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いろはにほいと

咲く

作者: 七宝
掲載日:2026/05/12

 あいつが死んでから、5年が経っていた。


 おれはまだ生きていた。


 理由もなく生きていた。


 おれのせいで(さき)はトラックに轢かれて死んだ。


 あの時、おれが声をかけなければ。

 おれがあいつを連れて逃げなければ。

 おれなんかに出会わなければ。


 あいつは今も生きていたはずだ。そう考えるたび、胸の奥に錆びた釘を打ち込まれるような痛みが走った。


 だからといって死ぬ勇気もなかった。


 おれは中途半端な人間だった。何も成さず、ただ長く生きただけの、どうしようもない、くだらない、クズの、死んだ方がいいに決まってる生ゴミみたいな人間だった。


 人を殺して。人を死なせて。おれだけ生きて、なんなんだ。


 何千回、何万回目の自己嫌悪。


 おれは今日も公園のゴミ箱から飲みかけのワンカップを拾って、えずきながら胃に収めていた。


 なんとなく公園の入り口を見る。


 咲がいた。


「よっ」


 ちょっとコンビニに行って帰ってきただけみたいな普通の顔で、咲は笑った。

 あの時のままの姿だった。痣だらけで、少し猫背で、でも妙に堂々としていて、世界を睨むような鋭い目をしていた。


 おれは驚かなかった。あまりにも自然にそこにいたからだ。


「なぁ咲、おれは⋯⋯」


「5年ぶりのあたし(霊体)にそんな普通に話し始めるの!?」


「あっ⋯⋯そうだな、まぁ⋯⋯」


「おじさん元気なさすぎ! 見た目もおじいちゃんみたいになっちゃってさ!」


 咲がケラケラ笑った。


 その笑い声を聞いた瞬間、胸が痛くなった。


「ごめんな⋯⋯」


 おれは泣いた。


「おれのせいだ。おれが、お前に声をかけたから⋯⋯」


 ボロボロに泣き崩れるおれを見て、咲は少し困ったような顔をしてこちらへ近づいてきた。


「ねぇおじさん」


 咲の声は優しかった。そして、優しい顔をしていた。


「おじさんに出会ってから、あたしの人生始まったんだよ」


 そう言って笑った。おれは何も言えなかった。


「おじさんを恨んだことなんて1回もないよ。あの家で過ごした14年より、おじさんといた時間のほうが“あたしの人生”って言えるもん」


 狭いホテル。安いカップ麺。初めてのノーパン。血まみれで逃げた夜。手を引いて走ったこと。

 あの頃の記憶が、フィルムみたいに瞼の裏で回り始める。


「幸せだったよ」


 咲は静かに言った。


「だからそんな顔しないでよ」


 おれは顔を覆った。


 咲の人生は短かった。短すぎた。

 もっともっと生きられたはずなのに。

 学校に行って、友達を作って、恋をして、大人になって。

 そんな未来を全部奪ったのは、おれなんだ。


「そんな顔しないでって。ね?」


「⋯⋯でも、おれだけ生きてる」


「うん」


「お前は死んだ」


「うん」


「おれはまだ飯食って、寝て、息してる」


「そうだね」


「⋯⋯辛ぇよ」


 咲は少し黙った。


 それから、おれの隣に座った。


「あたしだって、辛いよ。おじさんともっとバカやりたかったし、一緒にケーキ食べたかった。後悔ばっかだし、未練ばっか」


「だよな、ごめんな⋯⋯」


「でも、大丈夫だから」


「えっ」


「めちゃめちゃ大丈夫だから」


「なんだよそれ」


「どんなに辛くたって生きていかなきゃいけないんだよ! おじさん! この先、必ずいいことがあるから! それじゃ!」


 泣いてるのか笑ってるのか分からない表情のまま、いきなり消えやがった。


 生きろ、か⋯⋯




 それからおれは酒を辞め、働いてみることにした。上手く動かない体で、死にものぐるいで日雇い労働をした。


 腰は痛むし、耳は遠いし、片目は見えない。この5年でさらに体力が落ちていた。そのせいで何度も倒れた。若い作業員に怒鳴られ、笑われ、使えないジジイだと馬鹿にされた。


 それでもおれは働いた。あれが夢だったとしても、おれには咲を信じることしかできねえからだ。


 春の日の午後だった。


 工事現場の帰り道。川沿いに桜が咲いていた。


 薄桃色の花びらが、雲と手を繋いで空を彩る。年に1度の絶景だ。

 風が吹くたび、花びらが舞った。雪みたいだった。


 おれは立ち止まって、しばらくそれを見上げていた。


 咲は桜を見たことがあったのだろうか。


 きっとあったのだろう。


 きっと。


「⋯⋯綺麗だな」


 誰に言うでもなく呟いた。


「でしょ?」


 そんな声がした気がした。


 振り返っても誰もいなかった。

 ただ桜だけが咲いていた。


 それから少し歩いたところで、不意に声をかけられた。


「⋯⋯あなた」


 聞き覚えのある声だった。振り返ると妻が立っていて、その隣には、若い男。その目を見た瞬間に分かった。息子だ。おれの知らない時間の中で、こんなにも大人になっていた。


「父さん」


 息子は照れくさそうに笑った。突然の再会に頭が真っ白になって、「ぬ」みたいな声しか出なかった。


「久しぶり」


「ああ⋯⋯」


 妻は泣いていた。


「ずっと探してたのよ⋯⋯あなたが誘拐なんてするはずないって、ずっと⋯⋯」


 そうか、そういえば指名手配されたんだったな。


「心配かけたな」


「あの時、家を出てしまってごめんなさい」


「しょうがないさ、あの時はほんとに、ほんとにしょうがなかった」


「あれからしばらくしてあなたが心配になって探したんだけど、見つけられなくて⋯⋯」


「そうだったんだな。また会えて嬉しいよ」


 そんな会話をしながらまた息子を見ると、足元に小さな子どもが隠れているのが見えた。女の子のようだ。


「⋯⋯だ、れ」


 喋れるようになったばかりのような感じだった。もしや⋯⋯


「お父さんのお父さん、おじいちゃんだよ。⋯⋯父さんの初孫だよ。抱っこしてやってくれ」


 そう言って息子はその子を抱き上げた。


「⋯⋯いいのか?」


「いいに決まってるだろ。ほら、おじいちゃんだぞ〜」


 恐る恐る腕を伸ばす。


 温かい。


 孫は、おれの皺だらけの指を握って「おてて」と言った。そして笑った。


 ⋯⋯べろべろばあとかしたほうがいいんだろうか。


「べろべろ⋯⋯」


「おじ⋯⋯」


 !?


 このタイミングで、おじいちゃんと呼んでくれるのか!?


「おじ⋯⋯おじ⋯⋯」


 おじ⋯⋯!


「おじさん」


 おじさん!?


「おじさん! おじさん!」


「こらこら咲、おじさんじゃなくて、おじいちゃんだってば!」


 ――咲。


 偶然なのか。それとも運命なのか。


 舞い落ちる桜の向こうで、誰かが笑った気がした。

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― 新着の感想 ―
こんにちは。 え。これ、七宝様が書いたのですか!? すごい綺麗な話。 本編は未読ですが、この話だけでも心が揺れました。 良かったです。
こ、これは……続編が出たのですね。Σʕ◉ᴥ◉ʔ 何気に続きが七宝様の中にあったのか、突然ふって来たのか、ちょっと気になる私でございますʕ•ᴥ•ʔ なんて言いましょうか。作中で前作の2人が救われている…
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