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第九話   昔の女に生き写しの彼女 

「ボナペティートのキャスティングはどうなってる?」

 亮二は受話器を置くと、スケジュール表を手にして川崎のほうに振り返った。

「斎藤がエディティングルームでオーディションの資料を編集しています」

 川崎はパソコンのモニターをにらみつけたまま返事をする。


「ボナペティート」は高級趣向の独身女性をターゲットにしたキャットフードだ。品質と安全性にこだわって、優良天然素材のみを使用した無添加のナチュラルフードで、近年、売れている商品である。妥協を許さない亮二が、商品の企画段階から忍耐強く足繁く通って取った仕事で、川崎のチームが桜花堂と並行して準備を行っている。


 亮二がエディティングルームにはいると、斎藤がオーディション風景を録画した資料をチェックしていた。早送りや巻きもどしをしてメモをとっている。

「どうだい、いい子はいた?」

「可もなく、不可もなくって感じですね」

 亮二は近くの椅子に腰かけて、斎藤と一緒に資料を見る。確かに斎藤の言うとおりだ。

「ちょっと止めろ!」

 斎藤が亮二に言われてストップボタンを押した。

「違う、ひとつ前の子だ。そう、その子」

 亮二は胸がつまった。心の奥のほうでガラスが割れて胸に突き刺さる感じがした。

 胸が痛くて息苦しくて、呼吸が急に早くなる。

 画面のなかで、ずっと昔に愛した(ひと)にそっくりなモデルが笑っていた。

 大きな揺れる瞳も、ふっくらとした唇も、似ているなんていうレベルじゃない。まるで彼女そのものだ。胸の奥が熱くなって何かがうずく。


「ライムライト・エージェンシーの新人ですね」

「名前は?」

「えっと、どっかにコンポジなかったっけ?」斎藤は机の上をかきまわしてコンポジットを探した。「あった。これだ、これ」

 コンポジットとはモデルの営業ツールで、プロフィール用の写真が載ったカードだ。

「名前は、せなゆき? いや、ゆうきですね」

 斎藤がコンポジットを亮二に渡した。そこには「瀬名優希」と書いてある。

 やはり似ている。亮二は逢ってみたいという思いに駆られた。


 それはとうの昔に封印した過去のとっくに記憶から消去された恋だった。最後に逢ってから二十年以上も月日が流れている。あんなに激しく、心も身体も燃え上がらせて女を求めたことも、心が砕けてしまうほど傷つけ合ったことも、あの恋をおいて他にない。

 別れたあと、何年も苦しくて辛くて忘れられなかった(ひと)。とっくの昔に想い出になっていたはずだった。少なくてもテープを見るまでは、亮二にとって亜紀は過去だった。


「それで、もうどの子か決まったの?」

「いえ、監督がオーディションに立ち会えなかったので、こっちで十名ほど選んで、二次オーディションに来てもらいます」

「この子、いいじゃん」

 亮二はさりげなくそう言うと、優希のコンポジを斎藤に返した。

「可愛いんですけどね。次は和風な感じの子って言われてるんですよ」

「スポンサーが好きそうなタイプだから、この子もいれといてよ。俺も見てみたいし」

 亮二の指示に従って、斎藤は瀬名優希の資料を二次オーディション用のファイルに移した。

 私情で女の子をオーディションに通したのは初めてだ。女を武器にしたモデルが、たびたび寄ってくるが、それをすると後々めんどうになる。亮二は仕事に私情は持ち込まない。でも、こんどばかりはどうしても、亜紀にそっくりなこのモデルに逢ってみたかった。



 三日後のオーディションに優希は姿を見せた。

 実物の優希は、写真や映像で見た以上に亜紀に似ている。顔だけでなく、声や仕草や顔をクシャクシャにして笑うところまでそっくりだ。亮二は個人的に彼女と話をしたかったが、この場で誘うわけにもいかない。監督もクライアントの好みだと同意したものの、次の路線と違うということで優希の起用は見送られた。


 最後の子が終わると、あとは監督と斎藤にまかせて亮二は会社をでた。一休みしようと隣の喫茶店にはいる。仕事が煮つまったときや考え事をしたいときに、亮二はよくここを利用した。コーヒーが安くて旨いのが良い。アンティーク調のそんなに広くない店内は、昔ながらの喫茶店といった感じで落ちついている。奥の壁際の席が亮二の指定席だが、今日はそこに先客がいた。

 その人物を見て亮二は立ち止まった。夢か幻を見ているのかと思って、なんども瞬きをする。先客は本を片手にお茶を飲んでいる瀬名優希だった。


 優希はオーディションのときに着ていた薄いピンクのブラウスの上から薄紫色のカーディガンを羽織っている。亮二はこの偶然に感謝した。

 すぐに亮二の心臓は激しく音をたて始めた。女を誘うのが趣味みたいな男が、声をかけるのを戸惑っている。


 意を決して亮二はゆっくりと優希に近づいた。本に目を落としている彼女のまつ毛は長く、その顔立ちは愛らしい。亮二は拳を強く握って指先の震えを押さえると、小さく一回、深呼吸した。

「君、さっきのオーディションに来ていた子だよね?」

 優希は頭をあげるとオーディションの会場にいた亮二に気づいたのか、顔に明るさが増した。「覚えていただけて光栄です」と挨拶し、顔をくしゃくしゃにして微笑む。

「ここ、座ってもいいかな?」と亮二はことわって、優希の斜め前の席に座った。

 優希のサラサラした艶のある髪に自然と目がいく。長さは肩甲骨にかかるくらいで、顔のまわりに軽いレイヤーがはいっていた。

 馴染みのウエートレスがコーヒーを運んで亮二の前に置く。亮二がコーヒーしか頼まないことをこのウエートレスは知っている。いつも軽く冗談を言ったりして、この娘にちょっかいを出す亮二も、いまはそんな余裕はない。

 何か話さなければと思っても、ただ優希の顔をじっと見つめてしまう。視線が合って、気まずい空気を感じた。

 これではまるでガキのデートだと、亮二は顔をしかめる。

「ごめん、君があまりにも学生のころの知り合いに似ていてね。驚いてしまって……その、ナンパみたいに聞こえるかもしれないけど、本当なんだ」

 亮二は必死に言い訳をした。


 普段は白々しく、君が初恋の人に似ていてドキドキしちゃうよ。なんて誰にでも甘い言葉を囁いているのに、いざ、本当にそっくりな優希を前にすると、言い訳している自分が滑稽だった。瑠花に対してすら、もう少し気持ちを隠して冷静に振る舞えるのに、優希の前では駆け引きどころではない。亮二は動揺を隠しきれずにいた。


 そんな亮二を見て、優希はクスッと笑った。

「そんなに似ているなら会ってみたいです。その方は何をされているのですか?」

「もう、何十年も逢っていないんだ。どうしているかな」

「もしかして、昔の彼女だとか?」

 ふっと笑って亮二はカップに口をつける。

「喧嘩別れしちゃたんだ。最後に見た泣き顔ばかり浮かんでね。君のおかげで笑った顔を思いだせた。女の子が生まれたっていうから、いいお母さんになっているんじゃないかな」

「こんな顔で良かったら、どうぞじっくり見てください」

 優希は顔をクシャクシャにして口をイーと横に広げると、顎を前に突きだした。

 突拍子もなく優希が変な顔をしたので、一瞬、亮二は唖然として、それからすぐに噴きだした。こんなところも亜紀に似ている。


「気持ちが良さそう」と言って夜の噴水にはいったり、駅前の広場で急に踊りだしたりと、亜紀にはいつも驚かされてばかりだった。優希の明るさは亜紀と共通するものがある。強いて亜紀との違いをあげるとすれば、優希のほうが少しだけ翳りがある気がした。飾らない優希と話していると、亮二も自然に素の自分にもどっていく。


 遠い昔、「ずっと一緒にいよう」と、亜紀を抱いて亮二は言った。口下手だった亮二が、唯一口にできた愛の言葉だ。この広い東京で亜紀と出逢って恋をして、出逢えた奇跡に感謝した。まるで生まれる前から逢うのが決められていたかのように、自分の細胞のひとつひとつが亜紀を求めて一体となる。亜紀の痛みは亮二の痛みで、彼女の喜びもまた亮二の喜びだった。あのころの亮二は、亜紀がいない未来は考えられなかった。     

 


 優希との楽しいひとときは亮二に時間を忘れさせて、気がつくと二時間近く経っていた。もう一度、逢いたくて次の約束を取りつけたいが、誘う理由が見つからない。

 亮二はすっかり亜紀と一緒にいたころの奥手な青年にもどっていた。

「遅くなったけど、これ」

 名刺を内ポケットから取りだして、亮二はそれを優希に渡した。

「池下さん」名刺を見て優希が亮二の名前を読む。「すみません、私、名刺を持ってなくて」

「モデルは名刺なんてあまり持ってないよ」

 亮二が笑って答えると、優希はハッとして右手を口にあて、クスクスと笑いだした。 

 優希はバックからコンポジを取りだし、それに自分の携帯番号を書いて亮二に渡す。

 結局、亮二は別れ際に「何か困ったことがあったら、いつでも連絡して」と言うのが、精一杯だった。



 オフィスにもどると机の上に亮二宛の郵便物が置いてあった。業務用の封筒が大半を占めるなか、手書きの往復はがきが目にとまる。映画学校の同期会の案内だった。それを見て亮二は複雑な気分になる。

 卒業してから一度も学生時代の仲間の集まりに顔をだしていない。亜紀と別れる原因になった男に会いたくなかったからだ。亜紀の存在を記憶から徹底的に消し去りたかった。しかし、いまは違う。優希に逢ったせいで、その男がどうしているか、もっと正直にいうと、亜紀がいま、どうしているのか気になった。

 亮二は優希のコンポジを見つめて、はがきの出席の欄に丸をつけた。



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