デート代はどちらが出すべきか 還元、本質直観 3
「前にも言ったけど哲学の基本テーマとして主客一致問題って言うのがあるのよ。私が見ているもの、つまり主観と、現実のそれ、こっちは客観ね、これが本当に同じかっていうやつね。それでデカルトの時代にもその議論があって、ある懐疑論者がいつものように今見えてるものは本当に現実のそれか?それをどうやって証明するんだ、というわけよ。この懐疑論者の疑問は一見バカみたいな極論に聞こえるけど、これにもそれなりの理由が実はあるのよ」とうつつちゃんが言った。
「その懐疑論者も性格がねじ曲がってるわね~。そいつ絶対モテないわよ」と私は言った。
「ここでカントの言った人間とは推論の能力だって言うのをまた思い出してほしいんだけど、これは疑う能力と言い換えてもいいわけね。つまり理性の疑う能力というのは、時間の始まり以外にも人間の認識とかにも働くわけよ。前に言った通り、理性の推論の能力というのは、その推論ができるところまでならどこまでも行こうとする働きがあるって言ったわよね?」
「ああ、そういえば、この世界の原因が仮に神様だったとして、じゃあその神様は誰が作った?という疑問が当然湧いて、以下エンドレスにそれが続くってやつね」
「そう、それよ。だから人間の認識についてもそうやって推論の能力を使えば、論理的には疑おうと思えば疑えるってことなの。でもデカルトがすごいのはだったら行けるとこまで行こうじゃないかって言ったとこなの」
「ほう。行けるとこまで?」
「つまり、見えてるもの全部が幻想だとしよう。何だったら肉体も幻想だっていい。でも逆にそれを突き詰めると今度はどうしても否定できないものが存在するわけ。それは今それを幻想と考えている意識、それ自体の存在ね。認識したもの自体の真偽というのは疑えるけど、それを疑っている意識や自我の存在は当然疑いようがないわけよね?だってもう疑うということをしてしまっているわけだから」
「なるほど。たしかに」
「これが有名な、我思うゆえに我ありってやつなんだけど。フッサールはデカルトのこの思考法に注目したのよ」
「なんか、背理法みたいね」
「よく知ってるわね。正確には方法的懐疑って言うんだけど、あえて戦略的に懐疑の能力を最大限使ってその限界がどこかを明らかにする方法なのよ。ここでさっき言った、現象学の還元を思い出してほしいんだけど、それは意識にあるものしか存在を認めないっていう理念っていったわよね?」とうつつちゃんが言った。
「あ、そうだった。そういう話だった」と私は言った。そういえば時間とは何かと聞いたのは私の方だった。




