距離感って何だろうなぁ。
馬車が止まった。
御者が手綱を引きながら、のんびりした声で言う。
「着いたよ。ここがホロロ村だ」
俺は荷物を肩に担ぎ、馬車から降りた。
最初に感じたのは、静けさだった。
風が麦畑を揺らす音と、鳥の声だけが耳に届く。
「……本当に静かだな」
王都を出てきた理由を、誰かに説明するつもりはない。
人の声と依頼と雑務に囲まれ続けて、気づけば心のどこかがずっと疲れていた。
かといって、完全に一人で山に籠もるほど強くもない。
人はいるけど、踏み込んでこない場所。
そんな場所を探して旅をしていたとき、「外の者に干渉しない村がある」と聞いた。
それがホロロ村だった。
まずは数日、宿にでも泊まって様子を見るつもりだった。
村の入口を抜けると、中央に井戸があり、
そのそばで老人が桶を洗っていた。
声をかけるべきか迷ったが、このまま立っていても仕方がない。
「すみません。宿はありますか?」
老人は手を止め、俺をじっと見た。
値踏みするような視線だが、敵意はない。
「宿はないな。旅の者が来ること自体、珍しい村でな」
「そうなんですか。数日だけ滞在できればと思ったんですが……」
老人はしばらく考え、ようやく口を開いた。
「わしは村長のオルドじゃ。泊まる場所なら、一軒だけ空いておる家がある。誰も使っとらん。雨風をしのぐくらいはできる」
「えっ、いいんですか?」
「どうせ空き家じゃ。ただな――」
オルドは俺をまっすぐ見た。
「この村は昔から、よそから来た者とはあまり馴れ合わん。そのつもりでおってくれ」
「わかっています。しばらく静かに過ごしたいだけです」
オルドは短く頷いた。
「なら問題ない。ついてこい」
余計なことは聞かない。
馴れ馴れしくもしない。
その距離感が、今の俺にはありがたかった。
案内された家は、村の外れにぽつんと建っていた。
古いが、屋根はしっかりしている。
「誰も使っとらんから、埃は積もっとる。
気になるなら、自分で片づけてくれ」
「はい。大丈夫です」
掃除くらい、自分でやるのが当たり前だ。
オルドはふと振り返った。
「長くいるつもりなら、村のやり方に合わせてくれ」
「はい。気をつけます」
オルドは短く頷き、去っていった。
家の中に入り、荷物を置く。
窓を開けると、麦畑が風に揺れていた。
「……いい場所だ」
ベッドに腰を下ろし、そのまま横になった。
(今日は、何もしないで寝よう)
そう思って目を閉じた――そのとき。
外から、かすかな物音がした。
何かが倒れたような音。
悲鳴でも叫びでもない。
(……気になるな)
俺は起き上がり、外へ出た。
畑の端で、少女がしゃがみ込んでいた。
怪我をしているわけではない。
ただ、困ったように地面を見つめている。
声をかけるべきか迷ったが、放っておくのも気が引けた。
「大丈夫?」
少女は驚いて振り返った。
目が合うと、少しだけ身構える。
「あ……すみません。
ちょっと、手間取ってて」
畑の端には、折れた鍬が転がっていた。
「鍬が折れたのか?」
少女は迷いながらも頷いた。
「はい。この辺り、土が固くて……」
俺は一歩近づきかけて、ふと足を止めた。
「……村長さんに“馴れ合うな”って言われたけど、
これは手伝っても大丈夫?」
少女は少し驚いたように目を瞬いた。
「……頼んだわけじゃないです。
ただ、困ってただけで」
「なら、少しだけ触らせてもらうよ」
少女は半歩だけ下がった。
警戒はしているが、拒絶ではない。
俺は土を指でつまみ、軽く崩した。
(魔力の流れが悪いだけだな)
「少し整えるよ。すぐ終わる」
「え……?」
手をかざすと、土がふわりと柔らかくなった。
少女は驚いたように目を見開いた。
「……すごい。でも、どうして……?」
「見てたら気になっただけだよ」
少女はしばらく黙っていたが、
やがて小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます。
私はミナです」
「ルーク」
「……よろしくお願いします、ルークさん」
その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
家に戻ると、夕日が差し込んでいた。
(……悪くない一日だったな)
事件も、騒ぎも、何もない。
ただ、静かな暮らしが始まっただけだ。
(しばらくは、このままでいい)
そう思いながら、俺は目を閉じた。
2日目、鳥の声で目が覚めた。
昨日は移動の疲れもあって、ほとんど倒れ込むように寝てしまった。
窓を開けると、麦畑が風に揺れていた。
静かで、空気が澄んでいる。
「……悪くない」
家の外に出ると、村はすでに動き始めていた。
井戸の周りで数人が水を汲んでいる。
俺が近づくと、ちらっと視線が向けられたが、
誰も声はかけてこない。
ただ、軽く会釈すると、同じように返してくれた。
(この距離感、助かるな)
畑の方を見ると、ミナが鍬を持っていた。
昨日より動きが軽い。
声をかけるか迷ったが、ミナの方が先に気づいて、軽く頭を下げた。
「おはようございます、ルークさん」
「おはよう。土、昨日より柔らかそうだな」
「はい。作業がしやすくなりました」
それだけ言うと、また黙々と作業に戻った。
必要以上に話さないところが、この村らしい。
俺も無理に話を広げず、そのまま歩き出した。
村の外れを散歩していると、薪を割っている老人がいた。
俺に気づくと、ちらっと視線を向けてくる。
「昨日、村に来た若いのじゃな」
(見られてたのか)
「はい。ルークです」
「村長から聞いとる。
あの空き家を使っとるんじゃろ」
「はい。助かっています」
老人は薪を割る手を止めずに言った。
「不便はないか」
「今のところは大丈夫です」
「そうか」
それだけ言って、また薪に向き直った。
歓迎でも拒絶でもない。
ただ、必要なことだけを言う。
この村の人間関係は、どうやらそういうものらしい。
夕方。
家の前で風に当たっていると、村長のオルドが通りかかった。
俺に気づくと、少しだけ足を止めた。
「どうじゃ、あの家は」
「快適です。静かで」
「ならよい」
オルドは短く頷き、歩き出した。
数歩進んでから、振り返る。
「……村の者は、よそ者と馴れ合うのが得意ではない。あんたも、無理に踏み込まんでええ」
「わかっています」
オルドはそれ以上何も言わず、去っていった。
家に戻ると、夕日が差し込んでいた。
麦畑が赤く染まって揺れている。
(……こういう日が続けばいい)
事件も、騒ぎも、何もない。
ただ、静かな一日が終わるだけだ。
(しばらくは、このままでいい)
そう思いながら、俺は家の中へ戻った。
3日目、外に出ると、香ばしい匂いが漂っていた。
麦を焼いたような、落ち着く匂いだ。
「……いい匂いだな」
匂いのする方へ歩いていくと、小さな家の前に数人の村人が集まっていた。
みんな家の方を向いて、無言で立っている。
(何か待ってるのか)
よそ者の俺が当然のように混ざるのは気が引けて、少し離れた場所から様子を見る。
しばらくすると、扉が開き、エプロン姿の女性が姿を見せた。
「はい、お待たせ。順番にどうぞ」
村人たちが次々とパンを受け取っていく。
(パン屋か)
俺がぼんやり眺めていると、女性がこちらに気づいて歩み寄ってきた。
「見ない顔だね。最近来たのかい?」
「ええ、二日前に」
「そうかい。私はターニャ。ここでパン屋をやってるよ」
ターニャはにこっと笑い、紙に包んだ小さなパンを差し出してきた。
「よかったら味見しておいで。初めての人には渡してるんだ」
「ありがとうございます」
少し離れた場所で包みを開け、ひとかじりする。
「……うまい」
素朴で、噛むほどに甘い。
気づけば、あっという間に食べ終わっていた。
(朝からいいもの食べたな)
ふと振り返ると、村人たちがこちらをちらちら見ている。
(……絶対見てるよな)
“よそ者に興味ありません”という空気とは違う。
むしろ、興味津々だ。
パンの余韻を感じながら歩いていると、畑の方でミナがこちらに気づいた。
「あ……おはようございます」
「おはよう。ターニャさんのパン、もらった」
「美味しいですよね。あの人、新しい人が来ると……その……気になるみたいで」
「気になる?」
「いえ、悪い意味じゃなくて。ただ、珍しいので」
(珍しいから見てくるのか。いや、見すぎじゃないか?)
ミナは鍬を持ち直し、また作業に戻った。
昼過ぎ。
村の外れを歩いていると、川のそばで網を直している男がいた。
俺に気づくと、軽く顎を上げる。
「二日前に来たやつだな」
「はい。ルークです」
「ガルドだ。魚を獲ってる」
淡々とした声だが、ちらちらとこちらを見てくる。
「……何か?」
「いや。よそ者が来るのは珍しいからな」
(またそれか)
ガルドは網を直しながら言った。
「この村は馴れ合わん。だが、困ったら言え。魚くらいなら分けてやる」
「ありがとうございます」
「別に気にするな。
馴れ合わんだけで、冷たいわけじゃない」
(いや、十分かまってきてるんだが)
ガルドはまた網に向き直った。
夕方。
家の前で風に当たっていると、村長のオルドが通りかかった。
俺に気づくと、少しだけ足を止めた。
「どうじゃ、あの家は」
「快適です。静かで」
「そうか。村の者は、よそ者と馴れ合わん。
必要以上に関わってこんじゃろ」
(いや、めちゃくちゃ関わってきてるんだが)
「……まあ、はい」
オルドは満足げに頷いた。
「ならよい」
そう言って去っていった。
家に戻りながら思う。
(馴れ合わないって言う割に、みんな普通に話しかけてくるよな……)
でも、悪い気はしなかった。
(……まあ、いいか)
静かで、適度に距離があって、
でも完全に放っておかれるわけでもない。
(この村、案外ちょうどいいのかもな)
夕焼けを眺めながら、そんなことを思った。
4日目。鳥の声で目が覚めた。
昨日と同じはずなのに、少しだけ違う気がする。外に出ると、村の空気は澄んでいて静かだった。
……静かなはずなのに、家の前を通りかかった村人が、なぜか一瞬だけこちらを見た。
(……まただ。いや、本当に見てたか?気のせい……じゃないよな)
昨日からずっと、こんな調子だ。”干渉しない”と言っていたはずなのに、視線だけはしっかり寄越してくる。距離を取るのか取らないのか、どっちなんだ。
村の中央を歩いていると、ターニャが店の前を掃いていた。
「おはよう、ルークさん」
「おはようございます」
「昨日のパン、どうだった?」
「美味しかったです」
ターニャは満足そうに頷いた。そのあと、なぜか俺の背後をちらっと見る。
「……誰もついてきてないね?」
「え?」
「いや、なんでもないよ」
(なんでもなくはないだろ。ついてくるって何が?…いや、考えすぎか?)
ターニャは何事もなかったように掃除を続けた。
畑の方へ歩くと、ミナが鍬を持っていた。昨日よりも表情が柔らかい。
「おはようございます、ルークさん」
「おはよう。今日も畑か」
「はい。……あの、昨日、村の人たち、ルークさんのこと、けっこう見てましたよね?」
「やっぱり見てたのか」
ミナは少し困ったように笑った。
「この村、村の人以外に慣れてないので……気になるんだと思います。
でも、本人たちは“気にしてない”つもりなんです」
「気にしてないつもりで、気にしてるのか」
「はい。……めんどくさいですよね」
「まあ……そうだな」
ミナは苦笑し、また作業に戻った。
(気にしてないつもり、ね。距離を置きたいのか置きたくないのか……どっちなんだ)
昼過ぎ。川のそばを歩いていると、ガルドが網を直していた。
「おう、ルーク」
「こんにちは」
「……昨日、パン屋にいたな」
「見てたんですか?」
「いや、見てない。村のやつが言ってた」
(……本当に見てないのか?いや、絶対見てただろ)
ガルドは真顔で続ける。
「この村は馴れ合わん。だが、村の人以外が何してるかくらいは把握しとく」
「それ、馴れ合わないって言うんですか」
「言う」
(言うのか…。距離感の概念が独特すぎるだろ、この村)
ガルドはまた網に向き直った。
夕方。家の前で風に当たっていると、村長のオルドが通りかかった。
「どうじゃ、あの家は」
「静かで助かっています」
「そうか。村の者は、村の人以外と馴れ合わん。
必要以上に関わってこんじゃろ」
(今日だけで三人に話しかけられたんだが。本当に“関わってない”つもりなのか?)
「……まあ、はい」
オルドは満足げに頷き、去っていった。
家に戻りながら思う。
(馴れ合わないって言う割に、全然そんな感じじゃないな)
正直、少し疲れる。
だが、王都のように踏み込んでくるわけでもない。
距離はあるのに、視線だけは寄越してくる。
(……距離感どうなってんだ、この村。いや、俺が気にしすぎ……ではないよな)
呆れに近い感情が浮かぶ。
けれど、完全に嫌悪というわけでもない。
ただ、妙に気になる。
夕焼けを眺めながら、静かに息を吐いた。
(とりあえず……もう少し様子を見るか)
そう思って家に入った。
五日目の朝。
外に出ると、村の空気はいつも通り静かだった。
……静かなはずなのに、家の前に誰かが立っている。
ターニャだった。
「おはよう、ルークさん。ちょっと聞きたいことがあってね」
「なんでしょう」
ターニャは妙に真剣な顔で言った。
「昨日、ルークさん……ミナと話してたでしょ?」
「話しましたけど」
「それって……その……仲良くなったってこと?」
「いや、ただ挨拶しただけです」
ターニャは胸をなでおろした。
「よかった……」
「よかった?」
「ううん、なんでもないよ」
(なんでもなくないだろ)
村の中央に向かうと、今度はガルドが待ち構えていた。
「ルーク」
「はい」
「ミナと……どうなんだ」
「どうって?」
「いや、その……心の距離が近づいたのかと」
「挨拶しただけです」
ガルドは腕を組んでうなずいた。
「そうか。なら安心だ」
「安心?」
「いや、なんでもない」
(なんでもなくないだろ)
畑に行くと、ミナが鍬を持っていた。
俺を見るなり、顔を真っ赤にして固まる。
「お、おはようございます……!」
「おはよう」
ミナはしばらくもじもじしてから、
意を決したように言った。
「その……昨日、村の人たちが……
“ルークさんと心の距離が縮まったんじゃないか”って……」
「いや、挨拶しただけです」
「ですよね……!」
ミナはほっとしたように笑った。
「私、村の人以外と話すの慣れてなくて……
だから、みんな勘違いして……」
(なるほど。つまり村全体で勘違いしてるのか)
夕方。
家に戻ろうとすると、村長のオルドが立っていた。
「ルーク」
「はい」
「ミナと……どうなんじゃ」
「どうもこうもありません。挨拶しただけです」
「そうか。ならよい」
オルドは満足げに頷いた。
「村の者は、村の人以外との心の距離を測るのが苦手でな。
すぐ“仲良くなった”と勘違いする」
(知ってる)
「じゃが、ミナは真面目な子じゃ。あまり期待させるようなことは言わん方がええ」
「挨拶しただけです」
「うむ。挨拶は期待させる」
(いや、どんな村だよ)
家に戻りながら思う。
(心の距離を測るのが苦手ってレベルじゃないだろ)
挨拶しただけで村全体がざわつくなんて、どれだけ閉じたコミュニティなんだ。
でも、ふと気づく。
(……俺、今日だけで何人に“どうなんだ”って聞かれた?)
数えたくもない。
思わず笑いがこみ上げてきた。
(心の距離を測れないのは……もしかして俺もか?)
そう思った瞬間、家の前にターニャがまた立っていた。
「ルークさん!」
「……なんですか」
「ミナが“挨拶してくれて嬉しかった”って言ってたよ!」
「それは普通の反応では?」
「つまり……心の距離が縮まったってことだね!」
(いや、違うだろ)
ターニャは満面の笑みで言った。
「村の人以外と心の距離が縮まるなんて…ルークさん、すごいよ!」
(いや、挨拶しただけなんだが)
五日目にして、俺はこの村の“心の距離”という概念が壊滅的に信用できないことを悟った。




