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楽園~エリュシオン~ シリーズ

瑠璃の蝶

作者: 霜月璃音

「おい、大丈夫か?」

 ある日、彼は少女を拾った。透き通る白い肌、同じく白い髪……。ぐったりとした少女は、辛うじて息をしていた。水を一口含ませてやると、その体がピクリと動いて、白い睫毛の下に瑠璃色の双眸が現われた。そのあまりに鮮烈な色に、彼は戦慄を覚えた。

 山の中に女の子を一人で捨てて行くのも良くないだろうと思って、彼は彼女を背負って連れ帰った。あまりにもひどい格好をしていたので、妹の着物を一枚、貸してやる。

「お前、名前は?」

 しばらく待ってみたが、一向にはかばかしい返事は返って来ない。何となく思ったことを問いかけてみる。

「お前、口がきけないのか?」

 その問いには、彼女は遠慮がちに頷いた。仕方なく、肯定、否定の動作だけで答えられるように考えながら、次の質問に移る。

「家は麓の村か?」

 麓の村、という言葉を聞いて、彼女はひどく怯えたように首を振った。何度も、激しく。先程までの彼女の格好と今の反応から考えて、相当ひどい目に遭わされたのだろう。彼はそう思って、それ以上の問いかけをやめた。

「俺の名前はけいだ」

 そっと彼が伸ばした手に、少女の体が大きく震えた。

「大丈夫だ、お前が心配することは、何もない……」

 彼の温かい手のひらに気が抜けたのか、彼女はその言葉を契機に目をとろんと閉じ、眠りの世界に誘われていった。


 啓は妹の千鶴ちづると一緒に、昔の集落跡を利用して山深くに住んでいた。両親はとうに亡く、千鶴は、生まれつき体中に紫色の痣を持っていた。何かの病には違いないのだが原因がわからず、呪いだなどという不吉な噂も出てしまい、彼ら二人は麓の村を追い出されてしまったのだ。災いは災いを招く、という村長の言葉が、今も彼の耳の奥に残っていた。

 そんな回想はさておき、彼は今、拾って来た少女をどうすれば良いのか考えあぐねていた。妹の千鶴も、彼女が椅子の上で深い寝息を立てているのを見守っている。

「兄ちゃん、その子、どうするの?」

「どうしようかな。麓の村には返せないし……」

「しばらく家にいてもらおうよ!」

 そう言った千鶴の顔は、ひどく明るかった。

「そうしたら兄ちゃんが出掛けちゃっても、千鶴、寂しくないでしょう?」

 彼は、そんな千鶴に笑いかけた。千鶴の言う通りに、とりあえずしばらく彼女を家に置いてやろうと思ったのだ。

 しかし彼女が目覚めて判明したのは、少々厄介な問題だった。彼女は、まるっきり記憶を失っているのだ。

「名前がないのは不便だな」

 啓はそう言って、俯く彼女を見下ろした。

「そうだな……。じゃあ、瑠璃って言う名前はどうだ?」

 理由は簡単、彼女の瞳の色。千鶴が歓声をあげる。

「いいね、瑠璃!よろしくね」

 千鶴は病気のせいで、普段は熱があるので布団からは出られない。首だけを瑠璃の方に向けて彼女にそう挨拶をした。啓は、内心困惑した。初めて千鶴を見た人間がどういった反応をするか、彼には大体想像がついていた。しかし。

「……」

 瑠璃は、千鶴を見ても眉ひとつ動かさなかった。これは、決して悪い意味ではない。千鶴の痣に覆われた顔を見ても彼女は嫌そうな顔はせず、ただ柔らかく微笑みかけたのだ。それにひどく安心させられたのと同時に、彼はひどく感謝した。


 それからしばらく、三人での生活が続いた。啓は山に分け入って薬草や木の実を採ったり、家の隣にある小さな畑を一生懸命手入れして、三人分の食料を確保した。結局瑠璃については何もわからないままだったが、そのことに関しては目を瞑ることにした。千鶴が瑠璃によく懐いていて、毎日とても楽しそうに過ごすようになったのだ。それに。

 それに啓は、瑠璃にほのかな恋情を抱くようになっていた。身近に年頃の娘がいないということも理由の一つだったに違いないが、それ以上に、彼女の柔らかい表情や仕草、時折見せる明るい笑顔に、彼は惹き付けられてしまったのだ。

 この日、啓はいつものように瑠璃に千鶴のことを任せて、薬草を採りに出ていた。行きがけの駄賃に、あたりに生えている茸も背負っている薬草籠に詰め込む。今晩は茸汁だな、などと呑気なことを考えながら家に戻った彼を、夢としか思えない、信じられない光景が待ち受けていた。

「瑠璃?」

 彼の問いかけに、彼女の名と同じ瑠璃色の双眸がそちらに向けられた。彼女がその白い手に護るようにして抱いている、眩しいものの輝きが彼の驚愕の表情を照らし出した。

「千鶴?千鶴、どうしたっ?」

 妹の様子がおかしいことに気がついて、驚きのせいで機敏さを失っている足を鞭打つ。妹の体を抱き上げると、その体はいつもよりも重く、ぐったりと力なく彼の腕に預けられた。

「千鶴?」

 その力のなさが、彼にあることを想起させる。だが、同時にそれは嘘だとも思った。抱き上げた温もりが、辛うじて彼に希望を持たせる。

「瑠璃、千鶴の様子がおかしい。俺は麓まで行って医者を呼んで来るから……」

「無駄だ」

 凛と澄んだ張りのある声に、彼の体が硬直した。それも嘘だと思いながら、彼女の方を振り仰ぐ。そこにいたのは、彼が知る少女ではなかった。普段見せていたような柔らかい表情ではなく、険しい顔付き。それが、彼女の神々しいまでの美しさを引き立てていた。

「千鶴は死んだ。これが、千鶴の魂だ」

 彼女の腕の中からその輝きを惜しげもなく放つ、それ。夕闇の迫る室内を、昼間よりも明るく照らし出す、それ……。

「千鶴の、魂?」

 愕然と呟く彼に、瑠璃は漫然と頷いて見せた。それを愛おしそうに、ある種その輝きに陶酔するかのように見つめながら、色のない唇から続きをこぼす。

「我は天界より遣わされし使者。お前たちのような純朴な人間どもの魂を刈り取る命を受けし者。神に下されし命により、お前たち兄妹の元にやって来た」

 神の御使い。つまり、彼女は天使なのだ。鈍くなった思考でも、彼の頭はその事実をなぜかあっさりと受け入れた。その、美しさ故に。だが、天使がなぜ、人の魂を刈り取る必要があるというのだろうか。

 彼の思考を読み取ったらしく、瑠璃は独りでにその問いに答えてくれた。美しい双眸に千鶴の魂の光が映り込み、瑠璃色の光に彼の瞳は吸い寄せられる。

「神の力は弱まっている。このままでは、人界のみならず、天界の維持さえ難しい程にな。そこで我々天使たちに、神の力を補うための魂を刈り取って来るよう命が下った」

 それでなぜ、自分たちに?彼の問いは、もはやその口をついて出ることはなかった。あまりの出来事に、激しい脱力感のみが彼の頭を支配する。

「天界から降りてすぐに、我はお前たち兄妹を見つけた。お前たちの魂が放つ輝きは、空まで届いた。何者にも穢されることなく育った、純朴なる魂。お前たちのような人間の魂は、神には最高の糧となる」

 一際眩しい光が彼女から放たれて、啓はその眩しさに思わず手をかざして目を閉じてしまった。光が治まったことをことを自分の瞼を通して確認してから、彼は恐る恐るその瞳を開いた。

「っ……!」

 瑠璃の背には、その瞳の色と同じ青い羽根が生えていた。蝶を思わせるそれに、啓は見入ってしまった。そしてそれは、彼女が人外の者、天使であるということを、彼にまざまざと知らせるものとなった。

「世話になったな。穢れた人界にいることすら忘れる程、お前の隣は心地良かった」

 蝶のそれには似つかわしくない羽音に、啓の目が大きく見開かれる。行ってしまうのか?自分を一人、残して……。

「……な。行くな、瑠璃!行くなーっ!」

 彼が呼び止めたのは、天界へ神の贄として導かれていく妹の方ではなく、ひと夏をともに過ごした少女の存在だった。なぜなのか、その理由も彼にはよくわかっていた。身を引きちぎられる、この痛みがそうだ。天界の生き物には通じないであろう、この心がそうだ……。

 真夏の夜の空に、瑠璃の蝶が舞った。月光を受けて星屑のように輝く鱗粉が、自分に絶望を与えた少女の名を呼び続ける青年の上に、青く降り注いだ。


 それから幾日が過ぎたのだろうか。青年は、ただ彼女が去った空を見上げながら、毎日を過ごしていた。ここのところ、記憶がひどく曖昧だった。食事をした記憶も、眠った記憶もない。だんだんと意識が朦朧としてきているのは、ずっと血を流し続けている、心のせいだろうか。

「瑠璃……」

 薄れ行く意識の中で、青年は、彼の短い人生で最も愛したその色を見た気がした……。

 ふわりと、青年の体から光の球が浮き上がる。それを、真っ白な手が抱き取った。優しく包むように抱き、色のない唇を触れさせる。少女には、光の球がほんの少し、輝きを増したように思えた。

「……お前たち人間が持つような感情というものが、我らにはわからぬ……」

 ふと、息が不自然に詰められたような気がした。その後、自分でも動揺しながら続きをこぼす。

「だが、我の瞳から溢れるこれは、何だ……?なぜこんなにも、内側が熱い?我の身を砕きそうなこの熱さは、何だ……?」

 青年が最も愛した、瑠璃色の双眸。そこから溢れるのは、穢れのない、透明な彼女の心。白い頬を滑り落ちたそれは、もう動くことのない青年の上にこぼれた。

「お前ならば、答えを持っていたやもしれぬな……」

天界の者である自分をも魅了した眩しい笑顔が、彼女の瑠璃の瞳に映っていた。二度と見られない。その事実が、やけに胸に突き刺さる……。

「……」

 青年という光を強く抱きしめて、瑠璃の蝶は痛みとともに空を舞った。夕立が、辺りに降り注いだ。

こんにちは、霜月璃音です。

思いつくままに仕上げてしまったものだったのですが、いかがでしたか。

感想、評価等お聞かせくださると嬉しいです。

短い話でしたが、お読み下さった皆様、どうもありがとうございました。

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[一言] 大変遅くなり申し訳ありません、ナナシです。 拝読させて頂きました。 個人的に、短編での恋愛小説はかなり難度が高いと思っています。悲恋となると殊更に。 というのも、悲恋は読者が主人公に対して…
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