俺の部屋に女物のパンツが落ちていた。彼女はいない
俺の部屋に、女物のパンツが落ちていた。
ピンクだった。
正確には、薄いピンク。
レースが少しついている。
そして当然だが、俺のものではない。
「…………」
朝七時。出勤前。
ベランダへ出ようとカーテンを開けた俺は、窓際に落ちているそれを見つめていた。
「なんで?」
一人暮らしである。
彼女はいない。
昨夜、女を連れ込んでもいない。
というか、この部屋に女性が入ったのは、たぶん三か月前に妹が来た時が最後だ。
俺はしゃがみ込んだ。
触らない。
こういうものは迂闊に触らないほうがいい気がする。
別に事件現場ではないのだが。
「……妹の?」
いや。三か月前だぞ。
三か月間ここに落ちていたパンツを俺が今日まで見つけなかったというのは、さすがに無理がある。
それに昨日の夜、この辺は掃除した。
なかった。
つまり。
昨夜から今朝までの間に、俺の部屋へ女物のパンツが出現した。
「…………」
怖い。
幽霊より怖い。
意味が分からない。
俺はスマホを取り出した。
妹に電話した。
『何』
「朝から悪い」
『ほんとにね』
「ちょっと聞きたいんだけど」
『何?』
俺は床のパンツを見た。
「お前、ピンクのパンツ持ってる?」
沈黙。
『……は?』
「いや、だから」
『なんでお兄ちゃんが私のパンツの色を確認してんの?』
「違う! そういう意味じゃない!」
『どういう意味なら朝七時に兄からパンツの色を聞かれるの!?』
もっともだった。
「俺の部屋に落ちてるんだよ!」
『私のパンツが!?』
「お前のかどうかを聞いてるんだよ!」
『知らないよ!』
「三か月前にうち来たよな? その時に忘れたとか」
『ない』
「即答?」
『だってその色持ってないもん』
「今、ピンク持ってるって言っただろ!」
『ピンクは持ってる! 薄いピンクのレース付きは持ってない!』
「細かいな!」
『パンツなんだから細かくなるでしょ!』
なるほど。
『あと、お兄ちゃん』
「何」
『朝から最悪』
切られた。
容疑者一名、消えた。
そして兄妹関係に軽微な損害が発生した。
仕方ない。
とりあえず仕事へ行こう。
俺はパンツにティッシュをかぶせ、その上からビニール袋を被せて隔離した。
帰ってから考える。
そう決めた。
会社に着くまでは。
「おはようございます」
会社で同期の佐伯真由に声をかけられた。
「おはよう」
佐伯とは入社以来の付き合いだ。同い年。二十六歳。
仕事帰りに何人かで飲むこともあるし、一度だけ俺の部屋にも来たことがある。
去年の宅飲みだ。
そこで思い出した。
女も二人いた。
「佐伯」
「何?」
「去年、俺んち来たよな」
「行ったね」
「その時、パンツ忘れなかった?」
佐伯の動きが止まった。
隣のデスクの田中も止まった。
「……高橋」
「はい」
「私、あんたの部屋でパンツ脱いでないけど」
「違う!」
「何が?」
「今朝、俺の部屋に女物のパンツが落ちてて」
「怖っ」
佐伯が一歩下がった。
「なんで俺から離れるんだよ!」
「なんで候補に私が入ってんの?」
「うちに来たことある女性だから!」
「一年前に一回だけね!」
そうだった。
どう考えても違う。
「ちなみにどんなの?」
「薄いピンクで、レースが少し」
「……なんで私のパンツのデザイン知ってんの?」
「知らないから聞いてるんだよ!」
「聞き方!」
容疑者二名、消えた。
代わりに会社で妙な噂が生まれた。
昼休みには後輩から、
「高橋さん、パンツ探してるんですか?」
と聞かれた。
「持ち主をな」
答えてから気づいた。
これも駄目な言い方だった。
午後三時。
妹からメッセージが来た。
『お母さんには言っておいた』
何を。
すぐに母から電話が来た。
出なかった。
事件発生から八時間。
俺の社会的信用は着実に削られていた。
帰宅した。
玄関を開ける。
誰もいない。
当たり前だ。
俺は手を洗い、朝に隔離したパンツの前へ座った。
「お前、誰なんだよ……」
パンツは答えない。
当然である。
改めて考える。
妹ではない。
佐伯でもない。
昨日まではなかった。
昨夜から今朝までに現れた。
なら、その間に何があった?
「……誰か入った?」
背筋が寒くなった。
玄関の鍵を確認する。
異常なし。
窓。
異常なし。
ベランダ。
俺は窓を開けた。
四階。
下を見る。地面までは結構ある。
左右を見る。隣室との間には避難用の仕切り板。
上を見る。
五階のベランダ。
「…………」
あ。
洗濯物。
そういえば昨夜は風が強かった。
まさか。
「飛んできた?」
それなら全部説明がつく。
俺は部屋へ戻り、パンツを袋に入れた。
そして考える。
上か。
左右か。
風向きまでは覚えていない。
だが、位置的には上階が一番ありそうだ。
五階。
俺の真上。
とりあえず聞いてみるか。
いや。
待て。
俺は今日だけで学んだ。
女性に突然、
「このパンツ、あなたのですか?」
と聞いてはいけない。
しかし他に聞き方があるだろうか。
『昨夜、洗濯物を落としませんでしたか?』
これだ。
完璧。
俺は五階へ上がった。
真上の部屋の前に立つ。
インターホンを押す。
少しして、ドアが開いた。
「はい」
女性だった。
長い黒髪。整った顔立ち。
綺麗な人だ。
「すみません。下の階の高橋です」
「あ、はい」
「ちょっと確認したいことがありまして」
「何でしょう?」
「昨日の夜、洗濯物を落としませんでしたか?」
女性が目を瞬いた。
「洗濯物?」
「はい。風、強かったですよね」
「……あ」
何か思い当たったらしい。
「もしかして」
「はい」
「ピンクの?」
俺は天を仰ぎたくなった。
終わった。
長かった。
俺の一日がようやく終わる。
「それです!」
思わず声が大きくなった。
女性が少し驚く。
「すみません。朝からずっと持ち主を探してて」
「朝から?」
「妹に電話して」
「はい」
「会社の同期にも聞いて」
「……はい」
「危うく同期の彼女にも聞くところでした」
「それはやめたほうがいいと思います」
「俺もそう思ってやめました」
正解だった。
俺は袋を差し出した。
「これですよね?」
「あ、はい。私のです」
「よかった……」
本気で安堵した。
すると女性が袋を見る。
「洗いました?」
「え?」
「これ」
「いや、触るのもまずいと思って、そのまま袋に」
「あ、よかった」
「よかった?」
「知らない男の人に下着洗われてたら、ちょっと怖いので」
「俺、今それ持って訪ねてきてるんですけど」
「それもまあまあ怖いです」
「帰ります」
一日かけて辿り着いた結論がそれだった。
その時。
部屋の奥から男の声がした。
「美琴、誰?」
「あ、直人。下の階の人」
直人という男が玄関まで来た。
二十代くらい。
俺を見る。
袋を見る。
美琴さんを見る。
「何かあった?」
「私のパンツ、下の階まで飛んでたみたい」
「…………またパンツ?」
「また?」
俺は聞き返した。
直人さんが目を逸らした。
「いや、こっちの話です」
「はあ」
「拾ってくれてありがとうございます」
「いえ」
なんだろう。
この部屋、パンツ関係で何かあるのか。
聞かないほうがいい気がした。
俺は四階へ戻った。
事件解決。
女物のパンツが俺の部屋に落ちていた理由。
上の階から飛んできた。
以上。
最初からベランダを見れば十分で終わっていた。
妹との関係を悪化させる必要もなかった。
会社で変な噂を立てられる必要もなかった。
「疲れた……」
部屋に戻ろうとした時。
隣のドアが開いた。
「あ」
女性が出てきた。
隣人の小野寺さん。
確か俺と同じくらいの歳。
何度か廊下で会って挨拶したことがある。
「あ、こんばんは」
「こんばんは」
そこで思い出した。
そういえば。
この人にも聞こうと思っていた。
朝、時間がなかったから後回しにしただけだ。
危なかった。
聞かなくて本当によかった。
「どうかしました?」
俺が妙な顔をしていたらしい。
「いや、なんでも」
「そうですか」
小野寺さんが俺の横を通る。
その瞬間。
「あ」
俺は声を出した。
「はい?」
違う。
これは確認しておいたほうがいい。
万が一ということもある。
「小野寺さん」
「はい」
「変なこと聞いていいですか?」
「内容によります」
「今日、パンツなくなってません?」
「…………」
終わった。
今日三回目の沈黙だった。
「高橋さん」
「はい」
「なんで私のパンツの枚数を気にしてるんですか?」
「違うんです!」
「何が?」
「上からパンツが落ちてきたんです!」
「上から?」
説明した。
朝、俺の部屋に女物のパンツがあったこと。
妹を疑ったこと。
会社の同期まで疑ったこと。
最終的に五階の女性の物だったこと。
話し終えるころには、小野寺さんは口元を押さえていた。
「……笑ってます?」
「すみません」
「笑ってますよね」
「だって」
肩が震えている。
「一日かけてパンツ一枚の持ち主探してたんですか?」
「俺だって好きでやったわけじゃないですよ!」
「普通、最初に外から飛んできたと思いません?」
「思いませんでした」
「なんで?」
「部屋の中にあったから」
「窓、開いてたんですか?」
「少し」
「じゃあ飛んできますよ」
「朝の俺に言ってください」
「無理です」
小野寺さんがとうとう笑った。
初めてちゃんと笑った顔を見た。
「あの」
「はい?」
「ちなみに」
「はい」
「私のパンツだと思いました?」
「一瞬だけ」
「なんで?」
また地雷を踏んだ。
「いや、隣だから!」
「隣だとパンツの候補になるんですか?」
「今日の俺の中ではなるんです!」
「最低ですね」
「言い方!」
小野寺さんはまだ笑っていた。
「じゃあ、お詫びしてください」
「何のお詫びですか」
「私をパンツの容疑者にしたお詫び」
「口に出して聞く前に解決したんですけど」
「今、聞きました」
「そうだった」
墓穴だった。
「何すればいいですか」
「ご飯」
「はい?」
「今から買いに行くところだったので。奢ってください」
「それでいいんですか?」
「パンツの疑いをかけられた慰謝料としては安いと思います」
「その言い方やめません?」
結局。
近所のファミレスで夕飯を奢ることになった。
小野寺さんとちゃんと話したのは、それが初めてだった。
意外とよく喋る人だった。
よく笑う人でもあった。
そして翌朝。
会社へ行くと佐伯が俺の顔を見るなり聞いてきた。
「パンツの持ち主、見つかった?」
「見つかった」
「誰だった?」
「上の階の人」
「なんだ。普通じゃん」
「普通だったよ」
一日かけて、ようやく普通の結論に辿り着いた。
「で?」
佐伯がニヤニヤしている。
「何」
「昨日、女の人とファミレスいたでしょ」
「なんで知ってる」
「田中が見たって」
「会社怖いな」
「誰?」
「隣の人」
「へえ」
佐伯の笑みが深くなる。
「パンツの持ち主?」
「違う」
「じゃあ何?」
「パンツの持ち主を探してたら飯を奢ることになった」
「全然分からない」
「俺も分からない」
その日の夜。
帰宅すると、隣のドアの前で小野寺さんと会った。
「こんばんは」
「こんばんは」
鍵を開けながら、小野寺さんがこっちを見る。
「高橋さん」
「はい?」
「今日、パンツ落ちてました?」
「毎日起きる事件じゃないですよ」
「残念」
「何がですか」
「またご飯奢ってもらえるかと思って」
「自分のパンツを俺の部屋に投げ込まないでくださいね」
「その手があった」
「やめろ」
小野寺さんが笑う。
「じゃあ普通に誘います」
「え?」
「今度、ご飯行きません?」
「……いいですよ」
「パンツ関係なく」
「絶対その条件つけてください」
こうして。
俺の部屋に落ちていた女物のパンツの持ち主は、彼女にはならなかった。
その代わり。
そのパンツの持ち主を探す途中で疑った女性が――
後に、俺の彼女になった。
ちなみに。
付き合ってからしばらくして。
目を覚ますと、床に女物のパンツが落ちていた。
薄いピンクだった。
「…………」
見覚えがある。
というか。
ベッドの隣では、小野寺さんが布団にくるまって爆睡している。
床には俺のシャツ。
その向こうに小野寺さんの服。
さらに向こうには、なぜか枕が落ちている。
昨夜の記憶を順番に思い出す。
途中から順番が怪しい。
「……何回だったっけ」
布団の中から声がした。
「数えないで」
「起きてたのか」
「今起きた」
「いや、数えてない」
「じゃあ思い出さないで」
「無茶言うな」
「朝から恥ずかしいから」
「昨夜は全然恥ずかしがってなかっただろ」
「昨夜の私は昨夜の私です」
「別人格にするな」
布団がさらに持ち上がり、小野寺さんの顔まで隠れた。
俺は床の薄いピンクをもう一度見る。
あの日と同じだ。
俺の部屋に、女物のパンツが落ちている。
ただし今度は。
持ち主も。
ここにある理由も。
昨夜何があったのかも。
全部知っている。
だから、その朝だけは。
犯人探しをする必要はなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
こういうのを描きたいタイミング、時々(結構)あります。
人間だもの。
今回は、うっかり二作目まで形になってしまいました。
前回は男物のパンツが消えて、今回は女物のパンツが現れました。
次があるかは分かりません。
たぶん、パンツ次第です。




