第20話 旅立の日(後編)
黒髪の女教師に連れられて雛罌粟は新天地へと旅立って行った。残された面々はその小さな後ろ姿が見えなくなるまで見送りを続けた。
「ーーげし姉、行っちゃったね」
「そうね」
真凛の言葉に悦子は頷いた。気を抜くと涙が滲んで来そうだった。
(ーー本当に、これで良かったのかしら……)
雛罌粟の意思を尊重したと言えば聞こえは良いが、実際には雛罌粟を金で売ったも同然だ。
隣でしゃくり声を上げる真凜と凛太郎から聞いた話では、雛罌粟は花咲弁当の経営難に誰よりも先に気付き手製のチラシを配ったり子どもなりに色々な策を講じてくれていたらしい。
魔術学校行きを決めた雛罌粟の心の内を正確に知ることは叶わないが、少なからず花咲弁当を憂慮していた事だろう。
(ーー雛罌粟)
悦子の脳裏に過去の記憶が甦る。
あれは今から7年前の事だった。
ある日突然、夫である花咲源治郎が見知らぬ幼子を家に連れて帰って来たのだ。
夫は詳しい理由も言わず「今日からうちで預かる事になったから頼むよ」と平然と宣ったものだ。
当時、悦子は生まれてばかりの双子の世話に追われていた。源治郎は開業してばかりの花咲弁当の事で手一杯で子育てにはろくに手も貸してくれなかった。そんな状況で謎の幼子である……悦子ははらわたが煮え繰り返る思いだった。
『ろくに手伝ってもくれない癖に、いい加減にしてよ……っ!! だいたい何なのよ、その子は……っ!! あんたまさか隠し子じゃ……っ!?』
『本当にすまん。詳しい事は何も言えないんだ。だが、誓って後ろめたい事は何も無いんだ……っ!!』
一時は離婚寸前までいったものの、生まれてばかりの双子を父親のいない子にするのも忍びなく最終的には悦子が折れた。
こうして花咲家は源治郎と悦子の夫婦に双子の真凜と凛太郎、更に預かり子の雛罌粟を加えた五人家族となった。
花咲家にやって来てすぐの頃の雛罌粟は常にぼーっとしていて、呼び掛けてもろくに反応もしない様な子供だった。正直いって不気味だったし、頭に何かしら障害でもあるんじゃないかと疑ったものだった。
それでも悦子なりに真摯に、双子達とも分け隔てなく雛罌粟と接した。
そして、ある日……3人の子供の世話に追われた悦子は育児疲れと睡眠不足が頂点に達し、気を失った。
目を覚ました悦子が見たものは、自分の代わりに双子の世話をする雛罌粟の姿だった。自身もまだ幼子である雛罌粟が双子のおしめを替え、ミルクを作っていたのだ。
よく見れば悦子の額にも濡れタオルが置かれ、腹部にはタオルケットが掛けられていた。
思いがけない状況に目を丸くする悦子に雛罌粟がおずおずと「あ、おばさん……。からだのぐあいはもうだいじょうぶ……?」と声を掛けて来た時の事は今でも忘れられない。
それからの雛罌粟は今までが嘘の様によく笑い、よく喋る様になった。双子の世話も積極的に手伝ってくれる様になり、正直な所……夫よりもよほど頼りになる助っ人となってくれた。
そこから悦子が雛罌粟を自分の娘と思う様になるのにそう時間は掛からなかった。
ある日、悦子は源治郎にこう言った。
『ーーねぇ、雛罌粟の事だけど……。私はあの子のことを実の娘だと思ってるし、真凜や凛太郎もあの子を本当のお姉ちゃんだと思ってるわ。
あんたは詳しい話は教えてくれないけど、きっとあの子の本当の親はこの先もあの子を迎えには来ないんでしょう?
だったらもう、あの子にも花咲姓を名乗らせちゃっても良いんじゃない?』
常磐雛罌粟として花咲家に迎え入れられた雛罌粟だが、悦子としては最早花咲姓を名乗って貰った方が収まりが良い気がしていた。雛罌粟に聞いてもきっと了承してくれるに違いないとも。
しかし、それに対する源治郎の答えはNOだった。
そこから夫婦はまた揉めたが、又しても悦子が折れる形で収まった。
幼い子供を見捨てる様な酷い親であることは確かだが、雛罌粟がいつか本当の親を知りたいと思った時の手掛かりとして本当の姓は有用な筈だと思ったからだ。
一緒に生活していく中で雛罌粟が自分達を大切に思ってくれている事は十二分に感じていたが、それと同時に雛罌粟が自分の出生について興味と関心を持っている事も分かっていた。
(ーーだから、いつかこんな日が来るのは分かっていたわ……)
自分の真実を知るための一歩を踏み出した雛罌粟を思い、悦子は空を仰いだ。
(ーー辛い事や苦しい事があったら、いつでも此処へ戻ってきなさい。此処は貴女の家なんだからね)




