると、手にはちゃんと実体の感触があることにほっとする。

 一瞬、躊躇したけれど、足が自然に動いて倒れている自分に近づいた。

 びくびくしながら横たわった身体にそっと触ってみる。息もしているし暖かい。酒のにおいがぷんぷんした。亮二はもういちどまじまじと倒れている自分を見つめると、混乱している頭を激しく左右に振って冷静になろうと大きく息を吸った。


 すると、急に鼻がむずむずしだした。大きく一回くしゃみをする。また花粉症の症状がでたと思ったとき、急に立ちくらみがして亮二はその場に倒れこみ、手にもっていた漢方を二粒、床にばらまいた。


                    * * *



 静寂な世界から急に雑音が聞こえ始めて、ゆっくり目をあけると世界が白く霞んで見えた。視界がはっきりしてくると、上から覗き込んでいるシン先生と目が合って、ここが診察室だということが瞬時にわかった。


「俺は過去に行ったのか?」

 狐につままれたような気分だった。

「薬、利かなかったか?」シン先生が首をひねった。「どこ、行った? なに、見た?」

「倒れている俺だ。自分のマンションだった」

「それ、あなたの過去。たぶん、そんなに前じゃない。どれくらいの時間、そこに居た?」

「五分か、十分くらいだ」

「オーケー。アヴェレージね。あなた、三錠、飲みなさい」

 先生は満足そうにうなずいて瓶から三錠取りだし、お茶と一緒に亮二に渡した。

「次は本番よ。はい、お茶で飲んで」

「先生、ちょっと待ってくれよ。もっと詳しく説明してくれ」

「なに、聞きたい? あなた、さっき見たとおりよ。質問、あるなら言って」

 質問しろと言われても突飛すぎて、なにから聞いたら良いのかもわからない。インフォームドコンセントってもんがあるだろ。と心の中で言い、亮二は顔をしかめた。

「質問、ないなら、薬飲んで。それとも止める?」 

 シン先生の早口にせかされる。

 いまさら止めるには、亮二の好奇心が大きくなりすぎていた。

 亮二は半信半疑のまま、こんどは薬を三錠、お茶と一緒に流しこんだ。すると急激に眠気が襲ってきて、こんどもまたすぐに深い眠りについた。


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