垢嘗
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熱い湿度を孕んだ湯気が、白幕のように視界を覆い、幻夢にのぼせるような空間を作り出している。
ともすれば意識が溶けてしまいそうな湯室の空気に、逆らうような威を放っていた般若。
その物々しい面構えを、女の舌のぬめりがゆっくりと縦断した時、
流石の基平も、桃源の彼方へと微睡みかけてしまっていた。
まるで舌そのものが独立した意思を持つ妖虫のように、男の背中の刺青を這い回る。
加えて女の白い肌が、般若の強面さえも宥めんと、柔らかく吸い付いてくる。
なまめかしい快楽に溺れかけながらも、基平は努めて平静を装い、後ろの女に尋ねた。
「お恭、俺の背中の般若はそんなに旨いか?」
「いえ、旨くは御座いませぬ。
されどこうして舐め続けていれば、いつかこの般若も消えてしまう気が致しまして。
だって旦那はもう、真っ当なお道に戻りたいのでしょう?」
「はははっ、確かにそうは言ったが、刺青はいくら舐めても消えはせんよ。
俺の罪もな」
江戸初期。
大衆浴場で流行りだした湯女という存在は、それこそ初めは客の垢すりだけに目的が限られていたものだ。
しかし、風呂という裸体を解放した密室に、女がいるという状況。
無論それだけに留まるはずもない。
やがて湯女達は湯着を脱ぎ去り、男と混浴に等しい状態となった。
手拭いを使った垢すりは、素肌での愛撫へと変わっていった。
それすなわち、自らの花弁を開いた春のひと時を、男に売る行為に他ならなかったのである。
殺気立った般若の両眼を閉ざすように、
恭の乳房が基平の背に密着してくる。
首に絡みついてくる白い腕は、この熱っぽい湯気がそのまま形を成したもののように、男を心地良く抱きすくめる。
だが、そんな夢心地を引き止めたのは、移ろいゆくひとつの世の流れであった。
「幕府が……
湯女の禁止令を出すらしいな。
今後湯女を置ける湯屋は、吉原の一部だけになるらしいじゃないか」
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公序良俗などという概念が、そろそろ世に滲み出してきた頃なのだろう。
幕府は湯女による売春行為を違法と定め、あらゆる湯屋からそれの排除を打ち出すという。
そうなれば勿論、基平がこの風呂で恭と会うこともなくなってしまうのだ。
火照った体の芯を冷やす、寂しい隙間風を感じながら、基平は恭に聞いてみた。
「お恭、この職を失った後、お前はいかがするつもりか?
やはり、生まれ故郷に帰ってしまうのか?」
女の細い声とともに、吐息が基平の首筋を撫でて返した。
「あたしはね旦那。
偶々同郷の男を客としてもてなした事があるのです。
その男の告げ口によって、あたしの事はとっくに村中に広まってることでしょう。
もう、村には戻れませんよ」
「では、どこぞの遊廓で遊女にでもなるか?」
「今更わたしのような若くもない女を、好んで雇う遊廓もないでしょうに。
せいぜい夜鷹に身を落とすのが関の山」
「夜鷹……か。
それも不憫なことよな」
遊廓の煌びやかな遊女とは違って、夜鷹となればうらぶれた娼婦の印象でしかない。
夜鷹と言う生業を“不憫”とする他に、基平にはもう1つ、湯女の宿命を憐れむ理由があるのだ。
「湯女とは、何とも哀しい生き物よ。
客の体の汚れを落とせば落とすほど、自らの身が汚れていく。
まるで男の穢れを、胃中に喰らっているようなものだな」
自分の口から出た言葉に、基平はふと思う。
毎度恭が、自分の背中を舐め続ける行為こそが、まさに穢れを喰らってるようだと。
なんとなく、
『垢嘗』という妖怪を思い出していた。
人の寝入りに現れては、ひたすらに体を舐め続けると言われる不可思議な物の怪。
幼い頃その話を聞いた時には、それの行いの目的に首を傾げたものだったが……
ともすれば垢嘗も、実は人の穢れを舐めとってくれる観音のような存在なのかもしれない。
だがしかし、いくら恭が舐めたところで、彼の背中の般若と、彼が行ってきた非道な所業は、消えることなどありはしないのだ。
──で、あるならば。
基平は意を宿した顔を上げ、恭の腕をおもむろに掴んだ。
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基平にとっては、前々から腹づもりのあった事だった。
今までそうさせなかったのは、己の身の上に引け目を感じるが故のこと。
だが、恭の行く先も見えぬとあらば、切り出すのは今を置いてない。
「恭、俺と夫婦にならぬか?
互いに汚れてしまった身の上だ。
誰に引け目を感じることもなかろう。
どこか遠い山里で畑でも耕し、静かに暮らそう。
夜鷹なぞになるよりは、まだマシだと思うがどうじゃ?」
基平の耳を撫でていた、甘い吐息がピタリと止まった。
湯室に満ちる湯気が、惑うようにゆらゆらと揺れ踊っている。
今、恭の胸の内にあるのは弾むような歓喜なのか?
それとも、困惑であるのか?
どちらにせよ、押し当てられたふくよかな胸肉の奥に、その鼓動は感じ取れなかった。
板張りの天上に染みた水蒸気が、滴となって基平の膝に落ちた時、
ようやく恭の唇からも、ポツリと細い声が落ちてきたのである。
「旦那、あたしは夜鷹になぞなりませんよ」
「ああ、俺がお前を食わせていってやる」
「残念ですが……
それも叶わぬことなのです」
「なんと……
やはり俺のような男は好かぬか?」
「いえ、旦那はご存知無いのですね?
あたし達湯女は、風呂を失えば湯気となり、虚空へ消え失せる定めなのです」
基平にしてみれば、愕然たる言葉だったろう。
いくらなんでも、人間の体が蒸気となって消え去るなどと言うことはない。
見え透いた戯れ言によって呆気なく避わされた──それだけの事でしかない。
うなだれた基平の声が、落胆の溜め息に乗ったのは言うまでもなかろう。
「湯気となって消える?
それでは本当に、物の怪のようではないか……」
「物の怪……
あるいはそうかもしれませぬ。
人並みの人として生きられぬ湯女は、人以下の生き物に相違ありますまい。
そんな物の怪の女に過分なお言葉を賜ったこと、恭は心底幸せに思いますよ」
女の見え透いた世辞など、もはや基平の耳には入らなかった。
本気で愛した女に、おちょくられた──
その屈辱が、沸々と基平の頭を沸き立てていく。
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思えば基平は、恭の事をそれ程知っている訳でもなかった。
ただこの湯屋の馴染みということでしかなく、恭との思い出は、常に朦朧たる湯気に包まれていた。
普段はどんな色の着物を好んで着るのか?
どんなものを好んで食うのか?
裸体とは、全てをさらけ出した姿であるなどと、いったい誰が言ったのだろうか?
常に基平の前に白い肌を晒してきた女の素顔もまた、
目を眩ますような濃い湯気に阻まれているではないか。
だが基平には、逆にそれが愛しかったはずなのだ。
人間と言うものの醜さを、嫌と言うほど見せつけられてきた彼にとって、
霧中に漂う朧気な裸体こそが、生身の臭気から解放された、人外との触れ合いの時であったのかもしれない。
しかし、夢は覚めた。
恭の返答によって、あやかしの湯気がたちどろこに晴れた気がした。
今更になって気づいた、ごく当然の事である。
恭も、また人。
世にも卑しき、人間と言う生き物。
甘美な声は基平に向けられていたものではなく、男が落とす幾何かの銭に向けられていたもの。
そう考えれば、人は皆、誰とておぞましき妖魔ではないか。
そんなことをとくと知りながらも、まんまとまやかしに巻かれていた自分が、なんとも不甲斐なくて口惜しい。
そう。
人が皆、物の怪であるのならば──
我もまた然り。
般若の如くに血走った基平の目が、黒い光を放ち、
ぬらりと後ろを振り返った。
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“カラン!”
と、湯桶が反響を響かせて壁に当たる。
床に打ちつけられた女の背で、溢れ湯が跳ね上がる。
基平はつくづく思うのだ。
所詮自分は、薄汚れた悪党でしかないのだと。
お天道様に顔を向けた生き方など、初めから無理なことなのだったと。
暗い衝動に押された基平の両手が、組み敷いた恭の喉に食い込んでいた。
湯に濡れ、黒色を帯びた床板の上で、女の肢体はことさらに白く、美しく映えた。
そんな曲線美を踏みにじるように、跨がった男の腕にいよいよ力がこもる。
天上を仰ぐ恭の顔は、抵抗の素振りも見せずに静かに目を閉じていく。
ただ豊満な両の乳房が、まるで見開いた両眼のように、真っ直ぐ基平を見据えていた。
この事の顛末の全てを見留めるように、
先端の桃色の突起から、射抜くような視線が放ち続けられていた。
あまりの無抵抗さに、たじろいだのはむしろ基平のほう。
「恭っ、何故抗わぬっ!?
何故暴れぬっ!?
その爪で俺を掻けっ!
その足で俺を蹴り上げて見せろっ!
これではまるでっ……」
これではまるで、初めからこうなることが解っていたようではないか。
これではまるで、自分によってもたらされる己の死を、待っていたようではないか。
「恭っ、答えろっ!
何故だっ!?
何故お前はっ!?」
塞がれた女の喉から漏れる、ヒューヒューという潰れた息。
それに途切れ混じる、かすれた声。
「旦那……
これであたしは……旦那の穢れを…喰らい尽くすことが……出来そう…です」
「な、なにっ!?」
「これこそが……
旦那を…心から愛した…1人の湯女の本望……」
「黙れ黙れっ!
まだ貴様はわけのわからないことを言って、俺を愚弄する気かっ!?」
激昂でもあり、
激情でもあり、
兎に角滅茶苦茶に入り乱れた感情が、基平の頭を真っ白にしていく。
それはさながら、湯船から絶え間なく溢れ出るその湯気が、彼の脳内を白濁で埋めたようでもあった。
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基平が我に返った時。
湯室を包む湯気が、いつの間にか濃霧のような濃さに変わっていた。
更に、白の空間に溶け込んでいくかのように、女の動かぬ裸体がみるみると霞んでいくではないか。
恭は言っていた。
湯女は風呂を追われれば、湯気になって消え失せるのだと。
まさにそれを具現とするような光景に、基平はただただ目を奪われ、息を忘れている。
しかし程なくして、彼は気づいただろう。
己の目に潤む涙が、こうして視界をぼやけさせていることに。
とめどなく頬を伝うその筋は、決して汗や蒸気ではないことに。
灼けるように熱い胸。
狂おしく絶叫する心。
湯気と同化し、希薄になっていく恭の裸体を見詰めながら、
基平は堪えようのない“痛み”を感じている。
何人もの人間をその手に殺めてきた彼だったが、
心の底からのた打ち回るほどのそんな“痛み”は、おそらく初めての経験だったろう。
基平は、泣いた。
そして基平は、悔いた。
恭を殺してしまったことばかりではない。
これまで己の歩んできた道のりの全てを、今まさに全身全霊を持って神に詫びたのだ。
熱を孕んだ湿度が、幻夢の狭間に男を誘う。
胎児として母の子宮に浴していた頃を、彷彿とさせるような束の間の幻夢。
やがて基平は、下界に産み落とされたばかりの赤子のように、覚束ぬ足で立ち上がった。
1人の湯女によって、穢れを喰らい尽くされた男の行き先は、既に番所と決まっていた。
罪を償うその場所こそが、彼にとっての唯一の救いであるかのように、その目にはもう迷いの色も無い。
物の怪か、あるいは観世音菩薩か──
未知なる畏怖を、時と場合によってそう呼び分けるのならば、そんなものはどちらでも良い。
人を変え、そして突き動かす不可視なそれを、
『心』と呼び変えようとも違和は無し。
虚空に漂う湯気もまた、殻抜けした意思そのものの姿のように、掴むすべ無き躍動を続けていた。
そしてそれは、去りゆく基平の背中を抱き締めるように、
白い温もりとして般若に絡みつくのであった。
~了~
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