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紫陽花の真実

作者: ゲラ

「先生! 俺、今すぐに家に帰らないと持病が悪化して倒れちゃうので、帰らせてくださーい!」

 俺は大きな声でそう言った。

 場所はホームルーム。現在、時刻は十二時半。当然ながら、午後にはだるい授業が残っている。

 しかし、俺は先生に早退させてくれるように頼んでいた。――適当な理由を付けて。

 ……何? そんなに適当な嘘で学校をサボれる訳がないだって? まあまあ、少し待たれよ。

「何だって? それは大変だ。すぐに帰りたまえ。なに、授業の事は気にするな。授業を欠席するには十分すぎる理由があるだろう。私が話を付けておくから、気にせずに帰りなさい」

 先生は目を丸くしてそう言った。

 ほら、嘘だなんて微塵も気づいていない。

 もちろん、先生が尋常ではないほどに鈍い訳でも、俺に呆れ果てているわけでもない。ただ、俺は嘘をついても誰にも疑われず、誰にも気づかれないだけの話だ。

 ……僕が嘘をついても誰にも疑われない事に気がついたのは、小学生低学年の頃だった。それからというもの、俺は節操なく嘘をつくようになった。

 あるときには、自分の働いた悪事の責任を、他人に押しつけるために。またあるときには、学校をサボるために。

 俺は嘘をつくときに、罪悪感などは感じない。だってそうだろう? 誰もが真実だと思っている嘘と、正真正銘の真実と、何が違うだろうか。

 まあ、とにかく。俺は嘘を嘘で塗り固めた人生を、高校生になった今まで続けてきたわけだ。

俺は周りから掛けられる心配の声を受け流して、外に出る。……本当に心から心配してくれる人など誰もいないくせに。

 外は五月雨が降り続いていた。薄い雲を透いて届いた優しい白みが、何故か今の俺には心地よかった。

 リュックから折りたたみ傘を出して、俺は校門を通る。授業が面倒だったから早退しただけで、特に何かやりたいことがあるわけではない。

 気分のままに路地を歩く。小雨が傘に当たって、雫が跳ねる。そんな音が気になるくらい、俺は手持ち無沙汰だった。

 ……いつの間にか、見慣れない場所に来ていた。右側にはありきたりな住宅が並んでいて、左側には、小さな公園があった。俺は何気なくその公園に踏み込む。

 ――瞬間、俺は少し驚いた。この雨の中、公園に行くのは俺くらいだと思っていたのだが、その公園には先客がいたからだ。

 それは、俺と同じくらいに見える、一人の少女だった。彼女は、傘も差さずに花壇に向かって、じっと何かを見つめていた。

 何をしているのだろうか。小雨とはいえ、傘も差さずにいては濡れてしまう。俺は彼女に向かい、声を掛けようとした。

 ……しかし、彼女に少しだけ近づいたところで、思わず立ち止まった。もちろん、声も掛けていない。

 彼女は紫陽花を見ていた。雨粒が滴る、彼女の端正な横顔は、薄紫の花びら一点に向けられていた。

 何故か俺の鼓動が早まる。雨の中、公園の紫陽花を愛でる彼女は。純粋で、無垢で、清らかで。そして今まで見てきた何よりも美しかった。……僕とは違って。

 俺はしばらく彼女に見とれていた。今まで嘘をつき続けていたことを忘れてしまうくらいに。

 彼女の足下で浅緑のカエルが跳ねた。それが、この静寂に終わりを告げる。彼女の視線がカエルを追って、俺の存在に気づいたからだ。

「こんにちは」

 その声が俺に向かって言われたことに、すぐには気づけなかった。

「いつから見てました? 私、雨の中の紫陽花が好きなんです。花と一緒に濡れていると、心の汚れを洗い流してくれる気がして」

 そう言って、彼女は少しはにかんで、微笑む。

「そうですか。俺も、好きですよ。花を愛でるのは」

 俺は嘘をついた。……何故だろう。この場面でこんな嘘をつく必要なんてまったくないはずなのに。

 彼女は少し考え、優しく微笑んだまま言った。

「それ、嘘ですね」

 彼女は俺の嘘を看破した。それでも、俺はそのことを全く驚かずに受け入れることができていた。彼女の前で、純粋無垢を壊すような事はできないと、はじめから分かっていたからなのかもしれない。

「私、嘘がつけないんです。だから、今あなたが言ったことを私が復唱できなければ、それは嘘だと分かります」

 ……彼女と俺は、対極にいた。磁石のN極と、S極のように。

「何故泣いているのですか? 私があなたの嘘に気づいてしまった事があなたを傷つけてしまったのなら謝ります」

 ――そう、僕は泣いていた。瞼から涙が溢れていた。自分でも気づかないくらいに、自然に。今までにないほどに、純粋に。

「いや……、違うんだ。俺が泣いているのは、その逆で…………」

 ――嬉しかったのだ。初めて自分を見てくれた事が。自分の正真正銘の真実に気づいてくれたことが。

「俺、嘘をついてきたんだ。数え切れないくらいに、沢山。でも、どんなにわかりやすい嘘をついても、どんなに同じ嘘をつき続けても、気づかれなかった。気づいてもらえなかった。」

「でも、今。初めて君が嘘だと言ってくれた。君が。だから…………、嬉しくて……」

 俺の頬を雫が滴る。雨の雫か、自分の涙か。

「何故かは分からないけど、私も嬉しいです。あなたの『初めて』の人になれたからかもしれません」

 彼女は手を後ろに組んで、続ける。

「私、あなたの事がもっと知りたいです。あなたの嘘を見抜ける、唯一の人間として」

 俺は思わず会った瞬間から言いたかった言葉を紡いでいた。

「君が好きだ。純粋で、無垢で、清らかで、何よりも美しい君が、誰よりも好きだ」

 ……これが、いわゆる『一目惚れ』というやつなのだろうか。

「……その言葉は、真実ですか?」

 そう言って微笑む彼女は、どんな宝石よりも、この世のどんなものよりも透き通っていて、綺麗だった。

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