プロローグ
管理カードをかざす。
カードには何も書かれていない。
それをスキャンした、コンピュータが。
わたしに話しかける。
「お疲れ様です、三本 茂さん、センサー感知体温計36.7℃正常です、感染症リスクはありません、お仕事お疲れ様でした」
そのアナウンスが終わるとラボの扉が開いた。
重い音をたてながら開いた扉の先には、エレベーターホールがあった。
ゆっくり歩いて、エレベーターに乗り込むと、ゆっくりと上昇する。
受付を通り過ぎて、入り口の風景を見て、今が朝であることを認識する。
そんなに働いていたのかと、ふらふらしながらも。
ここの勤め先がブラックだとか、そんなことを考えたことはない。
わたしが好きな研究をしているのだから。
家に向かって歩きながら。
ふと、不安になってくる。
今日この時間までかけて書いた、スポンサー向けのお願いのことだ。
ちゃんと誤字はないか?
もしかして、失礼な言い回しになってないか?
そんなことばかり、不安になった。
家に帰るテンポが少し早くなる。
心配というのはすぐに体に現れる。
心理というのは、いつの時代でも隠せないものである。
いそいそと自宅に行くと。
家の端末にアクセスする。
端末からは。
生体認証を経て。
わたしのデータにアクセスできる。
それを見ながら、今日作ったお願いことに目を通す。
………………
…………
……
我々は長年の争点であった、ニューラルネットワークと。
並列処理コンピュータとの論争に決着をつけました。
その発想は極めてシンプルで、とてもわかりやすいものです。
その2つを融合させればよかったのです。
そんなのは不可能だ、可動アクチュエーターの問題にかなり悩まされました。
しかしそれらは、革新的な生物工学の分野において。
2070年代ごろ、解決に向かったのです。
iPS細胞から端を発したその学問は、長い時間をかけ進化し。
やがて、複雑な神経細胞ですら、再現できるようになりました。
それが鍵でした。
作成した神経細胞の中に、ナノサテライトプロセッサーユニットを配置し。
中枢部分の大きなセントラルプロセッサーユニットをネッワトークにより接続することでありとあらゆる処理能力を人間に近づけたのです。
そのテクノロジーは、医療の現場で役に立っています。
聴力の弱い人をきこえるようにしたり。
失明した人に、疑似的に景色を見せることにも成功しました。
製品の神経細胞に移植し、脳に、ナノサテライトプロセッサーユニットが生物本来のシナプスに近い信号を送ることにより。
旧世紀では諦めざるを得なかった、そんなことも可能としたのです。
次の課題は、脳障害がある人の脳を蘇らせたり。
心臓が弱い人にペースメーカー埋め込みの負担をかけず。
神経細胞からの信号をコントロールし、その人の生命を最適な状態に維持することになります。
本来ならこの段階に到達するためには何十年もかかると言われ続けていましたが。
皆様の暖かい寄付により。
実現に向かいつつあります。
このたび、このような案内をお送り致しますのは。
皆さんの継続的な寄付を賜り。
これからも、この人工ニューロンネットワークの完成。
そのあかつきには。
孤独な人間がいなくなる社会を目指しまして。
研究が続けられますよう。
願いを込めつつ、このご案内を送付させて抱きます。
何卒、ご協力いただければ誠に嬉しく思います。
より良い世界を維持するため、よろしくお願いいたします、
責任者 三本 茂
………………
…………
……
こうやって目を通してみて、不自然なところはなさそうだ。
と確信を得てから。
端末に支持する。
「後援会の皆さまに、このテキストをメール」
それを認知した端末は、メールを送る。
かなり人数がいるので、しばし待つだけである。
その間に洗濯物を片付けてしまう。
固形洗剤の残量や、柔軟剤を気にしつつ。
スイッチを押す。
ゴトゴトと、音を立てながら回っていく。
あとは洗濯機がやってくれるから。
そのまま次の作業に移る。
冷蔵庫の中身を確認しながら。
レトルト食品。
キッチンにある味噌汁を取り出す。
レトルトをレンジで調理しつつ。
お湯をガスコンロで温める。
どちらも電気だと。
かなり電気をつかうので。
少しばかりの気遣いである。
それらが仕上がるまで、テレビをつける。
ニュースチャンネルでは。
最近のニュースが流れている。
身近で起こっている事件から。
海外での凶悪事件まで。
ぼんやりと眺めながら。
やはり、孤独な人。
孤独な老身の事件が目立った。
こういった事件を見るたびに。
幼い日のことを思い出してしまう。
自分のおじいちゃんのこと。
少し、悔しいその記憶に。
なんともいえない切なさを感じた。
そんなことを感じている間に、政治のニュース。
お年寄りの、施設に関してやっていた。
そのタイミングでヤカンが沸騰したので、止めにいく。
そろそろご飯はできそうだが、レトルトがあと少し。
そろそろいい感じかな?
なんて思った時、耳に馴染みのあるメロディが聞こえた。
来客である。
応答する前に、モニターで確認する。
するとそこには。
別会社の開発者。
岩渕さんの姿があった。
応対すると。
「こんにちは、研究結果をお届けにあがりました」
とこたえる。
岩渕さんのとなりには、見たことのない女の子が立っていた。
色素の薄い茶色がった髪の毛。
鋭く落ち着いた眼差しがとても印象的だった。
どうぞと言いながら。
その娘と2人を案内する。
このマンションは、部外者が一切入れないようになっており。
この人は、不法侵入ではない。
ということを伝えると。
ゲートが開く。
そして2人はマンションに入ってくる。
2人が到着するまで少し、部屋を片付ける。
部屋の前に着いた岩渕さんがノックする。
扉を開けると。
そこにはさっきの2人が立っていた。
「どうも三本さん、お久しぶりです」
「岩渕さん、お久しぶりです、そちらの方は、新人さんですか?」
応対して、声をかけてから気がついた。
新人さんにしてはスーツは着てないし。
私服である。
「…………」
そしてなんの反応もない。
少し困ってしまって、沈黙していると。
「ほら、三本さんにご挨拶は?」
そう言われて女の子が。
「はじめまして、HS-098プロトタイプです」
女の子から、少し冷たい感じで、そんなこえがきこえた。
「えっと? えいちえすさん?」
パッと反応ができず。
ドギマギした返しになってしまう。
「三本さん、この娘が三本さんが研究なさっていた、人工ニューロンネットワーク搭載型のプロトタイプになります」
「え……ああ……」
ますますわからなかった。
確かに人工ニューロンネットワークの理論図は、岩渕さんにわたしたけど。
何を言っているのか、実はよくわかってなかった。
「すみません、詳細お話ししたいので、中に入っても、よかったですか?」
言われて、この2人が入るのをわたしが阻んでいるのだなと。
気がついて中に通した。
来客用のスリッパをはいた2人は。
リビングに行き、2人並んで、ソファーに腰掛ける。
たいしたものはないから、ティーバッグをマグカップに入れて、人数分用意する。
2人にお礼を言われ。
お茶菓子を出して、前に腰掛ける。
「こんにちは三本さん、今日はグッドニュースなんですが、HS-098をお届けにあがりました」
「岩渕さん、実は話が見えてないのですよ、それに今日はいつものケースも持ってない」
「ははは、そうですよね、なんのことか、わからないですよね、説明しますね」
三本さんはそう言いながら。
仕様書をはわたしてきた。
薄いパンフレットのようなもので。
そこのパンフレットに目を通す。
………………
…………
……
HS-098仕様書。
視覚、16K解像度マイクロカメラ左右搭載。
聴覚、生活圏内、全ての音を感知可能、虫の羽音も検知可能。
味覚、有毒、無害のものを検知、パートナーに、有害なものを食べさせない。
嗅覚、有毒、無害のものを識別可能、危険を察知して、パートナーの安全を確保。
動力、独自規格バッテリー、食事を摂ることで充電可能、呼吸でも充電できる、呼吸のみでは20年、食事を摂ることにより、最大120年の稼働が可能。
骨格、金属繊維を編み込んだ、特殊カーボンファイバー骨格、衝撃に強く、折れることはない、骨格の内部に、衝撃吸収ゲルが入っており、本体内部へのダメージを軽減、いかなる事故がおころうとも、パートナーの孤立を防ぎます。
………………
…………
……
などと書いてある。
この先の説明は、はっきり言ってよくわからない。
オートバランサーとか、スタビライザーとか。
わたしにはさっぱりだった。
「なるほど、大まかな仕様はわかりました、かなりの、スペックなんですね」
「ありがとうございます、やはり、孤立の原因には、死別がありますからね」
「しかし驚いた、前回は脳の再現ができた、ってのを聞いてたのに、まさかこんな形で完成しているとは」
「そうなんです、でも我が社も外部には情報出せませんから、一切お見せできなかったわけです」
「それは、お互い様だから仕方ないですけど、しかし、予想以上のものが出来てきましたね」
「そう言ってもらえると嬉しいです、そして、今回HS-098を預ける理由なんですが、三本さんのところで、学習のデータをとりたい」
「データですか? どんなことを教えればいいんですかね?」
「それは普通の生活のことでいいんですよ、料理や洗濯、掃除などです」
「そこは、最初から入ってないんですか?」
「残念ながら、覚えていません、それは配属される国により、やり方が違いますしね、宗教や生活習慣の違いで、食べれるもの、食べられないもの、ありますからね」
「なるほど、世界中が日本方式じゃないですからね」
「そうやって理解してもらえると、とても助かります、それで、今回のテストは、決まった期間に全てを覚えられるかです」
岩渕さんはそう言いながら、リストを渡してきた。
家事全般や、人への配慮。
それが終わったら、職場での振る舞いなど。
事細かに、その項目が記されている。
「なるほど、これを覚えさせるのに、どれくらいかければいいんです?」
その質問をうけて、岩渕さんは考えていた。
しばしの沈黙の後、ゆっくりと息をして。
指で3を作る。
「え? これだけの内容3日ですか?」
「いえいえ、3ヶ月です」
「びっくりした、あまりにも短いと思いました」
岩渕さんは、連れてきた娘に自己紹介を促す。
「さあ、三本さんにご挨拶しなさい」
「はい、HS-098型、人工ニューロンネットワーク搭載アンドロイドです、三本さんのご要望で、どのようなことでも学習します」
その娘の口から出たのは、まるで氷のように冷たかった。
現在の通話用端末のガイドのような、そんな無機質さを感じた。
「いかがですか? 三本さん?」
岩渕さんがニコニコしながらそう聞いてくる。
返答に詰まった。
なんと言えばいいのか。
この娘も、人口ニューロンネットワークを持っているということは。
不自然とか、不気味とか。
そんなことを言ったら。
面白くない、感情を抱くだろう。
そして、この娘は、介護や、子育て。
さまざまな用途を前提として造られている。
こんな話し方では、子供が泣いてしまうかもしれない。
少し悩んんだ。
「HS-098さん、少しこの動画。見てほしい」
そう言って、通話用端末に動画を映し出す。
選んだのは、今人気のアイドル。津島 ひなの自己紹介動画。
それを見ながら。
この娘は画面に食い入るように見ていた。
そして見終わると。
ゆっくりと顔を上げた。
「このように自己紹介すればいいのですか?」
「そうだね、この方が初めて会った人は、安心するから」
そう促すと、HS-098はコホンと咳払いをしてから。
息を吸い込むと。
「こんにちわぁ〜、HS-098ですぅ、16歳、スリーサイズは上からぁ……」
「まって、まって、わたしの説明も悪かったけど、今のはとってもよかったよ、年齢と、スリーサイズは言わなくていいから」
「はい、学習しました」
この返答の時、また、冷たい声に戻った。
少し悩んだ。
この娘が自然に話せるように、どうしたら、誘導できるのか?
そして心の中で、言葉を整理して。
言葉を絞り出す。
「そうだね、さっきの話し方をもとに、他の言葉に応用できる?」
「少しお待ちください」
HS-098はそう言いながら、少し考え込む。
この動作は設計仕様知っているが。
いま、学習変更を、すべて置き換えている。
そして、30秒くらいして。
「はぁい、学習しましたぁ〜」
そう返事する。
はっきり言って、言葉を失うクオリティだった。
その声の高さ。
イントネーションからすべて、津島 ひなのうりふたつだった。
「かなりいいと思う、あとは語尾を伸ばさなければ、キミらしくなると思うよ」
「はい、学習しました」
同じ言葉だけど、さっきとはイントネーションが違う。
早く話す、津島 ひなのって感じだ。
「いやあ、驚きましたね」
岩渕さんが、話してくる。
「どうしたんです? 岩渕さん?」
「我が社の研究ラボでは、アクチュエーターの試験だけだから、少しの会話で、ここまで変わるんだなと、驚いてるんです」
「わたしも驚いてます、わずかな学習で、ここまで学習するとは、ところで、提案があるのですが、岩渕さん」
「はい、なんでしょう?」
「HS-098というのは長すぎますよね、なんとか短縮できないでしょうか?」
「短縮ですか、098とかはどうですか?」
「番号で呼ぶのは、監獄みたいで、嫌ですね」
「HSというのは?」
「それではあまりにも、機械的だ」
「なるほど、それなら、名前を決めましょうか?」
「名前か、考えてなかった」
そう返してから、しばらく悩んだ。
名前、といきなり言われても、前もって考えていたわけではないし。
かなり悩んでしまう。
まさか、ラッキーとか、ハッピーとかはつけれないし。
かなり悩んでしまう。
「そうですね三本さん、この娘に、どうなって欲しいですか?」
「そうですね、慈悲深い女性になってほしいですね、どんな困難があっても、子育てできるような」
「子育てがうまい女性というと?」
「そうですね、わたしの母が浮かびますが、母の名前は呼びたくないですね」
「となると、有名なお母さんの名前がいいですね」
「有名なお母さん、そうですね、わたしの持ってる知識では、キリスト教の聖母マリアが浮かびましたね」
「それでいきましょう」
「マリア」
「いい名前です」
そう頷いてから、岩渕さんは言葉を続ける。
「HS-098、わかったかい、今から君の名前は、マリアだ」
「学習しました」
たった今、HS-098にはマリアという名前がついた。
早速呼んでみる。
「マリア、これがあなたの名前だよ」
「はい、三本さん」
「マリア、握手をしよう」
そう言って手を差し出す。
マリアは少し戸惑いながら、わたしの手を握った。
人口ニューロンネットワークが正常に作動した瞬間である。
感動のあまり、涙が目に溜まり目が潤んだ瞬間であるが。
こぼれ落ちはしなかった。
マリアはぎこちなくにこりと笑った。
その、青い目からは優しさすら感じる。
危うく、そのまま泣いてしまいそうだったが、なんとか堪えて、わたしも笑顔を作る。
それに応えてマリアも手を握ってくれる。
とても嬉しかった。
そんな感無量の状態で、私たち2人の生活が始まった。