第十一話 封印した恋のかけら
「えっと……」田辺は宙を見てちょっと考える素ぶりを見せた。
「あれは多分、一九八八年の九月だ。覚えてないか、昭和天皇が倒れたときだよ。その日、イベントの取材でたまたま長瀬と一緒になってさ。前日の深夜に天皇が倒れたっていうんで現場で待機してたんだけれど、自粛ってことで急遽イベントは中止、仕事がキャンセルになったんだよ」
「長瀬のかみさんが家をでたのって、そんなに前のことなのか?」
亮二は動揺して訊いた。
いまのいままで、亜紀は長瀬と幸せな結婚生活を送っているのだと疑わなかった。
「天皇陛下が倒れたのって、確か九月十九日の深夜だぜ。次の日に宮内庁から正式発表があったんだ。俺も清涼飲料水のCMのタイアップで、ライブを撮影する予定だったのに、イベントがキャンセルになって大変だった。初めて任された大きな仕事だったからよく覚えている。なにもかもが自粛、自粛で、あのときはまいったよな」
「そうそう、その日だよ。それから長瀬と飲みに行ったんだけど、飲み屋も自粛とかですぐに追いだされてさ、長瀬の家で飲み直そうってことになってあいつの家に行ったのよ。そしたら長瀬の母ちゃんが、嫁さんが男と出て行ったってえらい剣幕でさ。あいつんち、親と同居で嫁さんとお袋さんの折り合いが悪かったらしいんだ。だからって男と消えちまうとはね。俺もなまじ一緒にいたもんだからさ、ばつが悪いっていうか、それを境に疎遠になっちまったんだよ」
自由奔放な亜紀が長瀬の親と同居なんて考えられなかった。亜紀には父親がなく、中学まで母親とふたりで暮らしていたが、母親の愛人との生活が嫌で高校生になるとひとり暮らしを始めた。小さいときは美人のお母さんが誰かに取られてしまいそうで不安だったと、出逢ったころに亜紀が言った。
長瀬と作った家庭も亜紀の居場所ではなかったのだろうか?
「それで、長瀬は?」
「鬱になっちまったみたいでさ、仕事もできなくなったって噂だぜ」
「娘はどうしたんだ?」
「どうしたんだろうな? とっくに、二十歳を過ぎてるだろ」
亜紀の行方はわからなくなってしまった。抑えつけていた心がひとたび開くと、感情が怒濤のごとく流れだして、亮二は気持をコントロールできなくなった。亜紀の想い出のかけらが断片的に次から次へと噴きだして心を乱す。亜紀に逢いたいということ以外は何も考えられなくなり、その後はずっと上の空で、亮二は二次会の誘いも断って帰路についた。
家に帰る途中にレンタルビデオ店の前を通ったとき、ふと、亮二は亜紀の好きだった映画が見たくなり、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のDVDを借りた。主人公がタイムマシンで過去に行き、未来を変えて家族の危機を救う話だ。亜紀がどうしても初日に見たいと言って、ふたりで映画館の長い列にならんだことを急に思い出した。
――映画を見た後で亜紀が訊いた。
「タイムマシンがあったら亮はどうする?」
「未来で仕入れた知識を使って、ビジネスを起こして大儲けするかな。資金だって株や競馬で調達できるだろ。亜紀は?」
「未来の亮に逢いに行くよ。もし禿げて太って見るに耐えなかったら、現代にもどって亮とはすぐにさよならするよ」
そう言って亜紀は笑った――
タイムマシンがあったら亜紀といたあのころに亮二はもどりたかった。
「亜紀、逢いに来てくれよ。俺は禿げても太ってもいないぜ」
亮二はウィスキーのグラスを傾けて、手にしたDVDに向かって語りかけた。
無意識のうちに消し去っていた亜紀の存在。亮二は忘れたと思い込んでいた。
娘と夫をおいて男と逃げた亜紀は幸せなのだろうか?
自分に正直で情熱的な亜紀が、男と逃げたと聞いても驚かない。亜紀を恨んでいたはずなのに、幸せでなかったと聞くと心が痛んだ。だいたい亜紀が夢を諦めることになったのは、自分のせいではなかったのか? そうだとすると、すべての責任が自分にあるのではないのかと思えた。
なぜ別れてしまったのだろう。亜紀がそもそも、長瀬の元に行ったのは自分がふがいなかったからだ。亮二の脳裏に、記憶の隅に追いやって忘れようとしたあの日のことが甦った。
――あの日、とうとう亜紀が別れを告げにきた。
そのころ、亜紀と逢うことは殆どなくなっていた。亮二は変わらず亜紀を想っていたけれど、だからといって関係をよくするために何かをすることはなかった。亜紀が長瀬の元に行ってしまったのではないかと不安だったけれど、事実を知ることも恐かったし、そのほうが亜紀のためかもしれないとも思っていた。
「話があるの」
亜紀は、お湯を沸かしている亮二の背中に向かって小さい声で言った。
亮二が蛇口を捻って水をだし聞こえない振りをすると、亜紀はすぐ横に来て、もう一度同じ言葉をくり返す。
「俺にはない」と、顔もあげずに亮二は答えた。
「三年よ、私たち。ちゃんと話をしたい」
「話すことなんかねえよ」
「私にはあるわ」
亮二が何も答えないでいると、「好きな人がいるの」と亜紀が声を振るわせて言った。
亮二は目を伏せた。聞きたくない。とっさに口が勝手に動いた。
「それって、おまえの問題だろ」
「亮はそれでいいの?」
「いいも、悪いもねえじゃん」
「止めてくれないの?」
「飽きたんだろ? 正直にそう言えよ。俺も飽きたし、誰と寝ようがおまえの自由だ」
亜紀が力いっぱい亮二の頬をたたいた。
耳元で大きな音がして亮二は反射的に左の頬を押さえる。
「もういい。あのひとのところに行く。さよなら」
目にいっぱい涙をためて、亜紀は出て行った。
亜紀との仲がこじれて随分と時間が経っていた。それでもどうにかふたりの仲は続いていたのに、あの日は違った。喧嘩をするのも亜紀の声を聞いたのも、あれが最後になった。ろくに話もしないで、あんな別れ方をしてしまったことを、亮二は一生悔やんだ。
それまで亮二は失恋して悲しいとか眠れないという気持ちが理解できなかった。たかが失恋で学校を休み、自暴自棄になるやつは弱い男だと思っていた。亜紀と別れて初めて、田辺の気持ちがわかった。
一生、亜紀を忘れられない。こんな恋は二度としないと、希望をなくした。
独りでいると涙が涸れることなく流れでる。部屋に残った亜紀の香が楽しかったころを思い起こさせた。さまざまな想い出や後悔が亮二のなかでかけめぐる。とても、しらふでいられない。来る日も来る日も浴びるように酒を喰らい続けたが、幾ら飲んでも心底酔えない。酔えないからどんどんまた酒を飲む。暴れて酒に溺れる日々が続いて廃人のようになった。酒が抜けると永遠にこの暗い部屋から出られない気がした。そんな自分が嫌だった。
ある日、寝転がった姿勢で窓に目をやると青い空が見えた。空の青さが心に染みる。
空を見たのはひさしぶりだった。ひさびさに見た青い空は果てしなく広く澄んでいて、亮二を闇から引っ張りだした。
前に進むために心に頑丈な鍵をかけて、そのとき亮二は亜紀の記憶を封印した。――
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次回から二章に突入し、物語は大きく動き始めますので、引き続き読んでいただけると嬉しいです。