代償
――あの時乗っていたら、彼はそこにいなかった。
週末の夕方。飯田は、分厚い黒雲から降る雨の中、駅に向かって走っていた。
今日は、夜に好きなアーティストが出演する音楽番組が放送される。録画予約はしているが、初出演であるため、なんとしてもリアルタイムで見たかった。
傘が意味をなさないほどの雨が強くなって来ているが、飯田に気にする様子はない。彼の目には、部屋で番組を見ている自分の姿が映っていた。
だが駅に着くと、飯田の目は現実の方を見た。駅の周辺に人が大勢集まっていた。
駅に入ると、掲示板に電車が遅延している情報が流れていた。止まってはいないものの、帰るにはかなり時間がかかりそうだった。
「マジかよ。どうすっかな」
駅から家までは、歩いて帰れなくもない距離ではあったが、今から歩いて帰るとなると、番組の放送時間には間に合わない。それに雨の勢いも先ほどよりも増して来ているため、歩いて帰る選択肢はなかった。
「とりあえず中に入ろう」
改札の前に溜まる人々の間をすり抜けていき、改札を抜ける。改札前よりは人は減ったが、それでも人は大勢いる。飯田は、立ち止まることなく、自宅方面へ向かうホームへと急いだ。
「来た電車に乗る」
今の状況で最も早く帰るのはそれしか考えられなかった。
少し息を切らしながら、飯田はホームまでたどり着いた。当然、ここにも遅延の影響は出ており、地面が見えないほどに人が並んでいた。
飯田は、すぐに列に並ぶことなく、先頭車両の停止位置に向かった。自宅の最寄り駅で降りた時に、最も改札に近い場所に降りられるからだ。
目的の乗り場までたどり着くと、丁度電車がやってきた。頭上の掲示板には三〇分遅れと表示されている。
「うわ、満員じゃん」
やってきた電車には、すでに多くの客が乗っていた。これに乗るのは不可能だと、飯田は思った。すぐに次の電車が来る時間を確認する。幸い十分ほどで次の電車が来るようだ。
「次の電車だな」
案の定、飯田の少し前で乗れなくなり、電車は発車してしまった。だがすでに次の電車に乗ろうとしている飯田にはあわてていない。
そして十五分後。遅れてはいるものの、次の電車がやって来た。この電車にも、すでに大勢の人が乗っていた。
飯田は、電車の扉が開いた瞬間、流れに沿って電車に乗り込もうとした。
「待て!」
右足を電車に乗せようとした瞬間、誰かに右腕を引っ張られ、列から引き摺り出された。さっきまで飯田がいた場所は一瞬にして人に埋め尽くされ、瞬く間に電車には乗れるスペースがなくなった。
「ちょ、ちょっと待って」
急いで乗り込もうとする飯田だったが、無情にも電車の扉は閉まり、そのまま発車してしまった。
「おい誰だ! 俺の引っ張ったのは!」
飯田は怒りを露わにした表情で、振り返った。だがすぐに、怒りの表情が驚き表情へと変わった。
そこにいたのは、飯田と瓜二つの男だった。服装も全く同じで、まるで鏡に反射しているのかと思ってしまう。
「お前、誰だ……」
「ごめんな。あの電車に乗せるわけにはいかないんだ。あの電車は、車とぶつかって事故を起こす」
男がそういった途端、線路の向こうで爆発音が聞こえた。咄嗟に視線を向けると、雨の中に赤い炎が上がっていた。
「嘘だろ……何で分かったんだよ」
飯田は、男に問いかけた。状況の移り変わりが激しく、理解が追いついていかない。
「俺は、未来からきたお前だ。お前があの電車に乗るのを止めに来た」
「未来からきたおれ? 何を言っているんだ?」
理解が置いついていない所に、さらに突拍子のないことを言われた飯田だったが、この男が言った通り、電車が事故を起こしているため、出鱈目を言っていないようにも思えた。
「お前を助けることができてよかったよ。前は、無視して乗ってしまったからな」
男はそういうと、人混みの中へと消えていった。
「お、おい!」
急いで追いかけようとした飯田だったが、事故の影響で駅は遅延とは比べようもない混乱状態で、人がごった返していた。一度見失うと、見つけるのは非常に困難な状況であった。
それでも飯田は男を探し出そうとしたが、結局見つけることはできず、気がつくと駅の外に出ていた。
「あいつ、なんだったんだ」
雨が降る中、パトカーや救急車のサイレンが響き渡る。
飯田の頭から、見たかった音楽番組のことはすでに消え去っていた。




