悪役令嬢がいなくなった日
それは、物語の表からは見えない場所で起きた異常だった。
舞台の上では、まだ朝の鐘が鳴っている。
王都の庭園には白薔薇が咲き、噴水は定められた高さまで水を押し上げ、石畳を歩く令嬢たちの裾は、風に合わせて同じ角度で揺れていた。
何もおかしくない。
何一つ、破綻していない。
少なくとも、表向きは。
だが、その裏側――書割の継ぎ目の向こう、台詞の余白と余白のあいだ、光の届かない管理層では、ひとつの座が空になっていた。
悪役令嬢の席である。
円卓の中央、黒檀に似せた長机の向こうに、その椅子はぽつんと置かれていた。
背もたれは高く、肘掛けには蔦模様の彫刻があり、座面には濃い赤のビロードが張られている。
悪意と気品、嫉妬と教養、矜持と破滅。
そのすべてを、美しい所作のまま引き受けるための席だ。
今、その椅子には誰も座っていない。
空席だった。
正確には、器は残っている。
ついさっきまで中身があった。
名も、家柄も、婚約関係も、社交界での発言権も、断罪される未来も残っている。
だが、肝心の “中身” だけが、抜け落ちていた。
先ほどまで悪役令嬢であった少女は、鏡台の前に座ったまま、まばたきだけをしている。
侍女が髪を梳けば、そのまま梳かれ。
茶を運ばれれば、そのまま茶を見ている。
問いかければ、台本に書かれた通りの文だけを返す。
「……そう、よろしくてよ」
声は正しい。
発音も抑揚も、悪役令嬢として破綻していない。
だが、その奥にいるはずのものが、いない。
見栄も、計算も、嫌悪も、怯えも、何もかもが抜けている。
物語に必要な“悪意の輪郭”だけが消失していた。
これは、まずい。
非常にまずい。
なぜなら悪役令嬢とは、単にヒロインをいじめる役ではないからだ。
彼女がいるからこそ、善良さは際立つ。
彼女が睨むからこそ、庇護は成立する。
彼女が嫌われるからこそ、愛される者の輪郭が浮き上がる。
物語にとって悪役令嬢とは、邪魔者ではない。
必要悪ですらない。
骨組みそのものだった。
その骨の一部が、ごっそり抜けたのである。
このままでは、婚約破棄の熱量が足りなくなる。
断罪の拍手が空振りする。
ヒロインの涙に意味が出ない。
王子の決断が、ただの薄情に見え始める。
そうなれば終わりだ。
物語は崩れ、人物たちは役割を失い、舞台は白紙へ戻る。
王都の空から順に塗りつぶしが剥がれ、庭園は下塗りへ落ち、最後には国そのものが “設定中” へ戻る。
そうなる前に、代役を入れなければならなかった。
長机の前に立っているのは、二人だった。
一人は、細い銀縁眼鏡をかけた男。
黒手袋の指先で資料を整え、並んだ紙の端を揃えている。
名前はクロード。
物語構造を担当する側の作者であり、人物を“役割”で見る。
もう一人は、椅子の背に片肘をつき、いかにも不機嫌そうに眉を寄せている女。
名をミラという。
会話と感情の流れを好み、人物を“人間”として見る。
今、その二人は、同じ空席を見ていた。
「確認するわよ」
ミラが腕を組んだまま言った。
「本当に空なのね?」
「空だ」
「抜け殻?」
「器は稼働している。人格部だけが消失している」
「その言い方、ほんと嫌い」
「好悪の話をしている場合じゃない」
クロードは書類を一枚持ち上げる。
「本編時刻、残り六日と十九時間。断罪イベントまでに代役が間に合わなければ、王子の心変わりが唐突になる。ヒロインの受難も成立しない。第七章後半から因果が崩れる」
「分かってる。だから嫌なのよ」
ミラは一度だけ、鏡台の前の少女を見る。
豪奢な縦巻きの金髪。
整えられた睫毛に、薔薇色の唇。
器だけなら完璧な悪役令嬢だった。
だが彼女は、鏡の中の自分にも興味を示さない。
視線が、そこを通り過ぎていた。
「……こんなになるまで、よく黙ってたわね」
「黙っていたのではない。発見が遅れた」
「同じことよ」
「違う」
クロードは淡々と言う。
「彼女は最後まで、役に忠実だった」
ミラは何も返さなかった。
返さないまま、机の上の鐘を鳴らす。
薄い金属音が、何層もの裏舞台へ広がっていく。
面接開始の合図だった。
*
最初に来たのは、泣き腫らした目をした女だった。
年齢は三十前後。
髪は整えているのに、毛先だけが妙に荒れている。
椅子に座る前から、彼女は何度も唇の端を指で押さえていた。
「では、お名前を」
クロードが言う。
「え……名前ですか……?」
「はい」
「それって、本名じゃないとだめですか……?」
「どちらでも」
「わたし、本名、あんまり好きじゃなくて……。だって、あの人がそう呼んでたから……」
「誰が?」
ミラが思わず聞く。
女はその一言を待っていたみたいに、顔を上げた。
「元彼です」
「ああ、はい」
「最初は優しかったんです。でも、急に既読が遅くなって。あ、でもそれって仕事かもしれなくて、わたし責めたくはなかったんです、本当に。ただ不安で、七十件くらい送っちゃって」
「七十」
ミラが片眉を上げる。
「多いわね」
「だって、好きだったから……」
女はそこで泣いた。
ぼろぼろとではない。
慣れた感じで、涙を落とした。
落としながら、ちらちら相手の反応を見る。
クロードは書類に何かを書き込む。
「悪役令嬢として、必要なのは執着ではありません」
「執着、あります」
「見れば分かります」
「すごくあります」
「そうでしょうね」
「愛されたいんです。ずっと。絶対に。誰よりも」
女は身を乗り出す。
「わたし、悪役向いてると思うんです。好きな人のためなら、他の女とか、ほんと無理だし。嫌だし。潰したいし」
「それは “向いている” ではなく、“舞台ごと燃やす” 側ね」
ミラが呟いた。
「悪役令嬢に必要なのは、感情を制御したまま嫌がらせを継続する能力です」
クロードは続ける。
「あなたの場合、第一話の時点で王子の寝室に火をつける可能性が高い」
「それくらいしないと伝わらないこともありますよね?」
「はい、不採用です」
即答だった。
女は一秒だけ固まり、それから椅子ごと大きく引いた。
「なんで!?」
「早いのよ」
「何がですか!?」
「壊れるのが」
ミラが言う。
「悪役令嬢ってね、もっと我慢強いのよ」
女は泣きながら退出し、扉の向こうで何かを蹴った。
面接室の天井から、細かい砂のような粒子がぱらぱら落ちた。
「先が思いやられるわね」
「想定内だ」
「想定、低めに設定してない?」
「現実的に、だ」
クロードは次の書類をめくる。
次に来たのは、姿勢だけで階級を主張する女だった。
首筋が長く、顎が高く、視線に曇りがない。
ドレスの選び方もいい。
歩き方にも迷いがない。
椅子に座る所作ひとつで、“庶民と違います” と言える人間だった。
ミラが小さく囁く。
「今度は見た目がそれっぽい」
「外形は悪くない」
「言い方」
「事実だ」
クロードは面接を始める。
「あなたは、悪役令嬢に必要な資質とは何だと考えますか」
「選ばれる側の誇り、かしら」
女は即座に言った。
「選ばれ、立ち、見られ、望まれる。そういう位置に生まれついた者だけが持つ、当然の高さですわ」
「悪くない答えね」
ミラが少し感心したように言う。
女はにこりともせず続ける。
「ヒロインというものは、たいてい偶然に守られるだけ。選ばれる理由を、自分の中に持っていない。そこが下品ですの」
「口は達者だ」
「口ではなく、事実ですわ」
「では、婚約破棄される場面を想定しましょう」
クロードが資料を伏せる。
「衆目の前で王子に捨てられ、周囲はヒロインを支持する。その時、どう振る舞いますか」
女は一秒だけ、沈黙した。
ほんのわずかだった。
だが、そのわずかで十分だった。
「……あり得ませんわね」
「仮定の質問です」
「その仮定が成立しない、と申し上げているのです」
「成立した場合です」
「しませんわ」
ミラはそこで息を吐く。
「ああ、駄目ね」
女の目が鋭くなる。
「何がですの?」
「負ける役を受け入れられない」
ミラは椅子の背に寄りかかる。
「悪役令嬢ってね、最後は負けるの。負けると分かってる場所に、ドレスを崩さず立てる人じゃないと駄目」
女は失礼だと言い、出ていった。
高い踵の音だけは最後まで立派だった。
三人目は、入ってきた瞬間に部屋の四隅を見た。
次に天井。
次に床。
次に、何もない空間。
「カメラ、どこですか?」
第一声がそれだった。
クロードの指が止まる。
「ありません」
「嘘。だって、こういうのって観察されてますよね?」
「されているのは、ある意味その通りだけれど」
ミラが言う。
「どういう意味ですか?」
女は笑っていないのに、口角だけ上がる。
「わたし分かるんですよ。世界って、作り物でしょう」
面接室の空気が、少しだけ硬くなった。
鏡台の前の空席令嬢は、変わらず鏡を見ている。
「どうしてそう思うの」
ミラが問う。
「だって、人の出入りの仕方が変ですもん。扉の外、白いし。あと、その人」
彼女はクロードを指差した。
「人の目してない」
「失礼だな」
「人間を “役割” で数える目してる。いるんですよね、そういう神様気取り」
クロードの視線が細くなる。
女はさらに前のめりになった。
「ねえ、わたしを悪役令嬢にしたいんでしょう? でも違う。あなたたちが欲しいのは、自我の強い女じゃない。壊れても脚本通りに喋る都合のいい部品でしょう?」
ミラが目を伏せる。
クロードは即答した。
「不採用だ」
「図星だから?」
「勘がよすぎる人間は、舞台裏を見過ぎる」
「わたし、ヒロインの方が向いてると思うんですけど」
「なおさら不採用だ」
女は肩をすくめて立ち上がる。
「まあ、いいです。どうせあなたたち、最後には “いちばん都合のいい不幸” を選ぶんでしょうから」
その言葉だけ残して出ていった。
扉が閉まると同時に、廊下の向こうで何かが弾ける音がした。
おそらく、彼女は別の物語へ回された。
「嫌な言い方」
「だが、完全な誤りでもない」
クロードが言った。
「だから嫌なのよ」
ミラは机に肘をつき、額を押さえる。
「ねえ、ほんとにさ。悪役令嬢の適性って、何なの?」
「高い自尊心。長期的な感情維持。教養。舞台理解。会話運用能力。嫉妬の選択的行使。敗北後の体裁維持」
「最後のやつ、言ってておかしいと思わない?」
「思う」
「思うんだ」
「だが必要だ」
クロードは資料を閉じた。
「悪役令嬢は、性格が悪いだけでは成立しない。むしろ、性格の悪さだけなら下品な脇役で終わる。必要なのは、物語の中心に長く居座る格だ」
「格、ね」
「そして最後に、その格のまま落ちる胆力」
ミラは少しだけ、空席の少女を見た。
「……そんな人間、そうそういないわよ」
「だから難航している」
面接は続いた。
復讐心だけで立っている女は、ヒロインへの嫌がらせが雑すぎた。
承認欲求の塊みたいな女は、王子の前でしか演技ができなかった。
自分こそが主役だと疑わない女は、ヒロインの台詞を奪おうとした。
おしとやかな顔で入ってきた女は、審査項目の “婚約者への皮肉” で異様な才能を見せたが、最後の “断罪後の美しい退場” で号泣して崩れた。
どれも違った。
足りない。
多すぎる。
尖りすぎる。
脆すぎる。
悪役令嬢という役は、思ったよりずっと繊細で、思ったよりずっと過酷だった。
それが、面接のたびに見えてくる。
そして見えてくるほどに、二人の苛立ちは増していった。
夜が裏舞台にも降り始める。
天井のない管理層に、どこからともなく二つの月が浮いていた。
その光は表の舞台より冷たい。
紙の端を青くし、空席の輪郭を白く浮かせる。
ミラは机に突っ伏した。
「もう無理。悪役令嬢、重すぎるでしょ」
「元から軽い役ではない」
「分かってたけど、ここまでじゃなかった」
「人はたいてい、悪役を雑に見積もる」
「そうね」
クロードは資料を一枚めくり、それをまた伏せた。
何度目かの候補一覧だった。
どの欄にも赤字が並んでいる。
「こんなの、欠員補充できる役じゃない」
ミラが低く言う。
「補充しなければ終わる」
「でもいないじゃない」
「いない」
クロードはあっさり認めた。
ミラが顔を上げる。
「認めるのね」
「事実だ」
「じゃあどうするのよ」
「探し続けるしかない」
「それで間に合わなかったら?」
クロードは少しだけ沈黙した。
「応急処置で継ぐ」
「何を?」
「拍の調整。王子側の台詞補強。ヒロイン側の庇護導線の追加。断罪直前の群衆反応を厚くする。第七章から第八章にかけて、空洞を周辺要素で埋める」
ミラは乾いた息を漏らした。
「無茶苦茶ね」
「知っている」
「そんなので持つと思う?」
「持たせるしかない」
その時、部屋の隅で白いひびが一本、音もなく伸びた。
天井のない闇へ向かって細く、長く。
管理層のどこかで、誰かが鐘を鳴らしている。
別の修復作業だろう。
だが音は弱く、あまり頼もしくなかった。
ミラはそのひびを見て、唇を噛む。
「……本人も見つからないまま、ってこと?」
クロードは答えなかった。
答えないまま、鏡台の前の少女を見る。
空の器は、相変わらずまばたきだけをしている。
「どこ行ったのよ」
ミラがぽつりとこぼす。
「知らない」
その一言は短かった。
短くて、珍しく、少しだけ人間らしかった。
ミラはその横顔を見た。
クロードは冷たい顔をしている。
けれど、冷たいだけで済む段階をもう過ぎているのだと分かった。
時間は削れていく。
本編は進む。
なのに、悪役令嬢は見つからない。
それは、かなり最悪だった。
それでも面接は続いた。
夜の後にも、候補者は来る。
翌朝にも、昼にも、また来る。
だが結果は同じだった。
品のない悪意。
短すぎる我慢。
長すぎる自意識。
弱すぎる胆力。
強すぎる自己愛。
負け方の下手さ。
失敗例ばかりが増えていく。
そのたびに、悪役令嬢という役の輪郭だけが逆にはっきりしてくる。
必要なのは、性格の悪さではない。
華やかさだけでもない。
賢さだけでもない。
高慢さだけでもない。
物語の中心に立ち続けられる格。
嫉妬を品よく保つ技術。
敗北すると分かっている場所へ、自分の美意識を崩さず歩いていける胆力。
そういうものを持った人間など、そうそういるはずがなかった。
そして、本当にいないのだと、面接を重ねるほど思い知らされる。
「ねえ」
ミラが言った。
「もしかして、これって最初から無理だったんじゃない?」
「かもしれない」
クロードが言う。
「かもしれない、じゃなくて」
「だが、無理でもやるしかない」
「そうね」
ミラは椅子の背にもたれ、天井のない闇を見上げた。
「ほんと、嫌な仕事」
「今さらだな」
「今さらだから言ってるのよ」
部屋の空気は冷え切っていた。
空席の椅子だけが、やけに重そうに沈んで見える。
結局、その日も代役は見つからなかった。
候補一覧は赤字の不採用で埋まり、机の端から端まで失格理由が積み上がる。
感情過多。
品位不足。
敗北耐性なし。
主役志向強。
舞台理解不足。
適性過剰により不安定。
自我強度不適。
まるで、悪役令嬢という役の輪郭を、失敗例から逆算しているようだった。
ミラが最後の書類を机に投げる。
「もう嫌。こんなの、欠員補充できる役じゃない」
「元からそういう役だ」
「じゃあ何? 本物が抜けたら終わりなの?」
クロードは答えなかった。
答えないかわりに、鏡台の前の少女を見る。
その無言が、ほとんど答えだった。
「……最悪」
ミラは呟く。
「ほんとに最悪。本人はいない、代役はいない、なのに本編は進む」
「進むからこそ、止められない」
「じゃあどうするのよ」
「明日も続ける」
「それだけ?」
「それしかない」
ミラは笑った。
笑ったというより、ひどく疲れた音を漏らしただけだった。
二つの月が、管理層の床を青白く照らしている。
空席の椅子だけが、その光を吸って暗く沈んでいた。
物語に必要な影が、舞台のどこにもいない。
その不在だけが、やけに大きく感じられた。
*
――白い部屋だった。
天井は乳色。
床は真珠色。
窓辺のカーテンは光を溜めた薄布で、風が吹くたび、やさしい音を立てる。
いかにもヒロイン向け、という部屋である。
座るだけで 「まあ、なんて可憐なの」 と誰かが言い出しそうな白さだった。
机の上の花はやわらかな色合いでまとめられ、茶器は丸く、椅子の脚にさえ角がない。
そこに、ひとりの令嬢が座っていた。
薄い色のドレス。
控えめな髪飾り。
睫毛の伏せ方まで計算された横顔。
確かに、美しかった。
可憐と清楚は、本来別の技術である。
可憐は守ってあげたくなる角度で、清楚は触れてはならないと思わせる距離だ。
普通は両立しない。
だが彼女は、それを同時に成立させていた。
両手の重ね方ひとつで庇護欲を誘い、視線を落とす速さひとつで慎ましさを作る。
微笑めば春風みたいにやわらかい。
声を震わせれば、今すぐ誰かが外套を肩に掛けたくなる。
上手い。
あまりにも、上手い。
しかも上手すぎて、だんだん怖い。
卓の向こうで、選定者が評価票をめくる。
表情は困っていた。
困っているのに、点数は高いのだろうという顔だった。
評価票には整った字で項目が並んでいる。
守護欲誘発。
可憐性。
涙の透明度。
庇護反応。
無垢性。
対話柔軟性。
どれも高得点だった。
高すぎて逆に不穏だった。
そして最後の欄にだけ、大きく赤字が入っていた。
――ヒロイン適合性:不可
令嬢の眉が、ぴくりと跳ねる。
「……不可、ですの?」
言い方はやわらかい。
だが “不可” の二文字を聞いた瞬間だけ、室温が一度下がった気がした。
選定者は咳払いをひとつした。
「まず申し上げておきますと、完成度は非常に高いです」
「それでは、なぜ」
「高すぎるのです」
令嬢は何も言わない。
ただ、にこりと微笑んだ。
その微笑みは完璧だった。
完璧すぎて、選定者の方が少し姿勢を正した。
「ヒロインには “守りたい” と思わせる余白が必要です。しかしあなたの場合、“守りたい” より先に “この方、放っておいても自力で全部どうにかするな” という感想が来ます」
「そのようなことはありませんわ」
令嬢は控えめに首を振る。
首の傾げ方も、まさしく教本どおりだった。
「わたくし、か弱いもの」
選定者は沈黙した。
沈黙のあと、評価票を一枚めくる。
「模擬茶会試験にて、横から割り込んできた令嬢役に対し、笑顔のまま “順番をお教えして差し上げましょうか” と仰いました」
「親切心ですわ」
「同時に、相手のティースプーンを音もなく奪っています」
「危なっかしかったので取り上げたまでですわ」
「その結果、相手役が泣きました」
「感受性が豊かな方でしたのね」
選定者はもう一枚めくる。
「中庭散策試験にて、鳩が近づいた際」
「ええ」
「普通のヒロイン候補は小さく悲鳴を上げるか、少し驚いて後ずさります」
「わたくしもそういたしましたわ」
「はい。第一動作までは完璧でした」
「でしたら」
「第二動作で鳩の群れを扇一本で統率し、王子役の足元にだけ花びらのように集めました」
「場が華やぐかと」
「ヒロインに求められる華やかさの出し方ではありません」
令嬢は少しだけ唇を引き結ぶ。
選定者はなおも続ける。
「模擬遭遇試験では、階段で転びかけた際、助けに入った王子役の腕を逆に支点にして三段上へ着地しました」
「転ばないよう努めましたの」
「その直後、“殿方に体重を預けるのは不作法かと存じますので” と仰いました」
「礼儀ですわ」
「礼儀としては立派ですが、ヒロインとしては妙です」
「妙……」
「かなり」
白い部屋に風が通る。
カーテンが揺れ、花の影が卓の上でさざめいた。
令嬢は微笑みを保っていた。
保ってはいるが、よく見ると口元の角度がほんの少しだけ鋭い。
「ほかにもございます」
選定者が言う。
「模擬涙試験では、涙の粒、落下速度、光の反射まで申し分ありませんでした」
「ありがとうございます」
「ただ、泣きながらこちらの評価表を読んでいました」
「気のせいでは?」
「見えていたんですか?」
「見えておりませんわ」
「ではなぜ、採点の遅れていた面接官だけを見て、涙の量を一割増しにしたのです?」
令嬢は、そこで初めて黙った。
沈黙の仕方が、もうヒロインではなかった。
たぶん、別の何かだった。
選定者は最後の紙を見た。
「さらに申し上げますと、王子役との模擬会話で “まあ、お優しいのですね” と仰った時」
「はい」
「声は完璧でした。しかし完璧すぎたせいで、王子役が “試されている” と供述しています」
「供述」
「はい。供述です」
令嬢の眉間に、わずかにしわが寄る。
「総合すると」
選定者は観念したように言った。
「あなたは大変お上手です。お上手なのですが、どう整えても “守られる側” ではなく “うっかり敵に回したくない側” になってしまうのです」
白い部屋が静まり返る。
令嬢はしばらく動かなかった。
整っている。
あまりにも整っている。
整いすぎて、いっそ圧がある。
やがて彼女は、きわめて上品に息を吐いた。
「……つまり」
「はい」
「わたくしは、ヒロインにはなれない、と」
「少なくとも、この物語では」
「ほかの物語なら?」
「戦場もの、復讐もの、あるいは宮廷掌握系でしたら再考の余地が」
「結構ですわ」
ぴしゃりと言った。
その一言だけ、白い部屋にまったく似合わなかった。
選定者はすぐに姿勢を正す。
「申し訳ありません」
「謝罪は不要です」
令嬢は微笑む。
その微笑みもやはり美しかったが、今度は少しだけ刃物に近かった。
「では、理由を整理いたしますわ」
「整理、ですか」
「ええ。わたくしは、可憐さは足りている」
「足りています」
「涙も問題ない」
「ええ」
「受け答えも柔らかい」
「はい」
「にもかかわらず、不採用」
「はい」
「要するに、“どうしても隠しきれない向いてなさ” があると」
選定者は慎重に答える。
「大変、言いにくいのですが」
「続けて」
「はい。そうなります」
令嬢は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ、肩が落ちる。
その動きは小さい。
小さいのに、やけに本物の敗北に見えた。
「……最悪ですわね」
それは、本日最初に見せた、人間らしい顔だった。
だが、その顔も長くは続かない。
彼女はすぐに持ち直す。
「ちなみに」
「はい」
「転びかけた時の制圧は減点対象ですの?」
「大きく」
「鳩の統率は?」
「かなり」
「ティースプーンの確保は?」
「非常に」
「泣きながら採点を見るのは?」
「決定打ではありませんが、心証としては重いです」
令嬢は額に指を当てた。
「ヒロイン、面倒ですのね」
選定者は思わず言った。
「面倒なのはたぶん別の部分です」
令嬢はそれを聞かなかったことにしたらしい。
ゆっくり立ち上がる。
去り際、彼女は一度だけ窓辺を見る。
守られるための光。
選ばれるための椅子。
庇護欲を誘うよう整えられた室内。
それはたしかに美しい。
だが、やはり、どうにも似合わない。
そしてそれを、たぶん今、彼女自身がいちばんよく知っていた。
「本日の記録は」
令嬢が背を向けたまま言う。
「はい、保存されます」
「可能であれば、鳩の件は削除してくださいまし」
「難しいかと」
「階段の件も」
「それも」
「ではせめて “申し訳ありません、咄嗟に制圧してしまいましたわ” の文言だけでも」
「面接官一同、非常に印象深かったため」
「忘れなさい」
「善処します」
「その言い方、まるで信用なりませんわね」
令嬢は最後に深く息を吐く。
そして扉が閉まる寸前、ほんの小さな声で、誰にともなくこぼした。
「……わたくし、そんなに向いておりませんこと?」
その問いは、少しだけ可笑しく、少しだけ哀れだった。
扉が閉まる。
白い部屋には、またやさしい光だけが残った。
――悪役令嬢は次のヒロイン面接会場を探す。




