咲く
あいつが死んでから、5年が経っていた。
おれはまだ生きていた。
理由もなく生きていた。
おれのせいで咲はトラックに轢かれて死んだ。
あの時、おれが声をかけなければ。
おれがあいつを連れて逃げなければ。
おれなんかに出会わなければ。
あいつは今も生きていたはずだ。そう考えるたび、胸の奥に錆びた釘を打ち込まれるような痛みが走った。
だからといって死ぬ勇気もなかった。
おれは中途半端な人間だった。何も成さず、ただ長く生きただけの、どうしようもない、くだらない、クズの、死んだ方がいいに決まってる生ゴミみたいな人間だった。
人を殺して。人を死なせて。おれだけ生きて、なんなんだ。
何千回、何万回目の自己嫌悪。
おれは今日も公園のゴミ箱から飲みかけのワンカップを拾って、えずきながら胃に収めていた。
なんとなく公園の入り口を見る。
咲がいた。
「よっ」
ちょっとコンビニに行って帰ってきただけみたいな普通の顔で、咲は笑った。
あの時のままの姿だった。痣だらけで、少し猫背で、でも妙に堂々としていて、世界を睨むような鋭い目をしていた。
おれは驚かなかった。あまりにも自然にそこにいたからだ。
「なぁ咲、おれは⋯⋯」
「5年ぶりのあたし(霊体)にそんな普通に話し始めるの!?」
「あっ⋯⋯そうだな、まぁ⋯⋯」
「おじさん元気なさすぎ! 見た目もおじいちゃんみたいになっちゃってさ!」
咲がケラケラ笑った。
その笑い声を聞いた瞬間、胸が痛くなった。
「ごめんな⋯⋯」
おれは泣いた。
「おれのせいだ。おれが、お前に声をかけたから⋯⋯」
ボロボロに泣き崩れるおれを見て、咲は少し困ったような顔をしてこちらへ近づいてきた。
「ねぇおじさん」
咲の声は優しかった。そして、優しい顔をしていた。
「おじさんに出会ってから、あたしの人生始まったんだよ」
そう言って笑った。おれは何も言えなかった。
「おじさんを恨んだことなんて1回もないよ。あの家で過ごした14年より、おじさんといた時間のほうが“あたしの人生”って言えるもん」
狭いホテル。安いカップ麺。初めてのノーパン。血まみれで逃げた夜。手を引いて走ったこと。
あの頃の記憶が、フィルムみたいに瞼の裏で回り始める。
「幸せだったよ」
咲は静かに言った。
「だからそんな顔しないでよ」
おれは顔を覆った。
咲の人生は短かった。短すぎた。
もっともっと生きられたはずなのに。
学校に行って、友達を作って、恋をして、大人になって。
そんな未来を全部奪ったのは、おれなんだ。
「そんな顔しないでって。ね?」
「⋯⋯でも、おれだけ生きてる」
「うん」
「お前は死んだ」
「うん」
「おれはまだ飯食って、寝て、息してる」
「そうだね」
「⋯⋯辛ぇよ」
咲は少し黙った。
それから、おれの隣に座った。
「あたしだって、辛いよ。おじさんともっとバカやりたかったし、一緒にケーキ食べたかった。後悔ばっかだし、未練ばっか」
「だよな、ごめんな⋯⋯」
「でも、大丈夫だから」
「えっ」
「めちゃめちゃ大丈夫だから」
「なんだよそれ」
「どんなに辛くたって生きていかなきゃいけないんだよ! おじさん! この先、必ずいいことがあるから! それじゃ!」
泣いてるのか笑ってるのか分からない表情のまま、いきなり消えやがった。
生きろ、か⋯⋯
それからおれは酒を辞め、働いてみることにした。上手く動かない体で、死にものぐるいで日雇い労働をした。
腰は痛むし、耳は遠いし、片目は見えない。この5年でさらに体力が落ちていた。そのせいで何度も倒れた。若い作業員に怒鳴られ、笑われ、使えないジジイだと馬鹿にされた。
それでもおれは働いた。あれが夢だったとしても、おれには咲を信じることしかできねえからだ。
春の日の午後だった。
工事現場の帰り道。川沿いに桜が咲いていた。
薄桃色の花びらが、雲と手を繋いで空を彩る。年に1度の絶景だ。
風が吹くたび、花びらが舞った。雪みたいだった。
おれは立ち止まって、しばらくそれを見上げていた。
咲は桜を見たことがあったのだろうか。
きっとあったのだろう。
きっと。
「⋯⋯綺麗だな」
誰に言うでもなく呟いた。
「でしょ?」
そんな声がした気がした。
振り返っても誰もいなかった。
ただ桜だけが咲いていた。
それから少し歩いたところで、不意に声をかけられた。
「⋯⋯あなた」
聞き覚えのある声だった。振り返ると妻が立っていて、その隣には、若い男。その目を見た瞬間に分かった。息子だ。おれの知らない時間の中で、こんなにも大人になっていた。
「父さん」
息子は照れくさそうに笑った。突然の再会に頭が真っ白になって、「ぬ」みたいな声しか出なかった。
「久しぶり」
「ああ⋯⋯」
妻は泣いていた。
「ずっと探してたのよ⋯⋯あなたが誘拐なんてするはずないって、ずっと⋯⋯」
そうか、そういえば指名手配されたんだったな。
「心配かけたな」
「あの時、家を出てしまってごめんなさい」
「しょうがないさ、あの時はほんとに、ほんとにしょうがなかった」
「あれからしばらくしてあなたが心配になって探したんだけど、見つけられなくて⋯⋯」
「そうだったんだな。また会えて嬉しいよ」
そんな会話をしながらまた息子を見ると、足元に小さな子どもが隠れているのが見えた。女の子のようだ。
「⋯⋯だ、れ」
喋れるようになったばかりのような感じだった。もしや⋯⋯
「お父さんのお父さん、おじいちゃんだよ。⋯⋯父さんの初孫だよ。抱っこしてやってくれ」
そう言って息子はその子を抱き上げた。
「⋯⋯いいのか?」
「いいに決まってるだろ。ほら、おじいちゃんだぞ〜」
恐る恐る腕を伸ばす。
温かい。
孫は、おれの皺だらけの指を握って「おてて」と言った。そして笑った。
⋯⋯べろべろばあとかしたほうがいいんだろうか。
「べろべろ⋯⋯」
「おじ⋯⋯」
!?
このタイミングで、おじいちゃんと呼んでくれるのか!?
「おじ⋯⋯おじ⋯⋯」
おじ⋯⋯!
「おじさん」
おじさん!?
「おじさん! おじさん!」
「こらこら咲、おじさんじゃなくて、おじいちゃんだってば!」
――咲。
偶然なのか。それとも運命なのか。
舞い落ちる桜の向こうで、誰かが笑った気がした。




