(2)生きる意味はなぜ問えるのか?2
「哲学には、正確にはその中の現象学って言うものの中に本質直観ていう手法があるの。これは意識の中にあるものをあるがままに正確に記述する方法で、簡単に言うと、目の前にある本は、普通そこに本があるから私たちはそこに本があると思うわけよね?でもこれを逆にして私の意識の中に本の像があるから、そこに本があると認識してるって言う思考や解釈の順番を逆にしてとらえる手法のことなの」と島津川さんが一気に言った。
「は、はあ…」私はそう答えるのが精一杯である。逆にとらえる…ほう…それと人生の意味とは?とやや理解が追い付かないでいると、おそらく島津川さんもその私の状態を理解したらしく
「まあとりあえず聞いて。さっきみるくが恋人ができても公表しないのは、ファンのイメージを壊したくないからとみるくが言って、それに対して私が公表することでファンが離れるのが怖いからと言ったわよね?これってさっきも言ったけど、どっちとも言えるわよね?」
「そうね」
「この場合はどちらとも言えてどっちが正しいのかなんてわからないけど、でもね、論理を追い詰めていくとある片方の側からしか言えなくなるところって言うのがあるの。それを探求するのが哲学とも言えるわ。哲学を全く知らない人のイメージとはちょっと違うのかもしれないけど」
「なるほど…ってことはつまり?」と私は言った。
島津川さんの言わんとしていることはわかってきたがしかし、人生の意味と言うのはそれで分かるものなのかしら?という疑問がまだぬぐえない。正直私は、あえて答えられない、ちょっといじわるな質問をしたつもりなのである。
「つまり、人生の意味というものがなぜ問えるのかって?考えられるの。さっきも言ったように、目の前に本があるからそこに本があるという場合と、意識の中に本があるからそこに本があるように思っているともとれるわけよね?だから、人生に意味があるから、意味を問えるんじゃなくて、意識の中に生きる意味を問わせる何かがあるから、生きる意味が存在できるってことなの。いい?繰り返すけど、生きる意味が存在するから意味があるんじゃなくて、生きる意味を問題にする意識の働きがあるから生きる意味って言うのが意識の中に存在できているわけ。くどいようだけどここが重要なんでまとめるけど本ていうのは物体よね?そして人生の意味って言うのはなんとなく観念的で高尚で深遠なものってイメージがあって両者はとても同列に語れないものに感じるわよね?でも現象学ではそこをただ意識の中に存在するものとして全く同列に扱うのよ」
「な、なるほど…そういう視点で見れば確かに物体も観念も意識の中では同格なのね…でも、じゃあ生きる意味を問題にする意識の働きって何?」と私は聞いた。
参考図書
竹田青嗣著
「意味とエロス」「エロスの世界像」「自分を知るための哲学入門」「現象学入門」「ハイデガー入門」「現代思想の冒険」など