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海の音~ウミノウタ~

作者: 涼海 風羽


 歌声が聴こえる。


 潮騒が響く海辺で、僕は顔をあげた。


 ひんやりと湿った風が汗ばむ頬を撫でた。


 水平線に太陽が沈んでいく。


 誰もいない夏の浜辺で、僕はたしかに彼女の歌声を聴いた。




挿絵(By みてみん)




 七月、僕は一人、夜の浜辺にいた。

 好きな歌を、ここなら思いきり歌えるから。


 歌で生きていく。子どもの頃から抱いている、ただ一つの夢だ。

 素敵だと思わないか? 好きなことを通じて、誰かを元気づけられるのなら。


 けどまあ……現実は簡単にいくほど甘くない。僕を見てくれる人なんてほとんどいない。


 夢。


 響きばかりで手ざわりはなく、蜃気楼のような、いずれは消える幻想だ。


江藤夏樹(えとうなつき)、歌います」


 ともあれだ。たくさんの星と広い海を眺めて大きな伸びをする。


 喉を鳴らし、呼吸を整える。ひと気のないこの海は、歌うのにぴったりの場所。


 揺れる水面が見えるくらい、今夜は月が明るい。


 深い色をした海はやすらかに揺れている。


 いっそ足を踏み入れて、その奥底まで沈んでいこうか。


 そんな縁起のわるい冗談は、あたりの暗さに湧きでる不安のまけんき。


 眼を閉じる。肩の力を抜く。潮の香りをたっぷり吸う。


 そしてゆっくりと、まぶたを上げる。


 口をひらけば、明るいメロディが心に走った。


 歌うのは、まっすぐな気持ちをこめた歌。


 歌が好きだ。


 すなおな想いを音に乗せ、僕はありのままに夢を描く。


 夜空に輝く星たちへ、この砂浜から手を伸ばし、遠くに浮かぶ未来を語る。


 想いのままに言葉の響きを音で紡いだ、自分のための応援歌。


 ここは、そう。観客のいないコンサートの会場だ。


 僕には見える。月明りのスポットライトに、果てが見えない大きな会場。


 風は観客たちの圧倒的な迫力で、潮騒は彼らのやまない拍手のようだ。


 海は僕を認めてくれる。


 いつかを夢見る僕のために、ひとときの『いつか』を与えてくれる。


 世界の夢はいま僕だけにあり、世界の夢は僕が音によって紡ぎ出すんだ。


 目に見えないものを伝えることが、表現者のよろこびだから……。


「……なんだろう?」


 ふとした事に気がついて、僕は歌うのをやめた。


 僕は、耳を澄ました。


 海の音に紛れて聞こえてきたのは……誰かの歌う声だった。


「きれいだ……」


 思わずそうこぼした。


 気づけば歌声に導かれ、僕は浜の小高い崖の上。


 岩陰から覗き込むとたくさんの人影がうごめいている。


 何をしてるんだろう。


 不思議に思って見ていると、その輪の中で一つだけ目を惹く姿が中心にいた。


 少女だった。


 一人の少女が、歌っていた。


 ごつごつとした崖の上。旋律を奏でる細い影。


 たおやかな子だと思った。けれど確かにある情熱が大きな瞳を輝かせている。


 星空を背負う少女。その光景はまるで一枚の絵画を見ているようだった。


 だけど『きれい』と言いたかったのは景色じゃない。


 歌声だ。


 夜に響く澄んだ声。


 海と空の境界をつむぐ糸ように、繊細でのびやかな自然の広がりを思わせる。


 言葉すら一つひとつが胸の奥を撫でるよう。


 音色の響きは、透き通った絵の具のはけで、心の柔らかい所に染み込ませるよう。


 美しい……ただ一言の感じた言葉。誰もがそう思ってしまうに違いない。


「どうだ彼女、見事だろう」


「え?」


 不意に男性が話しかけて来た。随分とくたびれている。


「皆、毎晩あの歌を聴きに来るんだ」


「はあ」


「どうした、きみは近くに行かないのか」


 少しとまどいながらかぶりを振る。


「本当に素晴らしい歌声だ。あの子の歌は、この世の嫌な事をすべて忘れさせてくれる……」


 男性はそう言って、少女を囲む輪に消えて行った。


 それから僕は少女の歌を岩陰から聴いていた。


 聴いたこともない歌が風に乗って耳に届き、やがて少女の歌は終わった。


 僕は動かなかった。理由は単純。


 心が震えてしまっていたから。


 動けないんだ。余韻で力が抜けていた。


 背中を岩に預けている。


 感動した……。


 そうか僕は、彼女の歌に感動したんだ。信じられない、だって僕がこんなに…………。


「……彼女は誰なのだろう」


 夜風に吹かながら、ぼうっと夜空を見ていたその時だった。


 きみが話しかけてきたのは。


「星がきれいですね」


 耳に届いた透き通った声。僕は慌てて振り返った。


「こんばんは」


 あの少女が、そこにいた。


 白い。最初に受けた印象だった。


 後ろ手を組んで微笑を向ける彼女はまさしく、あの歌声の少女に違いなかった。


 なんて綺麗な声なんだろう。あの少女が自分に話しかけるんだなんて。


 胸が高鳴る。


 日焼けのない肌は、夜の中でも白さが分かる。


 清楚な雰囲気を醸していながら、あどけなさを感じるのは、大きな黒目のせいだろう。


 僕は言葉に詰まっていた。


 その可憐さは、さわれば散りそうな花のようで、口をきく事さえためらわれる。


「ずっといたのでしょう? ここに」


 僕の生んだ沈黙を、少女はやさしくほどいた。


 落ち着きのある大きな瞳と視線が絡むと、胸の鼓動は不思議と静かになっていった。


「……気づいていたの?」


「ええ、もちろん」


 少女は長い髪を風に揺らして、その目に僕を映すと、くすりと笑う。


「きみは一体……」


 何だか気恥ずかしくて、うつむきがちに尋ねる。


「わたし、歌が好きなんです」


「歌が?」


 少女は小さく笑う。


「こうやってみんなの前で歌って、みんながシアワセになれるのなら、わたし嬉しいんです」


 楽しげに話す少女に、おずおずと僕は言う。


「うん、それ……すごく伝わった。なんだか元気をもらえた気がするよ」


 すると少女はぱっと目を大きくして、こちらに向き直った。


「本当ですか?」


「本当だよ。きみの歌、すごく素敵だった」


「うれしい……ありがとうございます」


 少女の顔がほころんだ。自然な笑顔につられて僕の表情も緩んでいく。


 少女は岩から立ち上がり言った。


「あなたも歌が好きなのでしょう?」


「分かるの?」


「聴いてましたよ、浜辺から届いてくるあなたの歌。とても素敵でした」


「いや、おれなんて」


「本当です」


 少女はくるりとワンピースをひらめかせ、空に浮かぶ月を見た。


「わたし感じました。あなたの歌を想う気持ち。歌が本当に好きなんだってまっすぐな気持ち……わたし、あなたの歌とても好きです」


「おれの歌を、好き?」


「はい」


 そう言って少女は瞳を閉じた。静かに息を吸い、歌い始めたのは僕の知らない歌だった。


 それは伴奏のないア・カペラ。明るい夜に響く歌。


 無邪気に歌う白い姿が、僕を幻想世界に引き込んでいく。


 美しい旋律に抱かれた世界。夜空の星が地上に降りてきたようだ。


 星々が散る海辺の崖は、まるで別世界の空気で満ちた。


 ……好きか。


 初めて言われたよ、そんな事。


「……みおです」


「え?」


 歌い終えた彼女はぽつりと言った。


「みおと言います、わたしの名前。海の音と書いて、海音」


 海音と僕は、その夜、いろんな事を話した。


 僕は彼女の知らない街について話をした。彼女は海の話を僕にたくさん聞かせてくれた。


 海音の言葉の端々からは、この海が本当に好きなんだと伝わってきた。


 あぁ、もちろん。歌の話も思い思いに語り合えた。


 海音は目を輝かせながら音楽について楽しそうに話してくれる。


 子どものように笑う子だなあ……。


「夏樹さんって、よく笑う人ですね」


「……そうかな?」


 海音は不思議な少女だ。


 出会って間もない僕らが名前を呼び合うまでに、多くの時間はいらなかった。


 浜辺に波がよせてはかえす。


 緩やかな世界の中で、僕らは月の進むはやさを忘れて、夢中で語り合っていた。


「いけない、こんな時間だ」


「どうしました?」


「下宿先のおやじさんが心配してると思うんだ。そろそろ帰らないと」


「そうですか……どうか気をつけて帰ってくださいね」


 名残惜しそうに海音は言う。ありがとう、と言いながら僕は腰を上げる。


「そう言えば海音、きみは? よかったら送ろうか」


「いいえ、わたしは迎えが来るので」


「そうなんだ、じゃあ行くね。楽しかったよ」


「こちらこそ、夏樹さんとお話しできて良かったです」


 海音に見送られて僕は帰り道を駆けだした。


 ……十歩くらい進んで、立ち止まる。


「なあっ、また明日っ、きみの歌を聴きたい!」


 振り返って言う僕に、海音はにこりと笑みを浮かべて手を振った。


「わたしはいつでもここにいますよ」


 満天の星空の下で髪をなびかせる彼女は、やはり美しかった。


 潮の香る風のなか、夜道を走る僕の心は、穏やかな昂ぶりを感じていた。




 翌朝はおやじさんの野太い声で目を覚ました。


 学校が夏休みの今、僕は知り合いの紹介で働きに来ていた。


 バスを幾つも乗り継いで、何度も山を越えた村にある海水浴場。


 地図にも乗らない小さな海でも、水は青くて浜は白い。密かに人気の場所らしい。


 そこで唯一の休憩施設がここ……僕の働く海の家。


 切り盛りするのは、真っ黒に日焼けしたおやじさん。とにかく腕が太くて、胸が分厚い。


 いかにも海の荒くれ者。じゃなくて、海の男と呼べるだろう。


 海の家の朝は早い。おやじさんの機嫌を損ねる前にと支度を済ませ、たった二人の仕事場にあくびをこらえて出て行った。


 山を越えた田舎とは言え、夏の海は大賑わいだ。


 今日もお客さんの数はすさまじく、息つく暇もなく押し寄せる人、人、人。


 ……海の家にはいろんな人がやってくる。


 突然おどりだす酔っぱらい。


 店内で水鉄砲を乱射しまくるガキンチョども。


 そこはまぁ、大人の対応で何とか対応できる範囲。


 厄介なのはだらだら居座るアベックだ。こんな暑い時期にくっつかなくてもいいじゃないか。しかも混んでる時にイチャつかれると堪らない。追い出す役目は僕がしている。


「さっさと海に沈んで来い」


 そんな感じの海の日常。


 僕とおやじさんは嵐のように小さな店をくるくる回る。


 この生活があと二週間も続くと思うと、ちょっと人嫌いになりそうだ。


 厳しい昼間とうってかわって、夜には静寂がやってくる。


 この村に宿というものは無いから、みんな日暮れと共に帰るのだろう。


 夜の帳が降りて訪れるのは、安息の時。


 空をあおげば星が煌めき、耳をすませば脈打つ海がささやきかける。


 この安心感、まるで大きなゆりかごに抱かれているかのよう。


 たしかに疲労は重たいけれど、今の街では感じられない開放的な落ち着きは、鉛のような心と体を癒してくれる。


 案外、ここでの暮らしも悪くない。


 海辺の崖へ通うようになって数日が過ぎた。


 寝付くのが早いおやじさんの元から抜け出すのはもはやお手の物。


 カレンダーは八月のページをめくり、海の近くでも夏の夜は蒸し暑い。


「やっぱり来てくれていたんですね」


「海音、今日もすごく良かったよ」


「ありがとうございます、和樹さん」


 岩陰から顔を出していつものあいさつ。


 今夜も彼女は、多くの人を前にして幸せそうに歌っていた。


 彼女の歌は、他で耳にしないものばかり。


 すべて自作の曲らしい。だからといって拙いなんて事はない。どれをとっても心震わす作品ばかりだ。


 飾らない言葉は心に届く歌詞として。


 柔らかな旋律は心安らぐ音楽として。


 ときおり彼女そのものが歌じゃないかと思えてしまう。


 海音の歌に関する才能は常人のそれではない。


 海音は言っていた。歌でたくさんの人をシアワセにしたいと。


 彼女ならきっとできると思う。いいや、きっとできる。


 でも不思議に思うんだ。


 海音を慕う人はたくさんいるのに、どうして街に出ないのだろう。




 お盆が過ぎ、夜の海から人影はぱったりと消えてしまった。


 その頃、僕は海音から歌を習っていた。


 というよりは習うというか、教えあうかな。


 いや、それを言うなら語るというか。


 まあ、とにかく歌っていた。


 お互いに歌いあって感じたままを話すだけだ。


 僕らの時間は話してるより歌ってる方が長かった。


 このひと時は昼をがんばるための居場所。歌こそ僕にとって幸せそのもの。


 言葉を超えた喜びが、海辺の夜に詰まっていた。


 海音は不思議な少女だ。そばにいると安心感が湧いてくる。


 自分に芯を持っているからだ。


 恥ずかしいけど、どうやら僕は彼女のやさしさに癒されている。


 いつかお返しをしたいと思っていた。


 そんなある晩。


「夏樹さん、お願いがあるんです」


 帰り際、海音は僕を引きとめた。珍しくしおらしい。


「歌を作ってください」


「歌を?」


 海音はこくんとうなずく。


「この海で感じたことを、歌にしてほしいんです」


 こちらを見つめる眼差しに、不安のような揺らぎが見えた。


「おれが」──彼女の歌を作る──「わかった」


 僕は、あっさりうなずいた。


 彼女の頼みだ。理由なんて問うのは野暮さ。


 ……なんて言えたら、どれほどイケた男になれたか。


 単純に嬉しかったんだよな。彼女に頼りにされたのが。彼女に歌を贈る?


 最高じゃないか。


 僕の答えで海音の頬に赤みがさす。


「ありがとうございます!」


 何度も頭を下げられた。


「嬉しいなぁ。ふふ、約束ですよ?」


「いいよ、任せておいて」


「いつも何を感じてますか、和樹さんはこの海に来て?」


「毎晩おやじさんのイビキがうるさい、とか?」


「もうっ、まじめな質問なんですよ!」


 頬を膨らませ海音は笑った。つられて僕も一緒に笑う。


 夏休みは、残り十日。一曲作れない事はない。


 理由なんて、いつか話してくれたらそれで良い。


 あれこれ考えていると聞き覚えのある曲が耳に届いた。


『ぼくが笑っていたいのは、きっと明日も笑うため。


 いつか晴れる日が来るから。きっと大丈夫だよ。


 ぼくは雨の空でも、きみと繋ごう、その手を』


 僕の歌を、海音が歌っている。


 僕の作った音楽を彼女は元気に奏でてくれた。盛り上がりで和音を乗せると、海音ははにかみ続きを歌う。混じりけのない、まっさらな笑顔。


 薄い雲のかかった半分の月が昇る夜。ゆるやかな時間に音楽の色が添えられる。


 ああ、楽しい。晴れやかな気持ちの僕がいて、隣で海音が笑っている。


 この笑顔が見られるのなら、少しだけ頑張ってみよう。


 そんな風に思った。




挿絵(By みてみん)




 次の日、客足が落ち着いて、僕は空のテーブルで歌詞を考えていた。海音と交わした約束の歌を書くために。


「おい、夏樹」


 厨房から名前を呼ばれた。


 おやじさんは麦茶が入ったグラスを手に、席の近くへやってきた。


 さて。


 音楽をしていると、耳が良くなる。


 感受性がよくなると言うべきなのか、人の口から出た声の音で、細かな響きの違いを聞き分けられる。それは主に、相手の感情だったり。


 だから今、僕を読んだ声の主は、これからとんでもない事を言うつもりなのだと僕に予感させていた。皿を洗えとかのレベルじゃない。


「お前、夜中にどこ行ってんだ?」


「さささて、ななな何のことやら」


 予感できても、逃げられるとは言ってない。


 おやじさんの荒くれ者みたいな顔が近づく。正直とても怖い。


「分かりやすいなお前。気づいてないと思ってたか」


 ずずい、と角ばった顔が視界を占める。


 この眼に嘘を言おうものなら、明日の魚のえさにされそう。


 おやじさんが訴えてるのは、僕の予想で合ってるはずだ。


 住み込みで働きに来ている身分で、夜に出歩くとはけしからん。。


 ましてや異性に会っているとはなんて不純な……いや、そんな事はしてないけど!


 おやじさんは昔気質(かたぎ)な人だしな……そういう責めをするつもりだろう。


 とにかく、謝っておくべきだ。


「すみませんでした!」


 額をテーブルに押しつけた。


 怖い、すごく怖い。おやじさんは怒ると何をするか分からない。


 けど後悔も遅い……今の僕は、後の祭りでほぞを噛んでる袋のねずみ。


 祇園精舎の鐘の声に、閑古鳥がハモってる。


 僕は身を硬くして、ただ鉄拳が頭に落ちたあと、受け身をとれるかどうかを考えていた。


 それから先は謝り続けるか、反抗するか、そもそも意識があるのかどうか……。


 そんな事を考えて十秒も経っただろうか。いや、経っていない。


 おやじさんは言った。


「なにに謝ってんだよ」


「はい?」


「毎晩そこらへんで歌の練習してんだろ、クソ真面目なお前のことだから。熱心もいいが、あんまし夜更かしすんなよ。潮風浴びると風邪引くぞ」


 おやじさんは麦茶のグラスを一気にあおぐと、空いたテーブルを片付け始めた。


「え……あっ、はい」


 おやじさん……実は、案外いい人?


 僕の返事に合わせて、外でトンビがまぬけに鳴いた。


「そのかわり」


 食器を重ねたおやじさんは自然な感じで言葉を継いだ


「海辺の崖には近づくなよ」


「……柵もないし危ないですよね。気を付けます」


「それがいい。あの場所だけはやめておけ」


「……なにかあるんですか?」


「別に何もねえよ、ほら、食器溜まってんぞ」


 一瞬だけ、眉間に暗いものが浮かんだ。そんな風に見えたけど、おやじさんは手際よく片付けを進めていく。僕も手伝おうと席を立ったその時。


「なあ大将の話ちゃんと聞いてたか?」


 奥から笑い声が聞こえた。カウンター席に頬杖ついた赤い顔が僕を見ている。


 酔っ払いか。


 あの客は、たしか朝から酒ばかり飲んでいた。


「よく考えてみろ、大人が子供にダメっていう理由をよ? 大概見られたくないウラがあるからに決まってる!」


「ちょっとお客さん、困りますよ。ウチの若いのに絡むのは」


 おやじさんが僕に巻きつこうとする酔っ払いの手を払いのけた。


「んま、誰かやらかすと思ったんだよ、あんな場所。フツー考えりゃまず行かねえもんな」


「夏樹、お前は相手にしなくていい。奥で食器洗ってろ」


 いつもなら社会勉強だ、とか率先して僕に行かせるはずなのに、おやじさんの様子が変だ。


「ま、そもそも辺鄙な田舎さ。これくらい話題性のあった方が客を呼べるし、金も儲かる」


 声の大きな酔っ払いは近くにいるだけでも、顔をしかめたくなる。吐息に酒の匂いが濃い。


「キミもそう思うだろう?」


 いきなり男が、身を前に乗り出した。


 その拍子。


 男の腕がテーブルの上の皿を殴った。


 皿は宙を舞って床に落ち、やがて割れ、あたりに破片と料理をばら撒いた。


 おやじさんの作った焼きそば。僕が最初に来た晩に、おやじさんが作ってくれた得意料理。


 ソースの味が濃かったけれど、僕はそれが気に入っていた。初めて会った僕のために馴染んでもらおうと料理を振る舞う、おやじさんの気遣いを感じていたから。


「んだよ、誰だよこんな所に置いたやつ。大将、この皿、いくら?」


 男は面倒くさそうに財布を出して、一番額の大きな紙幣を二、三枚覗かせる。


 ……それが、物を壊した相手への態度か?


 胸にトゲが生えてくる。けれど僕はまずこう言った。


「この海は素敵な場所ですよ、悪く言うのはよしてください」


「おい夏樹」


 下品な声が笑いとばした。


「綺麗事を! 金がなけりゃ何をする、何ができる? 所詮この社会はな、金の動きの読めねえ奴から夢も語れず負けてくんだよ!」


「…………」


「最近の若い奴は世間知らずだな。ここは一つ、この海のウラとは何か教えてやるよ」


「結構です」


 そう言ったにも関わらず、男は天井を指差して、叫んだ。


「幽霊だっ!」


「は?」


 大きな声でなにを言うかと思えば、そんな事か。


 幼稚な冗談しか言えないのか、酔っ払いとは。


「ちょっと昔、崖から落ちて死んじまった人間がいるらしいからな」


 らしい、だと。所詮は噂話に過ぎないってこと。


 気の毒だけど、僕より年上の中年男性が話すにしては、おそまつにもほどがある。


「しかもそこは今、知る人ぞ知る……」


 酔っ払いは続けて何か言っている。


 いや分かったから。


 いい歳こいてそんな話は勘弁してくれ。


「分かりましたから、ちょっと静かに……」


「お客さん」


 その時、雷が落ちたかと思った。おやじさんの野太い声が店の中に轟いた。


 テーブルの上には、伝票が叩きつけられていた。


「お会計は、三千四百円です」


 いつもは愛想のいい台詞。


 だけど今は、いつもの愛想はかけらも無かった。


「あ……う……」


 水を打ったように静かになった男の口は、何か言おうと魚のように必死に動く。


 だけど結局、声を発することは無かった。代わりに財布から出した紙幣を四五枚、テーブルの上に放り出し、店から逃げ去るように出て行った。


 蝉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。


「はい、冗談っ!」


 おやじさんが僕の方に振り返って、歯を見せた。


「……冗談にしては怖すぎますよ」


「悪かった夏樹、驚かせたな。度が過ぎる奴にはこれが効くんだ」


 他にお客がいなかったから良かったものを……おやじさんの厳つい顔がすっきりしたように笑っている。


「今のは忘れろ。さ、洗い物がたまってるぞ。仕事だ、仕事」


 そう言って床に散らばった皿の破片と焼きそばを、オイオイ嘆いて集め始めるおやじさん。やっぱりなんだか様子がおかしい。


 その背中は、震えているように見えた。




「どうしました夏樹さん?」


「わっ」


 ぼんやりと波の往来を眺めていると、海音が顔をのぞき込んできた。


 足元から視線を上げる。


「じぃっと遠くを見て、考え事ですか?」


「ううん、何でもないよ」


 そんなに浮かない顔を僕はしていただろうか?


 小首をかしげて、考えるそぶりを見せる海音。やがてぱちんと手を合わせた。


「曲はできましたか?」


「もうちょっと時間をくれない?」


 まだ一日しか経ってない。


 彼女は笑う。


「冗談ですよ、でも楽しみにしてますからね」


「うん。いいアイデアが浮かんでるから、待ってて」


 嘘をついた。昼間から何も浮かびやしなかった。


 後になって気がかりになってきた。


 酔った男のあの言葉が……じわりじわりとにじみ出てくる戯言が。


「わぁ、たのしみ!」


 ああ、もうよそう。僕には関係のない話。


 早く歌を作って、彼女を喜ばせたい。


 考えるのはそれだけで充分だ。


 足元の砂を軽く蹴った。


 飛び散る砂が、打ち寄せる波に揉まれて、消えた。


「ところで、夏樹さん」


「何だい?」


 大きな瞳がこちらを向く。僕の姿がそこにうつった。


「生の歌と死の歌って、知っていますか」


「……生の歌と死の歌?」


 こくんとうなずいて、海音は続ける。


「わたし思うんです、歌には人に生きる力を与えたり、奪ったりする力があるって」


「与える方が生の歌だとしたら、死の歌は」


「人を死なせる歌です」


 不意に海音から視線が外れた。


「それを、どうして?」


「何となく、思ってたんです。生の歌は人を元気づける歌。それとは反対に、この世界にない安らぎを与える歌もある。どちらの方が人はシアワセになれるんだろうって」


 海音の歌声は人の心を動かす力がある。彼女自身もやはり分かっていたんだろう。


 深く胸に届く歌がきっと、人の感情すらも左右するかもしれないとも。


「ううん、おれは生の歌、かな。生きていれば楽しい事は山とあるだろうし」


「では、死ぬ運命を避けられない人が聴くとなれば?」


「……そうか」


 重ねられた問いに息を引っ張った。


 たしかに、生きる望みがある人を元気づけるなら生の歌がお似合いだ。


 けど、命の終わりを悟った人にとって、最期を安らかに迎えられるのは……?


 選べない。僕には優劣をつけられない。


 続く命と終わる命。


 それぞれを歌は導く事ができる。


 歌が導く命の行く末の価値を、僕は答えることができないと思う。


 たぶん、ずっと。


「人のシアワセって、結局は心の持ち方次第なんでしょうか」


 けど、と言って海音は手を後ろに組みなおして、振り返った。


「わたしにとって夏樹さんの歌は生の歌です。だって夏樹さんの歌って、楽しくて元気になれるから!」


「え、ほんとに?」


「はいっ……あれ? 変なこと言っちゃったかな、ごめんなさい」


 海音は両手で口元をおさえて目をそらした。海音の視線を追うように僕も口を開く。


「ありがとう、おれもだよ」


 だけどその言葉は出なかった。


 言おうとしたけど、それらは喉の奥で引っかかり、声に乗ってくれなかった。


 白いワンピースがひるがえる。


 海音は髪をかき上げながら、くすりと肩をすくめて無邪気な輝きを目に宿した。


「夏樹さん。さ、歌いましょう?」


 返事も待たずに、海音は一人で歌い出した。


 その歌は僕の歌だった。


 気に入ってくれたみたいで、よく歌ってくれる。


 今年の夏。彼女と僕はいつも一緒に歌ってきた。


 そして僕は、海音の歌から多くのものを学んだ。


 命を燃やして解き放つ力強さ。自然の全てに響かせる調和。人の心を動かす表現力。


 そうだ、彼女の歌は僕にとっても生の歌なんだ。


 あの崖で初めて聴いた彼女の歌に、僕は本当に胸を打たれた。


 その時から、彼女の歌に惹かれていたんだ。


 気づけば歌うことを忘れ、ただ純粋に彼女の歌に聴き入っていた。


 この日は満月じゃないのに月はとても輝いていて、海音の白い姿は、影もなく夜の砂浜に映し出されていた。


「……夏樹さん?」


 いつまでたっても歌わないのにようやく気がついた海音がこちらへ振り向いた。


 目と目が合う。


 大きな瞳に僕の顔が映っている。


 吸い寄せられる深い黒に、時が止まった錯覚をしかけた。


 瞳に映る、自分のまぬけた顔が面白かった。それでも僕は彼女の瞳を見ていたかった。


 できることなら、ずっと見つめていたかった。


 ……崖の上に、一つの人影を見出すまでは。


 その瞬間、呼吸が止まった。


 海辺の崖の幽霊だ。


 まさか本当にいただなんて。


 噂は嘘じゃなかったのか。


 いや、よく見るんだ。あれはきっと幽霊なんかじゃない。


 動いている。つまり……生きている人間だ。


 だから僕はその場を飛び出し、崖まで全力で走りだした。


 人影は、ゆっくりと崖の端まで歩みを進める。


 その先へ影が踏み出そうとする前に、僕は彼を抱き止めた。


「何をしてるんだ!」


 腕を引っ張って、男を手前に投げ飛ばした。


 転んだ男の足は、やはりなにも履いてなかった。


「何を、何をしようとしてたんですか!」


 僕の声は震えていた。うめき声をあげて睨んだ顔は、初対面ではなかったから。


「あんた、ばかじゃないのか……おじさん!」


 昼間、騒ぎを起こした男。


 知った顔がこの場にいると分かると、気味の悪い汗がしみ出してくる。


 この男はたった今、海に身投げしようとしていたのだ。


 男もまた僕に気づくと目を丸くしていた。


 どうしてこんな事を。


 そう聞くよりも男は先に自白した。


「生きてりゃ、死にたくなるものさ」


 酒焼けしてかすれた声には、男のすべてが詰まっていた。


「だからってそんな」


「私は君より飯を食べてる」


 僕の言葉を遮って、男は僕を指さした。


「……おじさんは、街で何をしていた人なんですか」


「ただの会社員だよ。ちょっと人の未来を左右できる立場にあるね」


「おえらいさん」


「それを言うのはやめてくれ。私はそんな人間じゃない」


 海を眺めるその背中には、僕の未熟な感性では言い表せないものが漂っている。


 短い言葉で済ませているが、きっと今までの苦労がこもっているのだろう。


「……少しだけ、疲れていたんだ」


 男はうつむいて溜め息のように言葉を吐いた。


「誰もいない旅がしたくて……先日、街からここに来た。飲めるだけの酒を飲み、自由に振る舞ってやろう。そんなつもりでここにいた」


 店での態度を見ればわかる。


 まだ許せる相手ではないけど、なんとなくこの男が小さく見えた。男は続ける。


「酒を飲んで気を大きくした私は、あれから外をあてもなくぶらついていた。その時だ、何処からか美しい歌声が聞こえてたんだ」


「歌声?」


 思わず言葉が漏れた。だけど男は気づかなかった。


「なんと美しい歌声だろう……私は悩んでいたことすべてが消えていくような心地になった。たぶん、夢の中にいたのだろう。意識が戻ると、目の前に兄ちゃんがいた」


 男は大きく息を吐き、重たそうに腰を上げると、銀色の海を見てまた一つ嘆息をこぼす。


「兄ちゃんは学生みたいだな。夢はあるのかい」


「はい。言いませんけど」


 男は噴き出した。そして何度かの笑い声をあげ、僕の方を向いた。


「君みたいな若者が、街では夢を求めて奮闘している。君は負けるんじゃないぞ」


 君は、と言った意味を悟れないほど僕は鈍くなかったらしい。


「ありがとうございます」


「それでいい」


 困ったように笑う男は、たぶん本気で僕のことを応援してくれたんだろうなと思った。


「死に損ないが喋りたくるのはみっともないな。では、また縁があったら、いつか」


 男は僕の肩をひとつたたいて、「昼間は悪かった」とすれ違いざまにそう言い残して、崖の上を去っていった。


 その背を見送った僕の胸は、ひどくざわついている。


 男の身投げを止められたから?


 いや、違う。そうではない。


 この胸のざわめきが求める答えは、それではない。


 僕は知ってしまった。


 海音の歌が、死の歌だったと。


 あの男は彼女の歌に導かれて、崖から身を放ろうとした。


 海音の歌声が、男を死へいざなったのだ。


 死の歌を否定しないと言ったけど、彼女の歌が死の歌であると思ったら、体中の血管が縮んでいくような心地になった。


「夏樹さん」


 背後から名前を呼ばれた。


 声の主は海音だった。


 今まで何が起こっていたのかを知らない彼女は無垢な顔をしている。


「海音……」


 今の出来事は話すべきだろうか。いや、よそう。


 それを知れば彼女はどんな顔をするだろう。


 見なくていいなら見たくない。


 その日は崖を後にした。今宵も見送ってくれる海音を背に、『夏樹さんの歌は生の歌です』と頭にこだまするのを後ろめたく思いながら。




 それから、僕は曲作りに没頭するようになっていた。


 夏も終わりに近づいて、海を訪れる人も数えてしまい、自由な時間が増えたから。


 だからといって曲作りが捗っているとは言いがたい。


 いやむしろ滞っている。


 日に日に募る焦りと、悶々とした気持ちが想像力のボトルネックになっている。


「夏、海……風……水平線。歌……夢、空……思い出……」


 適当に浮かんだフレーズを書き留めていくが、どうも上手くつながらない。


 最後はいつも同じところに行きついてしまう。


「……海音……あぁっ」


 ことあるごとに彼女の顔が浮かんできて、まったく作詞に身が入らない。


 歌詞が出なけりゃ、メロディさえも浮かばない。これはひどい。


 丸めた紙がいくつも部屋に散らかっている。作詞ノートもシワだらけ。


 史上最悪の絶不調だ。集中力が散漫すぎる。


 ……なんてことだ。


 こんなに夜を迎えたくないなんて!


 いや違う、落ち着け夏樹、そうじゃない。


 海音と歌うひと時が、素晴らしいのに変わりはない。


 僕はあの時間が楽しみで、むしろ……。


 ただ、それを感じる分、ペンを握った僕の手は、空を掻くばかりだった。




挿絵(By みてみん)




 夕暮れ時の松林で、ツクツクボウシが鳴いている。


 最後のお客さんが店を出た後、いつもなら翌日の準備を手伝うのだけど、おやじさんは僕に暇をくれた。


 残り少ない夏休みを楽しめという、おやじさんの計らいだろう。


 厚意に甘えて、いつもより早く海辺に向かった。


 胸には大きな決意を一つ。


 海岸沿いを歩くと、風は少しだけ涼しく感じた。


 夏の終わりが近づいていると気づかされる。


 いつもの崖に着いた時、彼女はまだ来ていなかった。


「きれいだな……」


 手ごろな岩に腰を下ろす。水平線に消えていく日をぼんやりと見つめる。


 海、小さい頃よく祖父母に連れられて遊びに行った。


 海は好きだ。あの広さは何でも包んでくれる気がするから。


 ふと浮かんだメロディを口ずさんだ。名前も知らない虫たちが波に合わせて鳴いている。


 やっぱり、歌が好きだ。


 歌でいろんな人を笑顔にしたい。小さな頃からその思いは変わらない。


 今はそれが、ただ一つの夢になっている。本当、わからないものだ。


 歌が好きになったのはいつからだろう。


 どこだったか忘れてしまった。小学校の夏休みに、初めて海に連れて来てもらったんだ。


 そこでたしか、歌が上手な子に出会ったんだっけ。


 その子の名前は……ああ、覚えてないや。


 でもその子と一緒に歌うようになったんだ。それが楽しくて、楽しくて……そして。


「今日は早いんですね」


 不意に声をかけられた。だけど驚きもせず僕は振り返った。


「海音」


 彼女の頬は、綺麗な茜に染まっている。


 目が合いそうになり、ふいと顔を海に向けた。


「なあ、海音」


「なんですか?」


「海音は、歌が好きなんだろう?」


 風になびく髪をかき上げて、海音は「ええ」と答える。


 水平線がかすんで見えるまでに、その横顔は色鮮やかだ。


 海音がうなずいて見せたとき、僕の決意は固まった。


「おれも一緒。好きな歌でたくさんの人を笑顔にしたい」


 僕は今日、この事を話したくてここに来た。


 同じ夢を追う者同士、言わなきゃ、彼女のためにも。


 喉の奥が熱くなり、握ったこぶしの手の平に、爪を立てた。


「海音、街へ出ようよ。きみだったらその夢、きっと叶えられる」


「……わたしには、できません」


「そんなことは」


「わたしはこのままでいいんです」


 言葉を重ねて、静かに海音は視線を下げた。


 夕日の影に憂いを含んだ瞳が映る。


 そんな顔、して欲しくない……。


 そんなことを考えている間に、僕の口から言葉はするりと出てしまっていた。


「おれと、一緒に行こう」


 聞いた瞬間の海音の顔は、呆気にとられた感じだった。


「えっ」


 虫の音は、いつの間にか止んでいた。


「おれと、街に行こう。一緒に歌ってたくさんの人をシアワセにしよう」


「夏樹……さん」


 自分の両手を握り締める。


 胸いっぱいに息を吸い……彼女の手を取った。


「おれは海音と歌いたいんだ」


 その時、初めて海音に触れた。


 なめらかできめ細やかな彼女の手。


 ほっそりと華奢な色白の手。


 ずっと触れられなかった小さな手。


 僕は握った手の感触をたしかめて、ゆっくり顔を上げた。




 海音の手はおそろしいほど冷たかった。




「え……?」


 あまりのことに声が出た。


 頭上で無数の疑問符がわく。


 僕は氷に触れているのか。どうして人間の手がこんなに冷たいんだ。触れた所から熱をすいとられ

てしまいそうなくらい冷えきっている。


 うそだ。なにかの冗談だろう。だってこれじゃ、まるで……。


 血の気が無いみたいじゃないか。


 その時みた海音の顔は、ひどく悲しい表情をしていた。


「……なんで、そんな顔をするんだよ……」


 僕の問いに答えることなく、海音は肩を震わせてきびすを返した。


「待ってくれ、海音!」


 走り去ろうとする海音を強く呼び止める。鼓動が異常に早くなる。嫌な汗が背中に流れる。


 払われた手に残る温もりは無く、指先のかすかな震えが、僕に現実を突きつけていた。


「海音、きみは、まさか……」


 嫌だ、考えたくない。


 そのはずなのに、記憶の隅から次々と言葉がこみ上げてきて、一つの答えを導き出そうとしてしまう。海と崖、転落事故、死の歌、冷たい手……夜だけの出会い。


 信じられない事実をたずねるのに、声がかすれた。


「海辺の崖の幽霊なのかい」


 夕暮れのあたたかな空気が沈黙のまま冷めていく。


 世界が音を失くしたようだった。


 海音はこちらへ振り向かなかった。


 それがどういう意味か、静寂は無理やり教えてくる。


「そうだ」と。


 その瞬間、鋭い氷が僕のすべてを貫いて、記憶の限りを凍てつかせた。


 海音が幽霊。何かの間違いだろう?


 嘘さ。そんなの信じないぞ?


 嘘だと言ってくれよ。こっちを向いてくれ。


 笑ってくれよ、海音!


「ごめんなさい」


 何かを呟いて海音は闇へ駆けだした。すぐさま僕は追いかける。


 しかし突然、強烈な風が崖を叩きつけ、行く手を阻んだ。


 動けない。風は僕の体を岩に押さえつけて離そうとしない。


「海音っ……海音!」


 彼女の名を何度も叫んだ。その背中は二度と立ち止まってくれなかった。


 風が収まるころ、彼女の姿はどこにも見えず、波が打ち寄せる音だけが残っていた。




 翌晩、海音は現れなかった。


 後悔に責め立てられた。


 あの時の、あの表情を思い出すと……ああ、自分はどれだけ愚かだったのだろうか。


 海音は幽霊だった? さては夢じゃないのか?


 そう信じてまぶたを閉じても、現実はなにも変わらない。


 僕一人が沈んでいるだけで、景色も、流れる時間もなにも変わらなかった。


 ただ漠然と、胸に重すぎる罪悪感。そして軽すぎる虚無だけがある。


 抱えるのには、それだけが精いっぱいだった。


 一日がこんなに長いとは、今まで思いもしなかった。


 次の夜も、僕が彼女を見ることはなかった。


 耳に届くのは、少なくなった蝉の声と、波が浜辺をこする音。


 それと木々を揺らす風の音だけ。


 星さえ凍り、何もかもが色を失った。まるで息をする人形になった気分。


 歌声も無い。あるのは虚しい響きだけ。




 何度も海辺を訪れた。考えた所で彼女の顔を見ることはない。


 彼女ともう会えない。僕はそれを積極的に肯定できなかった。




 虫が冷たく鳴いている晩、再び僕は海に来た。そう、誰もいない海に。


 空は広く晴れわたり、星がこぼれんばかりに煌めいている。


 彼女と出会ったあの夜も、こんなに澄んだ空だった。


 懐かしいと思ってしまう。それでも大事に覚えている。海音と過ごした歌の日々を。


 色んな事を話した。好きな事に楽しい事、たくさん話した。互いの歌を歌ったりした。


 海音、僕の歌を好きだと言ってくれて、嬉しかった。


 たくさん笑いあった。あの笑顔。何でも包み込んでくれる、月光のような柔らかい笑み。


 きみの笑顔を見るために、僕は毎日頑張れたんだ。歌声の絶えない毎日だった。


 楽しかった。


「う……っ……あ、あぁ……」


 膝が崩れ落ちた。目から滴がこぼれていく。手元に溜めた思い出が指の隙間をぬうように。


 もう、何も残されていない。


 光と喜びに満ちたこの心も、いまや空っぽの器になった。


 海音、ごめん。本当にごめんなさい。


 広い八月の浜で僕は一人、とめどなく涙を流し続けた。


 この声が彼女へ届くはずがない。


 会いたい……もう一度会いたいよ。あと少しだけ話してたかったよ。


 認めたくない自分の弱さが体中から溢れ出る。


 分かっている、分かっているんだ。この思いが叶わないことは。


 夏の終わりが近づいている。僕はもうすぐ街に帰る。


 このままの気持ちで帰っても、僕は何もできないだろう。


 夏の終わりはもう近い。この海ですごす時間は、残りわずかだ。


「なにやってんだよ、おれ」


 置いていこう。すべてここで忘れてしまおう。


 今までの思い出をみんな、あるだけ全部置き去りにしよう。


 そして、残りの時間を一生懸命に頑張って、胸を張って街に帰ろう。


 夢に向かって僕の決めた道を、歩いてゆこう。

 だから、この海の思い出は……無かったことにしよう。


「がんばれ、おれ。がんばれよ、おれ。……俺っ」


 締まりのない自分の顔を思いきり叩いた。しびれた頬が涙を止める。


 胸の中の息をすべて吐き切り、目の前の平線を睨みつけた。


「江崎夏樹、歌います」


 これがこの夏最後の歌になるだろう。


 歌うのは、海音がよく歌っていた歌。


 つらい心と決別し、前へ向かって歩き出そうと思いを込めて書いた歌。


 もちろん、自分で書いた歌。


 僕は歌った、力の限り。


 なにもかも置き去りにするため、僕は心を解放した。裸の言葉が口から出る。


 失うものは何もないんだ。恥も外聞もなく僕の感情は音に乗って海に広がる。


 込めた思いは歌声に乗り、遠くの空に飛んで行く。


 さようなら、今年の夏。


 さようなら、海での思い出。


 さようなら、きみ。


 さようなら……さようなら……さようなら……。


 歌声は薄闇の海にやがて消えた。


 もう、空っぽだ。


 僕の瞳はまだ濡れていた。


 胸から痛いものがこみ上がるのを抑えながら、その場にただただ立ち尽くしていた。


 これで終わりなんだ。


 ……さあ帰ろう。


「素晴らしい歌声だ」


 耳に届いた声が僕を現実に引き戻した。


 手を叩いている音。


 顔を拭ってそちらを見ると、妙な気配を出す男が、涙ながらに僕に拍手を送っていた。


 いつまでいたんだと、正直思った。


「兄ちゃん、君だったとはね」


「……生きててくれて良かったです」


 いつかの騒ぎを起こした男。


 一人になりたいのに、間の悪い。


「何の用ですか、どうしてここに」


「お礼を言いたい」


 お礼を?


 予想もしてない発言に男の顔をたしかめた。


 ……目つきが変わっている。


「今の歌は、君が作ったものなのか」


「まあ……それが何か」


 無意識のうちに言葉がとげとげしくなっている。この男に、歌の話をされたくない。


「君の歌を聴かせてもらった。君の歌う素直なメロディと歌詞、実に素晴らしかった。聴いていると、心が洗われるようだと感じた」


「つまり考えを改めたと」


 男はうなずく。変わったことを言う人だ。


「久しぶりだ、歌にここまで感動するとは。君の歌に生きる力をもらった……ありがとう、本当にありがとう」


 上気した男の言葉は、それだけ僕の心を強くたたく。聞けば聞くほど胸をえぐった。


「兄ちゃん、いいもの持っているね」


 ……なんだよ。


「あんたはいったい何なんだよ。いきなりおれの前に現れて、なんでそんな事を言うんだよ」


 僕には正しいことが分からなかった。


 今更そんな事言われたって、僕はどうすれば良い。


 自分なんか海音にかなうはずがない。


 僕の歌に何があるっていうんだ。


「おれは」


 もうめちゃくちゃだった。


「自分の歌がきらいだ」


 吐き出すように言った。この男には何と思われようと、どうということはない。


 正直に自分の感情をぶつける相手としては、ちょうどよかった。


「歌は、過去を返してくれない」


 眉の間に力がこもる。言いながら目が熱くなり、ごまかすように男の顔を睨みつけた。


「おれには、できない事が多すぎるんだ」


「それで泣いていたのかい」


 気付かれていた。それでも男は動じてなかった。


「君はたしか、夏樹君と呼ばれてたね。僕はこういう者だ」


 男はポケットから白い紙切れを取り出し、こちらに向けた。


 受けとって見ると、目の前の男によく似た男性がスーツを着ている写真がある。その横には名前が書かれ、上の方によく知っている文字列が並んでいた。


「そんな顔で見つめられると恥ずかしいのだが」


「まさか、ありえない。どうして」


「ただの歌が好きな酔っ払いだよ」


 まぎれもなく紙切れは男の名刺だった。


 そして肩書きには、世間で最も有名な音楽会社の社名が載っていた。


 しかも重役。


「今日は酔っていないが、日頃のおこないが悪すぎだ。信じられなくて当然だろう」


 僕は言葉を返せず、首を横に振るだけだった。


「それでも良い。だけど、ここにいる一人の人間が、君の歌に救われた事実は信じてくれ。君の歌は、素晴らしかった」


 男の瞳は嘘をついていない。


 男は僕を前に姿勢を改めた。


「支援はいくらでもする。どうかウチの会社で歌ってもらえないだろうか」


「それって」


「これはスカウトだ」


 絶句した。


「返事は落ち着いてゆっくり考えてほしい。相談なら名刺の連絡先までいつでも構わない」


「待ってください。けど、おれ」


 歌うことが、つらくてたまらない。


「どうして、どうしておれなんかを」


「君だからこそだよ」


 男は表情を柔らかくして、とても穏やかな声で言う。


「僕は君の歌が好きだ」


「おれの歌を……?」


 男は僕の前を通り過ぎて、海に向かって語りかける。


「人はみな、素晴らしい力を持っている。未来を豊かにするのは、それに気づけるかどうか。だから若者よ……自分をあなどるな。夢を語れ。追いかけ続けろ。君達には、無限の可能性がある」


 それが、君の歌から教わったことだよ。


「……この海は、いい所だ」


 振り返った男は僕の肩をたたいた。


 そしてしばらく無言で海に目をやり、静かに浜辺を去って行った。


 浜辺に誰もいなくなった時、僕は崖へと駆け上がった。


 砂に足を取られながら、転びそうになりながら何とか崖にたどり着く。


 夕暮れの海に向かって意味もなく叫んでみた。


 足元に転がる小石を拾って、思いっきり投げ飛ばした。


 茜色を濃くしていく水平線に、投げた小石が放物線を描く。


 僕はもう一度、大きな声を出した。


 何を考えていても整理がつかなかった。やがて僕は疲れてその場に座り込んだ。


 息切れ。


 胸が苦しい。


 興奮に似た別のなにかが、身体の底でわいている。


 呼吸が収まっていくにつれ、さっき交わしたやりとりの輪郭がようやく見えた。


「そっか、おれ、夢かなうんだ」


 人は極度に驚くと、かえって冷静になるらしい。なるほどなと思った。たしかに今、僕はとても落ち着いている。ゆっくりな雲の流れも眺めていられる。


 こんなに突然決まるのか、人の未来は。


 うれしいし、喜ばしい。普通なら跳んで気持ちを表すかもしれない。


 けど……素直に喜べない自分がいた。


 この海での記憶を、消し去りたいと思っているから。


 何をためらっているんだ。


 ずっと望んでいた機会がきたんだぞ、なぜ喜べないんだ。


 分からない、自分でも分からない。


 額から汗が滴って、顎の先をすべりおちた。


 気が抜ける。


 岩陰にへたり込み、ぼうっと宙を見ていたその時だった。誰かに話しかけられたのは。


「よかったですね」


 どこかから澄んだ声が耳に届いた。僕はとっさにあたりを見回す。


 いた。


「海音」


 大きな月を背に受けて、白い少女が佇んでいた。


 海音がいる。あの美しい少女が、すぐそこに。


 全身が急激に熱くなった。


 言わなきゃ、謝らなきゃ。行かないと……!


「海音。おれ、本当に」


「来てはいけません」


 駆け寄る僕に海音は冷たく言い放った。


「海音?」


「こちらに来てはいけません……夏樹さん」


 海音の足元には、何も無かった。


「……なんだい」


 海音は握った左手をそっと開くと、そこにはいつも着けていたペンダントがあった。


 青く光る石のついた綺麗な飾りを、海音は僕の前に置いた。


「これを松林のそばにある、うみばたという船宿に持って行ってください」


 黙って、うなずく。


「そこで全てがわかります」


 海音の姿はいつのまにか消えていた。




 陽が昇っていく。


 ひぐらしの声が聞こえだし、夏の田舎を目覚めさせる。


 木と潮の匂いが立ち込める食堂に、白い筋が射し込んで、徐々に太くなっていく。


 帰り道で探したけれど見つからなかった。船宿うみばた。一体どこにあるのだろう。


「ふあぁ、おはようさん、夏樹。今朝は珍しく早いなあ」


 時計の針が縦一直線に並んだ頃、おやじさんが降りて来た。


「ここも今日で働き納めだな。最後までよろしく頼むぞ……ふぁ」


 そして始まる最後の一日。


 この日、海を訪れたお客さんは、両手で数えられる程度だった。


 夕方。空はほんのり朱に染まり、とんぼがちらほら飛んでいる。


「あの、おやじさん」


 僕は海の家と書かれた暖簾を店に入れ、帳簿をつけているおやじさんに持ちかけた。


 ポケットから取り出した、ペンダントを握りしめる。


「この近くに、うみばたって船宿を知りませんか」


 おやじさんの手元から鉛筆が落ちる音がした。


「うみばただと……? 夏樹、お前!」


 おやじさんの目の色が変わった。


 と思った時にはすでに立ちあがっていて、厳つい顔がずんずん迫る途中だった。


「えっ、あっ、えぇっ?」


 恐ろしさでたまらず一歩下がりそうになったところで、おやじさんの足は止まった。


「……ここだぞ?」


 すっ転びかけた僕の背中をおやじさんが支えてくれた。


「なにやってんだお前」


「ここが……うみばた?」


「お前、職場の名前も知らずにいたのかよ」


「いやだって……」


 そもそもお店自体が古すぎて、看板の字はかすれて読めなかったんだ。


 そもそもここらじゃ海の家で通じるから、聞くことなんてなかったし……。


「……おい、その手に持ってるのは何だ」


「えっ」


「ちょっと見せろ!」


 僕が握っていたものを、おやじさんが目を剥いて奪い取った。


「ペンダントですけど……思い当たる節はありますか?」


「これ、儂が昔、孫にあげたやつじゃねえか」


「は」


「お、おい夏樹っ」


 再び絶句した。


「このペンダント、お孫さんへの贈り物だったんですか」


「あぁ孫娘のな。どうしてお前が持ってるのかは知らねえが」


 孫娘……あぁ、そういうことか。


 海音は、おやじさんの孫だった。そしておやじさんが海音の祖父だった、と。


 ……おやじさんと、海音が?


「…………」


 よし、まったく似てないな。そこはすごく安心した。


「海の音でみお。年齢としはあんま変わらないはずだ、今のお前と」


「今の僕と、ということは」


「亡くなってるよ、数年前に転落事故で」


「転落事故。もしかして、あの崖で亡くなったというのが……」


 無言でうなずいて、おやじさんはペンダントを懐かしむように見た。


「歌が大好きな、かわいい孫だった」


 いつもの荒々しい顔が、やさしげな色を浮かべた。


 見覚えのある、落ち着いた瞳だ。


「おやじさん、あの」


 海音が聞けと言ったのは、この事なのだろう。


「海音さんの話、聞かせてください」


 おやじさんが僕を見た。視線が威圧する。けど、ここで怯んでられやしない。


「お願いします」


 頭を下げた。


 反応があるまで頭は上げない。そのままお互いしばらく無言になった。


 海音。


 カチリと時計の針が鳴った時、ぽつりと頭上に声が聞こえた。


「あの子はな、街に出るはずだったんだ」


「歌で、ですか」


「そう」


 言葉尻すら逃がすまいと即座に返す。緊張を必死にこらえていた。


「噛みついたりしねえよ」


 そんな僕を見ておやじさんは微笑した。


「……すみません」


「減るもんじゃない、老人の昔話と思ってまぁ聞いてくれ」


 そしておやじさんは、少女の話を語りはじめた。


「海音は、幼い頃から歌の才能に恵まれた子だった。隙あらば歌ってるような、自由奔放な性格で、いつも村の連中を笑顔にさせていた。もしも海音が歌わなかったら明日の海は大シケだと言われたくらいに。海音は村のみんなに愛されていた。海音もこの海を愛していた。ひなびた小さな漁村だがみんな平穏に暮らしていたよ……」


 おやじさんの表情にくもりが生じる。


「どうして、そうなっちまったんだろうな」


 海音の歌で、金儲けを企んだ人間がいた。


 街の連中とおやじさんは呼んだ。


「確かに海音は歌が好きだったし、街にも憧れはあったらしい。でも好きな歌がそんな使い方されるのを嫌ったんだろう。あの子は街の連中の求めを拒否した」


 おやじさんは深くため息をつく。


 海音がそんな風に思ってたなんて。


 自分の言った事、やった事が不意によみがえり、ずしりと、背中に鉛が乗る。


「それでも、しつこい奴はいた。みんな必死で海音を守った」


「この村でそんな事が」


「水面下の話を誰が知れようかってんだ。まあ結局、海音は決めてしまったよ」


「それは海音……彼女が望んだのですか」


「言い出したのは海音本人だ。いや、言わされたんだよな。みんなに迷惑をかけたくないっていう、あの子自身の優しさに。その晩からだ。あの子が言葉遣いを変にしたり、海辺の崖で歌ったりするようになったのは」


 当時を思い出しているのか、おやじさんの痛切な表情が、見ていて心苦しくなる。


「支えてやればよかった」


 そして運命の日が来た。


 海音が誕生日を迎えた夜。


 贈られたペンダントを身に着けて、いつものように海辺の崖に足を運んだ。


 台風の多い時季だった。


 その夜も風は強かった。波は高く岩場に打ちつけ、海鳴りの轟く不気味な夜が、村の闇に渦巻いていた。切り裂くような風の中、それでも彼女は、崖へと向かった。


 おやじさんはそこで口をつぐむ。


「最期を見た奴は言った。あの子の顔は、とても安らかだったと」


 おやじさんは最後ひねりだすように言って、それから唇を噛んだ。


 あまりに(むな)し気な姿を前に、僕は何も言えなかった。


 悲しすぎる。


 どうして海音が悩まなきゃいけなかったんだ。


 心に落ちた鉛が手元へ流れ、結んだ手を固くする。


 店内には椅子のきしむ音だけが響いた。


「そうだ、夏樹。ほうれ」


「えっ」


 おやじさんは海音のペンダントを差し出してきた。


「お前が拾ったのも何かの縁だ。これ、やるよ」


「まさか。これは大事な思い出の品じゃないですか」


 おやじさんは、ばか、と鼻で笑った。


「そんなのなくてもあの子を忘れたりしねぇよ。……それに、会ったんだろ」


「えっ」


「お前は本当に分かりやすいな。いいから早く受け取れ」


 そう言って握らされたペンダント。素朴な装飾が温かい。


「海辺の崖の幽霊話だが、きっと今日でその噂はおしまいだ」


「何故ですか?」


「ただの直感さ。ほら行ってこい。そのペンダント、いらないなら自分で返せ」


「もしかしておやじさん、幽霊の正体を」


「さぁな。ほら、行け。もうすぐ日が沈むぞ。行け、さぁ。もう一度歌って来い」


「おやじさん」


「頼んだぞ」


 首を大きく縦に振り、うみばたを僕は飛び出した。


 夏の夕暮れを全速力で駆け抜ける。


 会いたい。


 会ってもう一度だけ話したい。もう一度だけ笑いたい。もう一度だけ君に触れたい。


 最後が。


 最後の前に。


 夏の最後が来る前に。


 心臓が跳ねる。髪が逆立つ。汗が滴る。季節が巡る。それでも僕は走り続ける。


 この世に生まれて。君と出会って。共に過ごせた。すばらしい奇跡が僕らに起きた。


 最高の時間、最高の夏、最高の青春を僕らは生きてる。


 生き続ける限り青春は終わらない。


 僕は走る。青春を追いかける。気持ちに任せて風よりも早く飛ばしていく。


 行け、行け、夏樹。走れ、全力で、突っ走れっ!


 夕暮れの海岸線を駆けながら僕は叫んだ。


 こんな所で終わらせてたまるか。


 汗みどろになっても、前だけを見る。


 求めるものは前にしかいない。だから僕は前に向かって手を伸ばす。


 先のことなど分からない。何ができるか分からない。そんなの誰にも分かるわけがない。


 結果はすべてやった後に分かるものだ。つまずいたら笑えばいい。転んだら立ち上がればいい。やりたい事を僕はやるんだ。


 いま僕は、君に会いたい。


 もう迷わない。


 だから──


 風を切って走る心は、あの日のような昂ぶりを感じていた。


 ──もう一度だけ歌いたい。






 夕暮れの砂浜、いつもの場所に僕はいた。


 渚には、穏やかな波が打ち寄せている。


 ひと気のない浜辺。


 まるで世界中に僕一人しか、存在してないみたいに思えてしまう。


 でも分かっていた。


 きっと彼女は、ここに来る。


 波と風が包む世界で、僕は静かに耳をすませた。




 歌声が聴こえる。


 潮騒が響く海辺で僕は顔を上げた。


 ひんやりと湿った風が汗ばむ頬を撫でた。


 水平線に太陽が沈んでいく。


 誰もいない夏の浜辺で、僕は確かに彼女の歌声を聴いた。




「……いるんだね」


「聞いたんですね、おじいちゃんに」


 振り向くと、砂浜の上に一人の少女……海音がたたずんでいた。


「うん。みんな聞いたよ」


 ポケットからペンダントを取り出した。


「ごめんなさい」


 頭を下げた。


 他に何も言わなかった。僕は海音を傷つけた。知らなかったから、とかじゃなく、海音の心に負ったものを取り除く術が見つからない僕の無力さを口にした。許されようとは思ってない。


 ただ僕は、海音の力になりたかった。でもなれなかった。


 手元からペンダントを取られた感触がした。


 微かに触れた彼女の指の冷たさが、僕のてのひらに残る。


「星がきれいですね」


 海音は言った。


「ほら、夏樹さんも見てくださいよ」


 僕はそれでもうつむいたままだった。


「ほうらっ」


 海音は僕の肩をつかんで無理に起こした。意外な強さが僕の身を引き上げた。


 しかし空に、星は出ていなかった。


 夕日の影に海音の姿があるだけだった。


「……本当だね」


 僕はこぼした。茜色の水平線を見つめる海音の横顔が、どんな気持ちかわからない。


 僕のもとを離れた海音は、波打ち際まで歩き出した。


「わたし夢見てたんです。星みたいにきらきら輝く人生を過ごしたいって。歌と一緒に、自由なところで」


「自由なところで……」


「ま、世の中そんなに甘くないっ」


 海音は、後ろ手に振り返った。


「未練があったんですよね、歌に。もはや執念かな。こんな姿になってまでこの世に残るなんて、わたし、ばかみたい」


「そんな事はない。きみは歌を愛していたんだ。死んでも死にきれないくらい、海音は真っすぐだったんだよ。誰よりもずっと強く歌と共にいようとしたんだ」


 目が熱を持ってくる。彼女の気持ちを考えるとかける言葉も見当たらない。


 草木の揺れる音が、潮の匂いと共に流れる。


 海音は微笑んだまま、独り言のように話す。


「本当は、街に出るのも良いかも、なんて思ってたんですよ? わたしは自分の歌がどう扱れても気にしません。聴いた人が喜んでくれるなら、それで良かったんです。……でも」


「でも?」


「怖かったんです、外へ出るのが。せまい世界で生きてきたわたしにとって、知らない世界に足を踏み入れるのは、とても怖かった」


 未知への恐怖は誰にでもある。僕にもわかる。いや、それだけじゃない。海音は大勢の期待がかかっていた。彼女にとって、その期待が重責となって苦しかったのだろう、本当に。


「海音……」


「もう、ぐちゃぐちゃなんですよね」


 海音は空を仰いで、言った。


「あーっ、わたしって、なんてばかなんだろっ」


 そして海音は高らかに笑い声をあげた。


「あははっ、夏樹さんも笑ってくださいよ。これでもわたし、小さい頃は嵐を呼ぶ子なんて言われてたんですよ」


「だったらやめたら。無理をして、ていねいな言葉でしゃべるのも」


 そう言うと、海音の笑いが一瞬だけ止まった。


「……無理なんてしてません」


「きみの言葉はとてもきれいだ。でも」


「してないからっ」


 海音が僕の言葉をさえぎった。


「もっと勇気を出せばよかった。でも私には力が足りなかった。生きてるうちに気づくべきでした。たとえ歌えたとしても……この冷たい体じゃもう夢は叶えられないのに」


「無理なのは、今から夢を追うことですよ」


 頬に銀色の光が伝っていた。


「もっと……もっと歌いたかったよ……」


 僕はその時どう動いたのだろうか。気がついた時、僕はすでに行動していた。


「えっ」


 再び耳にする、海音の呆気にとられた声。


 僕は海音を抱きしめていた。


「なつき、さん?」


「おれにください。海音の夢」


 僕の口から言葉が出た。いま僕はとんでもない事をしている。


「その夢、おれが代わりに叶えますっ。海音の分まで生きて、歌って、みんなを笑顔にしてみせますっ。おれが夢……叶えますっ。絶対にっ、海音の夢っ、一生懸命っ、頑張りますからっ」


 言葉が勝手に出てきている。次から次に心の奥から海音への気持ちが飛び出している。


「それに海音が冷たいなんてはずがない」


 海音を包む腕の力が強まった。


「きみの涙は、こんなにあったかいじゃないか」


 大体こんな事を言ったと思う。自分でも何を言っているか分からない。僕は泣いていたから。胸の鼓動が痛いほど鳴っている。海音にも聞こえてしまってるかもしれない。


 海音に言ってるはずなのに、まるで自分に言い聞かせていた。感情のままに溢れる言葉を語り尽くした後の僕は、もうそれ以上何も言えず、海音を胸の中に包んだまま黙った。


 僕はとんでもない事をやってしまっている。だったらもう、振り切ってしまえ。


「おれはきみがすきなんです」


 固まっていた海音はシャツの裾をぎゅっと掴んだ。


「……その言葉遣い、変なの」


 聞こえてきたのは、そんな言葉。


 海音の体は冷たくて、幽霊だと言う事実をいやでも思い知らされる。だけど抱き締める胸の中には、生きている人間と同じように温もりがあった。


「でも……ありがとう」


 その時、海音は初めて僕に対して言葉をくずした。それだけに海音の純粋な気持ちを感じた。そして彼女は僕を見た。ずっと望んでいた太陽よりもまぶしい笑顔が、僕の前に現れた。


「きみと会えて、よかった」


「わたしもあなたに出会えてシアワセでした」


 再び海音の言葉は戻ってしまったけど、今までとは違う気持ちが響きにあった。


 安心した。どっと全身の力が抜けていく感じを、この笑顔を見て覚える。海音も心が落ち着いたのか掴んでいたシャツの裾を離し、そっと僕の手を包んだ。


「来年の夏もまた来るよ。また一緒に歌おう。それまで待ってて」


「……夏樹さん」


「どうした?」


「初めて会った日のことを覚えていますか?」


「うん、もちろん」


「外から来た人でわたしを見つけてくれたのは、智樹さんが初めてでした。とても嬉しかったです。ありがとうございました」


「そんな、本当だったから」


「まだありますよ。それから毎晩ここに来てくれて、ありがとうございました。あと、わたしとお話してくれて、ありがとうございました」


 指折り続ける海音の言葉。なんだか体がこそばくなる。


「一緒に歌ってくれて、一瞬に笑ってくれて、歌を好きになってくれて、たくさん優しくしてくれて、たくさん……たくさん、ありがとうございました」


「もっ、もういいよ。照れるから、もう……」


「最後に」


 海音は手を離して、晴れやかな笑顔でこう言った。


「シアワセをありがとうございました。わたし、もう思い残す事はありません」


 …………え?


「海音。いま、何て言った。思い残す、こと?」


「ごめんなさい夏樹さん。今年の夏が、最後です」


「どういう事だ、どうしたんだ海音……うっ」


 海音の体が光りだす。茜色の砂浜にわっと白い光が広がった。真っ白な粒が海音を包んで、空へと舞い上がっていく。


「お別れです、智樹さん」


「何だ、これは……」


「わたしの思い残す事は無くなりました。だから、行かないと」


 宙を舞う光の粒は、海音の体から散っている。


 光の中で、海音の姿がいつの間にか透けているのが分かった。


 このままでは海音が消えてしまう?


 だめだ、だめだ。


 そんなの、だめだ。


 もう一度ふれようと伸ばした両手は、海音の肩をすり抜けた。


 諦めずに何度もその手を取ろうとするが、彼女の手はもう取れない。


「そんな、海音」


「夏樹さん……」


 海音の実体はすでに無かった。


 影さえも消えている。


 彼女の肩の向こうには、夕暮れの闇が迫っていた。


 信じられない速さで現実が進んでいた。


 僕はどうするべきなのか。


 何をするにも時間がない。


 どうすればいい。


 分からない。僕は地を叩きつけた。


「なぜ!」


 わからない、わからない。


 どうして海音が消えなきゃいけないんだ。


 彼女は何も悪くない。なのにどうして、どうして……わからない、わからない!


 あんなに元気だったじゃないか。いつでも笑っていたじゃないか。歌が好きだっただけじゃないか。それなのに、どうしてこんなに背負わないといけなかったんだ。


 なぜ。


 なぜ?


 上げられない視界に光が差す。


 海音がそばまで来ていた。


 光のせいで、涙で濡れた砂の色が丸わかりだ。


「夏樹さん」


 その声で、肩に感触の無い手が添えられる。


「顔を上げて、ほら、笑ってください」


「そんな、だって、きみは」


 顔を上げると、海音の顔がすぐそばにあった。真っ白な頬を赤く染め、大きな瞳から大粒の涙が溢れていた。彼女も泣いていた。なのに笑おうと、綺麗な顔をくしゃくしゃにして僕の方を見つめてい

る。


「わたし嬉しいです。わたしのために夏樹さんが泣いてくれて。それだけ想ってくれる素敵な人に出会えたんだと、改めてシアワセを感じます。あぁ、なんて素敵な付録だったんだろってね」


「海音……」


「でも、できればもう一つ、贅沢を言わせてください」


「……なんだい?」


 立ち上がる海音。白がひるがえる。彼女は笑顔で僕に言った。


「わたしは、笑顔のあなたが大好きです。だから立ち上がってください。どうか前を向いてください」


 そして白い手を差し伸べた。


「夏樹さん。さ、歌いましょう?」


「海音……」


「歌で巡り合ったわたし達だから」


 彼女はもう迷ってなどいなかった。


 ……そうだ、はじめから、わかっていた。


 悲しいのは、自分だけじゃない。悔しいのは自分だけじゃない。


 僕がやりたかったのは、落ち込む事じゃない。


 目の前には泣いてる人がいる。だったら……僕がするべき事は一つのはずだ。


 顔を拭って、立ち上がる。


「ごめん海音。お願いされた歌、間に合わなくて」


「うぅん。あれは、わたしが海にいた証が欲しくてお願いしたもの。今はもう必要ない」


「どうして?」


「わたしの命はあなたの歌に生き続けます」


 清楚な笑みに、凛とした声が通った。その言葉は


 僕の胸に強く刺さり、熱いものが噴き上げた。


 僕の中で、結論が出た。


「僕は生きるよ。きみとの証、絶対に忘れない」


 僕の言葉に、海音はやさしくうなずいた。僕は続けてこう言った。


「海音、さあ、歌おう!」


 歌でみんなを元気にしたい。それが僕のやりたいことだ。


 海音は笑い、僕も声を上げて笑った。


「そうだ、二人で歌を作りませんか? わたしと夏樹さんの世界でたった一つだけ。誰も知る事のない歌を」


 突拍子もない提案だ。もちろん応える。


「いいね、歌おう。海の彼方まで届くように、二人だけが歌う歌」


「あなたの歌は死の歌で」


「きみの歌は生の歌」


 二人で波打ち際に並び、繋ぐように手を重ね合わせた。


 たゆたう波を見ていると、ずっとこのままでいたい気持ちになる。


 だけどそれは叶わない。


 彼女に伝えたい想いは言い足りない。僕も彼女のすべては知らない。


 お互いを理解するのに許された時間はあまりに短い、短すぎた。


 ……でも僕たちは知っている。


 言葉よりも素直な気持ちの伝え方。


 海音の光が一層強まる。


 肩の力を抜き、同時に息を吸い込んだ。


 歌うのは、夏の日の思い出を語る、名も無き二人の海の唄。







 この歌が聞こえますか? 青い海に浮かぶ唄が

 浜辺であなたは笑ってた その目に映る私も笑った


 毎日が輝いていた

 まるで煌めく星のように



 夢のような時間だった 美しかった

 心は夜空へはばたいて 素敵だった


 砂につづった旋律も とうに海へとけていた

 だけどときめきさえも 泡沫うたかたとならぬように


 ともに歌おうこの唄を 消えることなき夏の日を

 どうか届けて細波よ 私は今も笑ってますと


 海の唄が空へと響く 高く深く果てしなく

 海の唄よ奏でて遠く 遠く届けどこまでも


 忘れないよ 何度夏が過ぎようと


 ──ずっと祈ってます あなたのシアワセを


 ありがとう


 星の海よ輝け永遠とわに 海原照らすしるべとなれ

 明日の光よ未来を巡れ 彼方へ響けこの


 忘れないよ この夏の日の想い出を

 ずっと輝いているよ 君とみた海は


 この歌が聞こえますか? 広い浜に揺れるこの唄が

 歩き続けよう 歌い続けよう また会える日まで


 響け


 海の唄よ







「それじゃあ、今日までお世話になりました」


「バイト代はしまったか?」


「大丈夫です。本当にありがとうございました」


「……風邪ひくんじゃねぇぞ、夏樹」


「……おやじさぁんっ」


「い、いいから早く行けっ。バス遅れるぞっ!」


「そうだった。あの、おやじさん。本当に、本当にありがとうございました!」


「おうっ、また遊びに来いよな! 夏樹!」


 朝日が世界を照らしている。蝉の声が残る林を僕は駆け抜けた。曲がりくねった林道はどこも日陰で、吹き抜ける風が心地よい。


「うわ、まずい」


 最後におやじさんと話し込んだせいで、予定より遅くなった。急がないと。


 正面に光が見え、松林を抜けた。


 その先は、真っ青な景色が広がる、海辺の崖。


 ここからの景色を、もう一度見ておきたかったから。


 青い空、大きな入道雲、そして果て無く広がる海。


 見るならやっぱり明るいうちが良いな、うん。


 一人で納得しながら、ポケットから一枚の紙切れを取り出す。


「おじさん、ごめんなさい」


 あの晩にもらった名刺を細かく破き、海へ向かって放り投げた。


「もう少し、自分の力で頑張らせてください」


 でなきゃ、きみにも申し訳ないからね。


 一陣の風が吹く。宙を舞う紙片はどこまでも舞い上がり、やがて見えなくなった。


 あーあ、やっちゃったぁ……。って、感慨にふけってる暇は無いな。


「うわ、バスに遅れる! 急げ!」


 海を後にして、再び走り出す。海岸線を吹く風が背中を押してくれる。街へ向かうバスのクラクションがすぐそばに聞こえている。


 足取りは軽く、気分は良い。再出発には最高の日だ。



 あの夜、僕は夢を諦めかけていた。


 だけど彼女は教えてくれた。人が持つ夢の輝きを。


 僕は走り続けるよ。あの空の向こうにある、夢に向かって。


 どうか、笑って聴いていてね。


「さあ!」


 この声を、海のあなたに届けるから。


「江藤夏樹、頑張ります!」


 首元で藍色のペンダントがまぶしく光る。


 大空を見上げると、高く上る雲の形が、笑ってるあの人に見えた気がした。




 【おしまい】


【表紙】びたみん電工▼:@macoleeeeeee

【写真】一枚目:山口県鹿島

    二枚目:沖縄県西表島

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