第8話 バベルハイズの別邸(中編)
ティアラーゼに言われた通り、正面玄関口まで戻った雛罌粟は、つい先程目の前で繰り広げられた不可思議な出来事を改めて思い返していた。
雛罌粟の目の前で忽然と消えた白い塀ともう一人のティアラーゼ。どちらも明らかにティアラーゼの仕業だった。
出会い方からして普通ではないティアラーゼである。普通の女の子ではないのは十分に分かっている。
(私……ティアを森で助けてからずっと一緒にいたけど、改めて考えるとティアの事何も知らないな……)
少しでも仲良くなりたくて色々な話をしたが、思い返せば話していたのは雛罌粟側の話ばかりでティアラーゼ側の話はほぼ何も聞けていないのだ。
途中、何度かティアラーゼの抱える悩みの欠片を少し見せてくれたが、その先に踏み込むのを躊躇してしまったのも事実だった。
(ティアの悩みとか、私が少しでも軽くしてあげられたら良いのにな……)
そう、雛罌粟が深く溜め息をついた時だった。
「あ、門が……」
堅く閉じられていた黒い門が開き、門の向こうから黒いロングワンピースにエプロンという、見るからにメイドといった出で立ちの金髪の中年女性が現れる。
「常磐雛罌粟さんでいらっしゃいますね?」
「はい、そうです」
少し緊張しながら答える雛罌粟に、女性は柔和な微笑みを浮かべる。
「お嬢様がお待ちです。こちらへ」
そう言って元来た道を戻ろうとするメイドの後ろを雛罌粟も小走りで追い掛ける。
緑が生い茂る広々とした夏の庭園は管理が行き届いており、きっと春先には花々が咲き乱れる楽園の様な場所となるに違いない。
「雛罌粟さんが本日此方にいらっしゃるという事は、昨日の内にお嬢様より聞いておりました」
「えっ、そうなんですか」
(ーー昨日の内にってどういう事……? ティアはついさっき私と一緒に此処に帰ったばかりの筈だよね)
メイドの言葉に混乱する雛罌粟だが、先程の摩訶不思議な出来事を改めて思い返す。
(ーーううん。もしかしたら、さっきの赤いワンピースのティアが関係してるのかな……)
メイドの後ろを歩きながら思考する内に、雛罌粟は屋敷の中へ、そのままティアラーゼが待つであろう部屋まで案内されたのだった。
*****
「ーーお嬢様、ご友人をお連れ致しました」
「ーー入って」
ドアをノックして声を掛けるメイドに、室内から声が返る。ここ数日で聞きなれた声だ。
ドアを開ければ、広い部屋の中央に置かれた白いテーブルと揃いの白い椅子に腰かける少女が目に入る。
その姿は紛れもなくティアラーゼだが、纏う衣装は見覚えのある赤いレースのワンピースだ。
「どうぞ」
「あ、有り難う」
メイドが退出し、勧められるままに雛罌粟もティアラーゼの向かい側の椅子に腰掛ける。
テーブルの上には陶器のティーポットとティーカップが置かれ、その横には様々な形のクッキーや小さなケーキの盛られた大皿もある。まるでお茶会の様だ。
「これは英国から取り寄せた茶葉。口に合うと良いのだけれど」
「ーーいただきます」
ティアラーゼに淹れて貰った紅茶を口に含むと紅茶の繊細な香りが口一杯に広がる。普段紅茶を飲む機会の余りない雛罌粟だが、素直に美味しいと思えた。
クッキーも絶品で、こちらは余りの美味しさに最終的には大皿の殆どを一人で片付けてしまった程だ。
「ーーご、ごめん。あんまり美味しくって食べ過ぎちゃったかも……」
自分の食い意地に対する羞恥心から顔を赤くする雛罌粟に、ティアラーゼは口元を綻ばせる。
「雛罌粟に喜んで貰えて嬉しい。でも、こんなに気に入って貰えるなら本場のアフタヌーンティーをご馳走出来たら良かったのに」
「本場のアフタヌーンティーかぁ……」
アフタヌーンティーだなんて雛罌粟にはテレビや雑誌でしか知らない世界である。
そういえば、と雛罌粟が口にする。
「ティアのお父さんとお母さんもこのお屋敷にいるの?」
「両親は英国の本邸にいる。元々、此処に来たのも私一人だから」
「え……っ!! じゃあティアはイギリスから一人で日本まで来たの?」
「うん、そうなる」
元々とてもしっかりした女の子だとは思っていたが、たった一人で外国まで来てしまうだなんて、とても同年代とは思えない。
以前両親との仲が余り良くないとは聞いたが、それも関係あるのだろうか……。
そんな雛罌粟の思考を見透かす様にティアは言葉を続ける。
「私は元々全寮制の学校に通っているから、両親と離れている事には慣れているし、大丈夫。それに此処には住み込みで働いてくれている人達もいるから不便もないし」
「全寮制の学校……。ティアの学校はやっぱりイギリスにあるの?」
「大西洋の島というのは同じだけど、英国ではないよ」
世界の地理にそれほど詳しいわけでは無い雛罌粟は、頭に世界地図を思い浮かべて大西洋をイメージしようとする。
ティアラーゼはそんな雛罌粟をよそにおもむろに立ち上がると、部屋の片隅に置かれたクローゼットから一着の洋服を取り出す。
それを見た雛罌粟からは思わず感嘆の声が零れた。オフホワイトのブレザーにワインレッドのプリーツスカートは雛罌粟から見ても上品で可愛らしいデザインだった。まだ殆ど新品の様にも見える。
「ーーうわぁ!! 凄く可愛い洋服だね」
「これは学校の制服。9月から中等部に進学するから、まだ新しい」
ティアラーゼの言葉に雛罌粟は首を傾げる。確かティアラーゼは雛罌粟とは同い年の筈だ。
「中等部? ティアはもう小学校は卒業したの?」
「うん。日本とは教育過程が違うから、こちらでは10才から中等部に進学する。まぁ、殆ど初等部からの持ち上がりだから顔ぶれは特に変わらないけれど」
ティアラーゼの言葉に雛罌粟も納得し、興味深げに話を聞いた。
「そうなんだ。場所によって全然違うんだね。うーん、でも本当に可愛い! 少しだけ触ってみてもいい?」
「どうぞ」
差し出された制服にキラキラした眼差しを向ける雛罌粟を、ティアラーゼも穏やかな眼差しで見詰める。
「ーー本来は学校が始まるのは9月からなんだけど、私は少し用事があって早めに学校のある島に戻らなくてはいけない」
ティアラーゼの言葉の意味を理解した雛罌粟は視線を落とす。そんな雛罌粟に、ティアラーゼはふと真剣な面持ちになる。
「ーーねぇ、雛罌粟」
「うん?」
「ーー雛罌粟から見た私はどういう人間?」
先程までと比べると幾らか堅い声音のティアラーゼに、雛罌粟も一拍の後に答える。
「そうだなぁ……。綺麗で優しくてしっかり者で……それから凄く不思議な女の子かな」
「私の事……不気味では無いの?」
ティアラーゼが微かに目を伏せる。きっと森での出会いから始まり、先程目にした消えた塀やもう一人のティアラーゼなど、それらを示唆しての言葉だと雛罌粟は察する。
「そんな風に思った事ないよ。第一そんな風に思ってたら、きっと此処まで着いてきてないよ」
「ーーそう」
「そうだよ」
二人の間に沈黙が降りる。そしてその沈黙を破ったのはティアラーゼだった。
「雛罌粟、あの……」
「うん?」
「その……貴女が嫌でなければ、なんだけれど」
ティアラーゼには珍しく歯切れの悪い言い方だが、雛罌粟は辛抱強くティアラーゼの次の言葉を待った。
「ーー私と、友達になって貰えない?」
そうしてティアラーゼから飛び出した言葉に雛罌粟は目を丸くした。
「勿論OKだよ! というか、私はもうとっくにティアとは友達になってたつもりだったよ」
雛罌粟の中では友達とは一緒に遊ぶ内に自然に出来上がる関係だった。しかし、ティアラーゼからこう言われて嫌な筈も無い。
照れ笑いしながら頬を掻く雛罌粟に、ティアラーゼも目元を和ませる。
「それじゃあ……改めて宜しくね、ティア」
「うん。宜しく……雛罌粟」
二人だけしか居ない部屋で交わされた、少女達の友情の誓いだった。
普段のティアラーゼはお嬢様ルックです。