悲しみを認識するのは知性である
オスカーワイルドは「悲哀のあるところに聖地あり」と『獄中記』の中で書いている。これは本当のところだろう。
ワイルドは、男色の罪で牢獄に入れられ、過酷な生活の中で、悲哀というものの重要性に気づいた。その事に『獄中記』で触れている。
ドストエフスキーは「私のホサナは地獄をくぐり抜けてきた」と言っている。(ホサナとは神を讃える言葉) ドストエフスキーもまた牢獄に入れられて何かを学んだ人間だった。
例えば、「ドストエフスキーのような小説を書きたい」と言っている村上春樹の「ホサナ」は一体どういう地獄をくぐり抜けてきたのだろうか、と私は考えてしまう。村上春樹のホサナは、ごく浅い場所しか通行してこなかった為に、極めて物質的な、また現世的な資本主義の論理と合体してしまう。村上春樹にとってのホサナ、すなわち彼の求める救いとは、救いへの渇望が地獄を通行してこなかった故に、既存の現実とすぐに癒着してしまう。「地獄」とは何かと言えば、現実の最も深い淵に他ならない。
「悲哀のあるところに聖地あり」とは悲哀そのものがひとつの聖地とも考えられるし、また悲哀の感情が聖地の場所を照らし出す、とも考えられる。
しかし悲哀のないところにも人は聖地を求めるものである。例えば「異世界ハーレム物」は、現実には自分の欲求は叶わないと諦めた人間が、この世界とは違う世界に自分達の世俗的欲望を叶えに行く、そういう物語と解釈できる。
しかしこうしたコンテンツを楽しむ人々には悲哀はない。あるいはあっても、その感情を認めようとはしないだろう。
これはいわゆる「オタク」に限った事ではなく、大衆全般がそうだ。大衆が好きなのは笑いであり、喜びであり、溜飲が下がるような何かなのだ。
現代のメディアにはしょっちゅうお笑い芸人が出てくる。中には、顔がブサイクな事が売りの「ブサイク芸人」なんてものも出てくる。
ベルクソンは「笑い」を精密に分析したが、笑いというのは外面的な感情である。笑いというのは、いつも他人の表面を見て起こるものである。それに対して悲哀というのは内的であり、自己と向き合う感情だ。
チャップリンが子供の頃に見たという羊を例にとって考えてみよう。
食肉加工工場から一匹の羊が逃げ出した。逃げ出した羊は、羊を捕まえようとした人や、通行人に対して暴れまわった。人々はドタバタ劇のように転んだりして、その様が実に可笑しく、喜劇的だった。
しかしこれを羊の身になって考えてみると、悲劇となる。というのは羊は捕まると、食肉加工工場に戻されて、殺されてしまうからだ。
この時、羊の暴れまわる姿を見て笑い転げるのは、羊と人々の外面的な動作を見て笑っているのである。一方で、羊の内面について考えた時にはじめて悲哀を感じ取れる。
例えば、老齢の人間が急に陰謀論に走ったり、偏狭なナショナリズムに走ったりするのは何故だろうか。私は、彼らは自己の存在の衰亡を感じてはいるのだが、それに対して"悲哀"という感情を持てないが故に、その苛つきを外側に転嫁しているように感じる。
同じような事はたくさんある。自分が置かれている状況に人が満足できない時、ほとんどの人間はその感情を外側に向ける。彼らは自己と対峙しない。彼らは全て外側の責任にする。
オスカーワイルドは男色で牢獄に入れられた。過酷な生活を強いられたが、「獄中記」を読む限り、自分を牢獄に入れた世界に対する恨み言を彼は書いていない。むしろ彼はそこで自分自身と出会ったのである。彼は他責する代わりに、牢獄の中で自分と向き合ったのだ。
人が自分と向き合う時に現れる感情が悲哀である。悲哀を感じる時はじめて人は、自分自身と対するのである。ワイルドが体験したのはそれに違いないと私は考える。
昔の中国の詩人、フランスの詩人、日本の詩人、多くの偉大な詩人が、自己の存在の儚さ、虚しさを歌っている。これは偶然ではない。自己の存在の虚しさを感じ取る精神というのは、知性が自己と向かい合っている状況である。
ほとんど全ての人は自分自身から逃げ出す。彼らは自分から逃げ出す事しか考えていない。その果てに様々なものが生まれる。
哲学者のシェストフが例として出していた民話がある。あるアフリカの民話で、病に取り憑かれていたライオンが目の前の猿を八つ裂きにしたという話だ。
一見、何の内容もない話だが、これと全く同じ事をしている人々が現実にもネットにも、腐るほどに溢れている。彼らには自分の病、自分の苛つき、自分の精神というのがわからない。目につくのは他人である。それで彼らは他人に拳を振り上げるのである。
もちろん猿を八つ裂きにしたところで病は治らない。どこかの国や組織が自分達を攻撃しており、それ故に自分達はいつも不満足に置かれているという繰り返されるストーリーを、病んだ大衆は好む。彼らは自己から逃避する為に生贄になる猿を探し続ける。彼らは繰り返し猿を八つ裂きにする。いくら八つ裂きにしても病は治らない。
悲哀とは知性が認識する感情である。詩人が知性的なのは、自らの存在と向かい合う時に、理性が彼から分離して、彼自身を見る為なのだ。
悲哀は自己の存在を形どる。一方で、喜びは自身を全体に溶け込ませる。我々の喜びや快楽について考えてみよう。我々はその瞬間、"自分を失っている"のである。自分を自分よりも大きな何かに溶け込ませる事、そこに喜びがある。
一方で悲しみは自己を世界から切り離し、ひとつの存在として結晶させる。こうして自己ができあがる。それ故に自己の存在の定立と、悲しみの感情は切り離せないものに私は思える。
「悲哀のあるところに聖地あり」とは、更にその奥に広がる共同体をイメージしている言葉に私は感じる。
ワイルドが唐突にキリストの話を出してくるのもその為だろう。キリストとは、全ての悲哀を持つ人間にとっての象徴なのである。つまり、キリストとは、自己が世界から分離され、世界から消失していく事がわかった人間が、その拠り所として最後に心に浮かべる存在なのだろう。
悲哀によって人は自己と向き合うが、その自己の向こうには、多くの悲しみがあり、その悲しみには歴史的に積み重なった、様々に犠牲になった人々がいる。そしてその象徴としてキリストがいる。ワイルドが抱いたイメージはそのようなものではないか、と私は考えている。
 




